相手の「微表情」を見抜いているか!

 「微表情」というものがあるそうです。何かに反応する瞬間(0.2秒)に現れる顔の真実の表情です。その瞬間を見逃すと、場合によっては「造られた表向きの表情」になってしまいます。
 子供達は、大人より微妙な顔の表情を見分ける力が備わっているようです。やはり、この瞬間的な微表情を見逃してはいないのでしょう。
 そう言えば、初めて行った町で子供に挨拶をされることがあります。その土地の風土も関係しているのでしょうが、どうも皆には挨拶はしていないようです。何かしらの情報を感じて挨拶をしているのでしょうか?

福山 鞆 「こがらっさん」の愛称の「小烏神社」

 祭神の小烏大明神は(別称:建角身神(八咫烏))。
 建角身神(八咫烏)は『古事記』『日本書紀』によると神産霊神(神産巣日神)のお孫神で神徳高く、国土開拓のために産霊の威徳をもって、神武天皇ご東征の折には先導を務めた。皇軍が熊野山中で荒ぶる神々に苦戦を強いられると、建角身神は八咫烏(やたがらす)に化身し、賊軍の説得に努め、土着の神々を服属させると、ついには皇軍を大和国へと導き、大和平定に多大な功績をたてられた。
 小烏大明神は古来より、国家国民の安穏をご祈願する土地の守護神であり、厄除け、家内安全など人々の暮らしを守る神として、また農耕をひろめ民生の安定に努められたことにより五穀豊穣、殖産興業、商売繁盛など、そして御子神玉依姫を儲けられたことから、縁結び、子育ての神として今日まで篤く信仰されています。一方で、八咫烏(やたがらす)としてのご功績により、導きの神として方除け、交通・旅行安全など多方面に御神徳を顕わしておられるのです。

手回し充電ができるラジオが人気!

 キャンプが流行っているようです。これは災害訓練として良いことですね。できれば、比較的簡単な装備でキャンプを体験していると、災害時には多いに役立つのでしょう。できれば、食べられる野草などでの食事体験があると、もっといいのでしょう。
 温暖化での天候の異変や地震が多発しています。いろいろな条件の中でも生きる術は体験しておきたいもの。その先達はホームレスの人達なのでしょうか。
 動物で環境変化に最も強い種族は、恐竜の子孫である鳥たちなのでしょう!

尾道 クスノキが群生、幹は約8mも「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
 拝殿は、切妻造に掘立柱を基礎とした「神明造り」で、江戸末期に再建されました。
 境内には、かつて艮神の南に形成されていた鍛冶屋町の者たちによって祀られていた金山神社があります。また当神社にはクスノキが群生し、最大のものは高さ約25m、幹は約8mにもなる大木で、樹齢900年とも推定されておリ、広島県天然記念物に指定されています。

争いたくないのに争ってしまう!

 他人との争いが起きるとき、「相手が悪い」、そして「自分は正しい」が基本にあります。ということは、争いの背景には「自己主張することは当然」という思いがあるのでしょう。
 この「自己主張は、本当に当然なことなのでしょうか?」と考えてみたことはほとんどありませんね。ほとんどの国は、自己主張は当然の権利として、その上で社会が成り立っているようです。
 日本もそうなのですが、自己の主張する力が他の国より弱いようです。そこに「曖昧な部分」があり、その曖昧な部分を、人々が自分流に解釈し、行動しているようです。
 災害が多く、山が多く、狭い国土で暮らさなければならない宿命なのでしょうか?
 そんな自己主張だけでは生きていけない環境の中で、周りを気にしながら、自己主張との妥協を図りながら、暮らしてきた環境が、新コロナ対策に対しても効果を発揮しているのでしょうか!

鎌倉 立正安国論御勘由来の大きな石碑「光則寺」

 朱ぬりの山門をくぐると、正面に日蓮の字を刻んだ「立正安国論御勘由来」の大きな石碑が建ち、隣にその説明の石碑があります。その奥の梅林を進むと深い傾斜の屋根をもった本堂があります。この本堂は江戸時代の1650年(慶安3年)に建てたものと伝えられ、修理を加えて今まで続いているものです。本堂の正面に、日蓮が弟子の日朗をたたえた「師孝(しこう)第一」の額がかかっています。

色の持つメッセージ性!

 色彩には情報発信力があるようです。それぞれの地域の文化や風土によって多少の違いがあるようですが、大人の世界では、色の情報発信力は効果的に利用されているようです。
 ただ、子供達が描く絵に潜んでいる情報は、まだ、あまり活用されていないようですね。「虐待」や「いじめ」なども、描く絵の色に何かしら隠されているのでしょうか?

愛川 相模の国峰として盛えていた「八菅神社」

 かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
 八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
 また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
 しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。

知識は「広く」から、そして「深く」へ、そして「広く」へ!

 今はスペシャリストを目指す方が多いように感じます。それだけでは片寄った思考になりやすいですね。
 いくつかの専門分野を身につけた上で、雑学に手を染め、そして、状況を洩れなく把握した上で判断するゼネラリストを目指してほしいものです。
 知識は、現状に即した上で、バランス良く利用できると、大きな力を発揮できるものではないでしょうか。そのためには幅広い知識が必要ですが、実際に行うには難しいことですけど!

尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」

 旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
 境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
 墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。
(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)

出来る人の近くに身を置いてみる!

 脳波「周辺抑制」と言われるように、サーチライトのような見方をする機能があります。専門家は、そのような見方の訓練を積み重ねているようです。しかし、これでは変化の時代に対応できないのでしょう。
 本当の変化の時代に入ってきた現在、今までは、ある意味「答えは一つ」を基本にしていました。しかし、新コロナの蔓延、地球の温暖化、地球人口の増加など、過去の経験があまり役に立たなくなってきています。
 変化を求められる時代になってきていますが、製造業においては、部品供給の海外依存が多く、それらの製造や設計技術にふれる機会も少なくなっており、基本にふれることが少なくなっています。
 大きな変化に対応するには、基本を知って、それから、現状を知って、そして知恵を絞るしかないのでしょう。
 子供時代から、いろいろなものや人にふれ、多彩な見る目を育てておきたいものです!

鎌倉 明治維新で実現した王政復古「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

キリスト教ではハトは聖霊の象徴だった!

 ハトは平和の象徴とされています。旧約聖書のノアの箱舟が由来だと考えられています。しかし、伝書鳩は紀元前5千年とか、紀元前3千年のエジプトで通信手段として使われており、ローマ帝国では軍事用の通信手段として使われていました。
 日本でも八幡神の使いはハトで、八幡神は源氏の氏神で武神です。尾道の古いお寺には「源氏は伝書鳩を使うことが出来、平家は使えなかった」という言い伝えがあるそうです。
 第二次世界大戦で日本軍のタイの通信部隊の人は、「無線はあったが、発電機は重く、山があると無線は届かない。伝書鳩の中には10日も同じ場所にいれば、その場所を覚えるので、軽くて大変有効な通信手段だった」と言っておられたそうです。
 これらのことが関係しているのかわかりませんが、最近は平和の象徴としてのハトの出番が少なくなっていますね!

福山 鞆 元は金宝寺、室町時代寺社名と歴史を換えた「安国寺」

 鎌倉時代に創建され、室町時代に足利尊氏により安国寺と改称された臨済宗の寺。
 安国寺は、南北朝動乱の戦死者を弔うために、足利尊氏・直義兄弟が国ごとに造ったお寺です。この鞆の浦にある「備後安国寺」も、「1339(暦応2)年に尊氏が建立した」という『鞆浦志』(1748年)の記載から、室町時代の建物と考えられていました。
 しかし、後の調査によって鎌倉時代に、金宝寺として創建されたものと判明しました。
 国の重要文化財「安国寺釈迦堂」を筆頭に、作庭家・重森三玲が復元した枯山水庭園や本尊の「阿弥陀三尊像」、それに、「法燈国師坐像」など、文化財の宝庫です。

古代中国の五行思想が雑煮にも!

 日本には古代より中国から多くの文化が入り、日本の縄文時代から続く風土と融合しながら現代まで生き残ってきています。その後も、ヨーロッパ文明を取り入れていますし、世界中のどこの国の文化でも、否定することなく興味を示します。そして、この文化のここは取り入れようと、自分たちの都合(思想に関係なく)で取り入れています。このようにして、古い文化が今の時代にも残り、新しい文化も取り入れていることが、日本文化の特徴なのでしょう。一貫性はありませんが、しかし、時間がたつと、いつの間にか日本の文化に溶け込んでいますね!

尾道 熊野神社から福善寺「丹花小路」

 JRの線路が敷かれる前は、ほぼ真っ直ぐに行くことができたのですが、踏切がないため遠回りになります。

 江戸時代には、石見銀山の銀を運ぶ通路(丹花小路)だったようです。

「丹花小路」

 美しい天然の良港鶴湾にその昔、細長くせりだしていた丹花。鉄道以南唯一の高台としてその跡をとどめ、近所の人いがい通ることのなくなった丹花小路(元は長江一丁目荒神社前から久保一丁目橋本玩具店前)の中間あたりにスッキリした高さ2.1mの宮立型燈寵がたてる。

第二次世界大戦後の日本経済!

 太平洋戦争の後、日本は焦土の中から立ち上がってきました。いままで、これは普通のことと思っていましたが、アフガニスタンの状況を見ると、国家という概念がつくれるのかどうかと考えてしまいます。
 みんなで国づくりをするということはどうゆうことなのか?
 戦後の日本人の多くは、どのような国をつくるかは曖昧だったような気がします。思想的には曖昧なまま、とにかく生活(食べること)を中心にして、前に進んでいたようです。そして、少し食べることに余裕が出来ると、たとえば、畑になっていた庭をもとに戻していました。こんなやり方でまとまって行けた風土が、戦後の経済復興を成し遂げたのでしょう。
 日本の風土に「思想では飯は食えない」ということがあり、ほとんどの人が、どんな思想も受け入れることができ、良い・悪いはどうでもよい、悪ければ直せば良い、そして、直すことが出来る、という風土の基本になっていたのでしょう。
 思想で人をリードし、違反したら罪に問うという指導者がいた時代は、日本では争いが多く発生していた時代のようです。一人の個人が、時と場合により神も仏も信じる、そして、普段は神も仏も意識にない、という風土が、おだやかな国にする原点にあるのでしょうか!

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかった「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
 法界寺は荻野新宿日吉神社脇の大山街道沿いにあり、江戸幕府の山中藩参勤交代の「殿様道」に山門を構えた名刹。
 法界寺は荻野新宿の中央に現存し、戦国時代の末期北条氏家臣松田右兵衛大夫康長の創建によるもの、その後近世初期僧党誉の中興もあり壮大なる本堂を中心にして現存している浄土宗の寺です。

人を助けるのが大好きな人がたくさんいます!

 「自由に考える」という習慣を、いつのまにか失っているのでは、と感じています。小学校から「テストで答えは一つ」という習慣がつき、マスコミでは専門家の解説がほとんどになり、専門家達は答えは一つ、と考えがちです。そんな情報ばかりが周りに溢れていると、自分が自由に考えたと想っても、他人の考えに支配されているのでしょう。
 日本以外では、「答えは一つ」しか正解がないのですが、日本では「あれも正しい」、「これも正しい」ということが許されています。一人の人が、お寺に行くのも良い、神社に行くのもいい、「曖昧」が許されているのです。
 だからこそ、いろいろな知識を自由に集め、その情報を組み合わせ、昨日考えていたことと、今日考えることは、違っても良いという自由があります。
 Aさんとは“こう”、Bさんとは“そう”と、それぞれの場面に応じて良い方法が選ぶことがある程度は許されています。
 ただし、その自由な対応の背後には、多くの知識があればあるほど、的確な対応になるのでしょう。いくつになっても、自分の得意分野以外の勉強も大事なのでしょうね!

鎌倉 腰越 (旧)八王子社(現:小動神社)の別当寺「浄泉寺」

 開山は空海と伝えられ、中興開山は、1558年(弘治4年)に没している元秀(げんしゅう)です。赤い山門を入ると、正面に本堂があります。本堂は公開されていませんが、本尊は左手に剣を持つ珍しい不動明王で、腕を前で交差させています(非公開)。
 昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年(大正6年)まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。こうしたことから、1333年(元弘3年) に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱(もりつな)が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。