1063年 源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝は、1180年鎌倉に入り、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉にはしかるべき大工がいないので、1181年 武蔵国浅草から大工(戦争時の宮大工ら)を呼び、八幡宮の造営が開始されました。 もとは鶴岡八幡宮寺であり、神祇・仏教信仰の両面から祀って護持する宗廟としての役割をになうものでした。 |
2021年のアーカイブ
神社に参拝するとき!
正月は神社にお参りすることが多いですね。治承5年(1181年)に源頼朝が鶴岡若宮に参詣したことが初詣が広まるきっかけになったとの指摘もあるようです。 いつのころからか、生きている間の願い事は神社、亡くなってからはお寺にお世話になるとなっています。 お寺には、あらゆる病に効く薬が入った薬壺をもっている薬師如来、薬は生きている間に使うものです。死んだあとに救済するのではなく、この世で利益を授ける如来として人気を集め、飛鳥時代には信仰が広まったのですが、新コロナが伝染している今、お参りに行く人はそれほど見かけません。 仏教は本来、生きている人を救っていたようですが、今はなんとなく、生きているときの願い事は神社になってしまったようです。新年はやはり神社にお参りですね! |
のノミ跡が残る「鼓岩(つづみ岩)」
生活の快適さはなかなか放棄できない!
福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」
読書が成長と結びつかない!
鎌倉 一遍上人一行が野宿をした「光照寺」
睡眠がうまく取れない!
尾道 もとは浄土寺境内にあった「住吉神社」
豊かな人生とは物質的豊かさ?
厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」
祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1530)開創じされました。開基となったのは地頭庄(荘)左近太夫で、境内に墓があります。 庄左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。 |
冬至の日には、ユズ湯に入る!
福山 鞆 渡守神社・鞆祇園宮を合祀「沼名前神社」
落ちぶれた時にだけは平等を望む!
鎌倉 弁財天を円覚寺の鎮守とした「鐘楼弁天堂」
自然の理に逆らっていない土地をさがすのは大変!
土砂崩れが多くなっています。斜面を崩し、低いところを埋め立て、大規模な団地を造ってきました。クルマを通すため、傾斜地を削り道路を造っています。自然のままなら土砂崩れを起こさないところでも、開発により土砂崩れを起こしてしまいます。 現在の法律は、車が通れないところには家を建てることは出来ません。そのため、どうしても斜面を削り、道路をつくざらるをえません。これも土砂崩れを誘発する原因になっているのでしょう。 現在の技術では、道路に頼らず斜面エスカレーターでも対応できると思われます。エスカレータの屋根に太陽光発電パネルや電気配線を設置し、床下には上下水道を配置し、所々に消火栓をつければ、クルマ用の道路がなくても生活可能と思われます。 エスカレーターの下に商店街や公共交通機関などがあれば、かなり便利になると思うのですが。それに元気なうちは、エスカレータを使わずに階段で上り下りすれば、健康にも良いのでしょうが! |
自分なりの人生哲学を身につけること!
厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」
自分の意見を堂々と主張!
自分を主張しして成果を上げながら、社会の中で生きていくには、それなりの能力が必須です。その能力がある人と、それが少ない人との間には、どうしても格差が生まれます。 旧来の日本は、その欠点を重要視し、その対策として「年功序列」という方式を社会に取り入れてきました。 しかし、海外との取引が増え、同時に能力主義が社会の中で重要と考えられるようになってきたため、旧来の年功序列方式は難しくなりました。 ただ、能力というものは、ほとんどの人が限られた部分でしか発揮できません。すると、社会が変化、あるいは、技術が変化するなど、環境が変化してくると、その変化についていけなくなる人が出てきます。 新コロナの影響で社会が変化するときが来てしまい、今まで評価された能力が、これからも有効であったらよいのですが! |