“『放浪記』(林 芙美子 著)の一節
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海にさしかかると、慎煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、
左の放浪記の一節を見たとき、この写真の光景が浮かんできます。”
TEL.03-1234-0000
〒163-0000 東京都○○区○○○1-2-3

この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。
境内の神輿庫には、神輿が安置されていて、「寛永十九年」(1642年)の棟札(むねふだ)がかかっています。
例祭では、五所神社を出発した神輿は、昔から伝わる「天王謡(てんのううた)」を唄いながら材木座の町内を練り歩いた後、材木座海岸で海に入ります。
神さまが神輿に乗ったら、神社に神さまがいなくなってしまうのでは?
それは心配無用。神さまは分身可能です。
神社にも神輿にも、そして三社祭のように神輿が多いときにはそのすべてに、同じ神さまが同時に存在しているのです。
そんな神輿の起源は、奈良時代の749年。
八幡宮の総本社とされる宇佐(うさ)神宮の八幡神が「都に上り、東大寺の建立を援助する」と決意し、奈良に出向きました。このとき、紫色の「輦輿(れんよ)」という輿に乗ったのがはじまりです。
“ 日蓮の御小庵が焼かれた後、ここには法華堂(ほっけどう)が建てられ、本圀寺(ほんこくじ)となりましたが、室町時代の初めに京都に移されました。その跡地に護良親王(もりよししんのう)の遺子(いし)日叡(にちえい)が父の霊を弔うため、1357年(延文2年)に寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれています。
妙法寺の寺名は日叡がいたところの妙法房(みょうほうぼう)から、山号は日叡の幼名りょう巌丸(りょうげんまる)から付けられたといわれています。
この妙法寺は南北朝から室町時代にかけては寺の勢いが盛んで、塔頭(たっちゅう)が5院あったということです。また江戸時代、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)が参拝し、明治30年ごろまで、将軍御成(おなり)の門があったといいます。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より”
“ 温水(ぬるみず)の阿弥陀様(南毛利地区)
昔、聖徳太子は、尼寺ヶ原に一乗尼寺というお寺を建てました。それから数百年たった鎌倉時代、源頼朝の妻・政子が、衰えていた一乗尼寺を再建しました。
ところが建長四年(1252)の夏、寺は火災にあって全焼してしまいました。その時です。ひとかたまりの真っ赤な炎が空を飛んで、少し離れた池の中に落ちました。村人が不思議に思って池に近寄ってみると、池の中ほどに、一乗尼寺の本尊である阿弥陀如来が光り輝いて立っているではありませんか。池に手を入れてみると水が温んでいました。村人はこの様子を見て、これは仏様のありがたい思し召しであると思い、ここに寺を建て、専念寺と呼びました。この池は「光温池」として残っています。
また、池の水が温んだことにちなみ、この地を温水というようになりました。
【出典】『あつぎ子ども風土記』『厚木の伝承と地名』”

当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。
いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。
鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
【鼓岩とお姫様】という民話があります。
戦国の世、千光寺山には木梨山城主(木ノ庄町)杉原氏の出城「権現山城」がありました。
城にすぐ近い南の山道にある大岩は、お姫さまや、若君のこの上ない遊び場でした。
大岩は、優しい奥方さまやお姫さまが大好きで、お城から聞こえてくる琴や鼓の音に、うっとりと聞きほれていました。
コロコロ コロコロ コロリンシャン、
ポン ポンポン ポン ポンポン
大岩は毎日が宴のように楽しい気分でした。…………
“ この岩の垂直面に尾道で最大の磨崖仏、不動明王が刻まれています。
この岩上からの眺めは、多くのカメラマンが訪れるフォトジェニックな場所です。小津安二郎(おずやすじろう)監督(尾道を舞台にした「東京物語」の監督)のファンであるドイツのヴィム・ヴェンダース監督もここを訪れ、カメラマンである婦人の見事な景色の写真が、原宿で行われた展覧会に出品されていたのが2006年でした。
ここには岩を切り取ろうとした跡があります。あいている穴のことを矢穴(やあな)といいますが、ここに矢穴の数だけ襖(くさび)を打ち込んで、順番にたたいて徐々に岩を裂くように割る、昔からの手法の跡が尾道の岩には数多く残されています。”
“ 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。
石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。”
“ 厚木市古民家岸邸として開館されています。
古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。
随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。
今ではまったくありませんが。 ”