聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。
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尾道 天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」
鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」
元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。
福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に造られた福禅寺の客殿。
座敷から一望できる仙酔島や弁天島が浮かぶ鞆の浦の眺めは素晴らしく、江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場となっていました。
正徳元年(1711)、朝鮮通信使の李邦彦がここを訪問した際、対潮楼から見た景色を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛しました。
幕末に坂本絵龍馬の海援隊が運用する「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(880トン)が衝突する日本初の蒸気船海難事故「いろは丸事件」の際、坂本龍馬(武器商人か?)ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行なった場所にもなっています(本来は「いろは丸」側に非があったものの、坂本龍馬は紀州藩側の、本来積んではいないと思われる積載物の損害賠償を求めています)。
厚木 高遠藩の石工達が出稼ぎで石仏を「広沢寺」
鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
2022年3月新しい展望台が「千光寺山 山頂」
福山 鞆の大仏とも、阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」
鎌倉 明治維新、南朝の復活か「日野俊基朝臣の墓」

俊基の墓は国指定の史跡となっており、1887年(明治20年)に俊基の霊を祀る葛原岡神社が建てられています。
日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
南朝の忠臣としてその功ならず、元弘二年(1332)悲憤の最後を偲んで、別格官幣社に昇格ずる運動があったが、実現しなかった。戦後単立法人となった。
現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。
尾道 もとは祇園社、祭は今も祇園祭「八阪神社」
厚木 梅樹に明星が降臨したという「妙伝寺」
鎌倉 新田義貞が鎌倉攻め本陣跡に建てた「九品寺」
創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。
1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。
尾道 天保の大飢饉の慈善事業で本堂を建築「慈観寺」

本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた=柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた=柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」
ここは、もと扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉家の家老のような役目だった太田道灌(おおたどうかん)の屋敷のあったところといわれています。そばにある「太田道灌邸旧蹟(きゅうせき)」の史跡案内の石碑には、太田道潅やお勝の局(つぼね)についての説明が刻まれています。
この寺を建てた英勝院は太田道潅の4代の孫太田康資(やすすけ)の娘で、徳川家康(とくがわいえやす)の側に仕えてお勝(かつ)の局(つぼね)と呼ばれていました。家康の信頼厚く、後に水戸家初代の徳川頼房(よりふさ)の養母となった人です。家康が亡くなると、尼(あま)となり英勝院と呼ばれました。やがて祖先ゆかりの地を3代将軍家光からいただき、1636年(寛延3年)に英勝寺を完成させました。
福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」
鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」
厚木 古民家は、当時の生活を色濃く伝える「岸邸」
尾道 豪商の寄進で再建〈持善院〉
鎌倉 昔の高い道のところに置き去り「成就院」
座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」
宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。
鷹狩りの獲物はハト、このお寺の裏には鳩川が流れています。
ところで、日本には伝書鳩がいたにもかかわらず、伝書鳩の話はほとんどないですね。唯一知っているのは、尾道にある浄土寺の話だけです!