菅原道真を祀る荏柄天神社は古来学問の神として信仰が厚く、大宰府・北野と並んで三天神とよばれ、室町時代以降、詩歌の献詠が盛んであった。また寃罪を判ずるとする古い信仰もあって、『吾妻鏡』に渋川守兼の歌を献じて至心を訴えた記事が見えている。
右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。
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座間 相模の飯綱さま「座間神社」
「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われている。
一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
別の説(明治十二年編成皇国地誌)では、約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もある。
鎌倉 「北条義時法華堂跡、大江広元の墓」
大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
島津忠久の墓は1779年に修造、大江広元の墓は1823年に造られたもの。薩長同盟が1866年、もと鎌倉御家人で、三浦一族が亡んだとき、大きな打撃を受けた両家を先祖とする長州と薩摩が、江戸後期においても、なんとなく親近感が残っていたのでしょう。それが、明治維新に手を結んだ一因になったのでしょうか。なお、毛利秀光の墓は元々は鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、大正時代になってここに移されました。
鎌倉 日親21歳、百日境内の池で修行「妙隆寺」
寺伝によると、1385年(至徳2年)、日英を迎えて寺か建立されたそうです。
山門を入ると、正面の本堂の右手には「血の池」と呼ばれる日上人修行の池があります。その奥には、日親石像を安置する日親堂があります。
日親が21歳のとき、「仏の教えを広めるためには、苦しみに負けないように修行しなければならない」と考え、百日間境内の池で水を浴びてお経を唱えました。それから、毎日自分の爪を1本ずっ抜き、出てきた血で墨をすり十界の曼荼羅(まんだら)をかいたそうです。そして、熱い湯の中に手を入れ、その湯がさめるまでお経を唱えたそうです。曼荼羅とは仏の世界や教えをわかりやすく図に示したものです。
鎌倉 日本三虚空蔵ともいわれる「虚空蔵堂」
聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は、毎年1月13日に御開帳して拝める。
また、1月、5月、9月の13日には「護摩焚き供養」が行われている。
鎌倉 今宮神社ともいう「新宮神社」
祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。
「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。
その争いに勝つには勝ったものの、幕府は後鳥羽帝の怨霊をおそれ(実際にさまざまな怪異が生じたという)、1247年(宝治元年)四月に当社を創建した。そのときか、のちのことか不詳ながら、順徳帝を合祀、土御門帝は明治以降の合祀である。
鎌倉 将軍御成の門があったという「妙法寺」
旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。通師・堀ノ内法縁。
建長5年(1253年)に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、現在も境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑がある。ただし、ごく近隣の安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は草庵が置かれた建長5年としている。
実質的な開山は日蓮より数えて第5世となる楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)で、延文2年(1357年)のことである。
鎌倉 持仏堂があった所に「白旗神社(法華堂)」
白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮と並ぶ崇敬を集めた。
江戸時代末までは寺院として法華堂があった。明治維新に白旗神社と改められた。
鎌倉 佐竹氏代々の居住地にある「大宝寺」
室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。
本堂には、本尊の三宝本尊と四菩薩像、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天と鬼子母神像などがまつられています。
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」
1274年の創建。開基は北条氏の家臣・宿谷光則(やどやみつのり)、開山日朗上人。
開基の宿谷光則は、日蓮が佐渡に流罪になったとき、ともに捕らえられた日蓮の高弟日朗を幽閉し監視する任についたが、日朗は自らの不運を嘆くことなく、弟子の案ずる姿に心打たれた光則は、後に日蓮宗に帰依し、屋敷を寺にしたといわれる。
1650年建立の本堂の中には非公開ではあるが、日蓮、日朗の坐像が安置され、境内の後山には日朗が幽閉されたという土牢跡が残っている。
鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」
北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。
1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。
鎌倉 日蓮上人が草庵をむすんだ寺「長勝寺」
安国論寺とならび、日蓮上人が松葉が谷に来て初めて草庵をむすんだ寺といわれる。
石井長勝が日蓮に帰依し、1263年に本圀寺を創建したのが始まり。
日蓮上人の四大法難のひとつである「松葉が谷焼打の法難」はこのあたりであったと伝えられる。その後廃寺となったのを日清が再興し、開基の石井長勝にちなんで長勝寺と名づけた。
鎌倉 風情のある住居のような「長寿禅寺」
建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。
石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺というのでしょうか。昔の人は智慧があるのですね。
開山は古先印元。開基は足利尊氏といわれています。
鎌倉 蛭子は「えびす」とも読む「蛭子神社」
昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまっられていました。
本殿は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。
鎌倉 後醍醐天皇が書かれた額「光触寺」
もとは真言宗の寺でしたが、1279年(弘安2年)に一に帰依した作阿を開山とし、時宗に改めたといいます。開山とは、新しく寺を造ったときの創立者の僧のことです。
現在の本堂は、改修されていますが江戸時代の建物で、内部の正面には後醍醐天皇が書かれたと伝えられる「光触寺」の額が掲げられ、本堂内陣の装飾は美しい極楽の世界を作り出しています。本堂の前を横切ると池があり、その奥に菖蒲園があります。
鎌倉 首つぎのぽたもち伝説の「常栄寺」
常栄寺は「ぼたもち寺」とも呼ばれて親しまれているが、なぜそう呼ばれるかといえば、文永8年(1271)9月12日の出来事にさかもぼる。幕府に捕らえられた日蓮が、片瀬の龍ノ口で処刑されるされそうになると、日蓮に帰依していた棧敷の尼が、ゴマのぼたもちを日蓮に捧げた。すると、形状に雷鳴がとどろき、稲妻がひらめき、刑吏の刀が折れ、日蓮は一命を取りとめたと伝えられている。
鎌倉 [おんめさま]の名で親している「大巧寺」
「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。創建は1320年と伝えられています。
本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。
境内にて 季節ごとに多くの種類の花々がさきます。
鎌倉で初めて建てられた臨済宗のお寺「寿福寺」
鎌倉五山の寿福寺は鎌倉で初めて建てられた臨済宗のお寺で、頼朝が没した翌年の正治元年(1200)北条政子が栄西を招いて創建したお寺である。裏山には北条政子、源実朝の墓と言われる唐草やぐらがある。
市内扇ケ谷の寿福寺背後の山。この山の各所に鎌倉石を切出した石切場があったことがら石切山と呼ばれた。鎌倉の山には他にも石切場が多いが、特に石切山の名が付けられているのはこの山だけ。
鎌倉 日野俊基卿の足跡を追慕「葛原岡神社」
葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。