鎌倉 護良親王の偉勲をたたえる「鎌倉宮」

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(別称:大塔宮) 祭神:護良親王(後醍醐天皇の第一皇子)
 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。

鎌倉 極楽寺駅から成就院へのみち

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 現在のように完全舗装されたのは1961年度。それ以前は砂煙り濠々として、バイクや徒歩で往く際は目つぶしを食い、凸凹で危険きわまりなかった。
 大正十年に自動車が通るようになったというから、実に六十五年間も未舗装であって、いわゆる。道路予定地。だったというわけである。今は50ccのバイクでもスルスルと登ってしまい、何の苦労もない。


鎌倉 鎌倉七切通の一つ「化粧坂」

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 鎌倉市扇ガ谷・山ノ内・梶原・佐助鎌倉から藤沢や武蔵方面へも通じる重要な切通道で、中世のやぐら群などがあり、1333年(元弘3年)の鎌倉攻めの際には鎌倉方の防御の拠点となりました。
 この仮粧坂は鎌倉七切通の一つで、今も昔の面影を残し、国の史跡になっています。


鎌倉 日蓮の鎌倉での布教の中心の跡「安国論寺」

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 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
 日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟といい、『立正安国論』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟」と呼んでいました。


鎌倉 蛇に化けた若狭局を祀る「蛇苫止堂」

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若狭局を祀る社
 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺の守護神となっています。


鎌倉 日蓮にぼたもちを供養した「法源寺」

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 日蓮の孫弟子である日行が1318年(文保2年)に開いたと伝えられ、本尊は三宝本尊で日上人像とともにまつられています。
 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口の法難の日蓮にぼたもちを供養したといわれます。大町の常栄寺にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。

鎌倉 日上人修行の「血の池」がある「妙隆寺」

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 山門を入ると、正面の本堂の右手には「血の池」と呼ばれる日上人修行の池があります。その奥には、日親石像を安置する日親堂があります。
 日親が21歳のとき、「仏の教えを広めるためには、苦しみに負けないように修行しなければならない」と考え、百日間境内の池で水を浴びてお経を唱えました。それから、毎日自分の爪を1本ずっ抜き、出てきた血で墨をすり十界の曼荼羅をかいたそうです。そして、熱い湯の中に手を入れ、その湯がさめるまでお経を唱えたそうです。曼荼羅とは仏の世界や教えをわかりやすく図に示したものです。

鎌倉 諏訪一族の屋敷跡と伝える場所「諏訪神社」

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 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。


鎌倉 もとは新居の閻魔堂というお堂「円応寺」

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 新居の閻魔堂は、知覚禅師が1250年(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明神社の近くの「由井郷見越岩」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。材木庵の九品寺の近くに「新井閻魔堂址」の史跡案内の石碑があります 。
 新居の閻魔堂はその後、1703年 (元禄16年)に地震や津波でお堂が壊れたので、まもなく現在の場所に移されました。



鎌倉 北条政子の法名が寺名になった「安養院」

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 安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺がありましたが焼失しました。北条政子が亡き夫源頼朝の冥福を祈って、笹目(ささめ)に建てたともいわれる長楽寺が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。



鎌倉 鎌倉で最も古い天台宗の寺『杉本寺』

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 731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。
 その後、光明皇后は夢の中で、
 「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
 「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。



鎌倉 横須賀線施設で廃寺となった「辻薬師堂」

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 もとはJR横須賀線の名越のトンネルの西の谷にありましたが、後にこの地に移されました。横須賀線が敷かれたとき、その線路が境内を横切ることになり、本堂が取り壊されて廃寺になり、薬師堂だけが残ったということです。
 また、一説によると、長善寺は江戸時代に焼失し、薬師堂だけを残して廃寺になったともいわれています。



鎌倉 1903年までは尼寺だった「東慶寺」

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 鎌倉には尼寺として、東慶寺、知足寺、海岸尼寺、法華寺などが存在した。江戸時代、東慶寺は縁切寺として有名で、当寺に逃げ込んで、髪を切り、経を読み、和裁などを行って、二年間を過ごし、その後離婚が認められていた。
 江戸時代も「DV=夫婦間暴力」があったのでしょうね。今もDVやがある世の中、「縁切寺」(DVシェルター)としての役割を果たすお寺さんがあってもよいのではないでしょうか。



鎌倉 空海が護摩を焚いて修行跡に「成就院」

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 坂の頂部に近い左手の石段を上ると、古義真言宗の寺、普明山成就院がある。山ノ内の長寿寺、円応寺などと同様、昔の高い道のところに置き去りにされた格好であり、この寺の場合は主要観光ルートから外れているので、常に粛然と静まっている。縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。



鎌倉 五つの神社を一緒にして祀った「五所神社」

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 境内には、「寛文十二年」(1672年)の年号がある庚申塔などが13基あり、庚申塔の由来の立札も立っています。そのほか、大きな石をまつった石上稲荷大明神や祭りのとき唄われる「天王謡」の由来を書いた立札などがあります。



鎌倉 明治時代に小学校が建てられた「啓運寺」

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 1876年(明治9年)頃、ここに桑楊学校という小学校が建てられ、乱橋・材木座・大町の三ケ村の子ども達が通いました。その後1882年に、光明寺の千手院境内に移り、乱橋・材木座の子ども達だけが通い、大町村の子ども達は、別願等に建てられた大町学校に通いました。
 また、明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法」の名画を描いたということです。


鎌倉 行基が行脚の途中修行した「虚空蔵堂」

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 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 石段を上ると虚空蔵堂があります。ここは道の向い側の山の上にある成就院が管理している所です。
 本尊の虚空像菩薩は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。
 源頼朝もこれを敬い、ご本尊は秘仏として35年に一度だけ拝めるようにしました。けれども今は、毎年1月13日に御開帳して拝めるので、受験の時期でもあり、たくさんのお参りがあります。


鎌倉 中世の状況を残す「浄光明寺」

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 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。


鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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祭神菅原道真公。
 菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。父祖以来の私塾である「藤原廊下(東大と京大を一緒にしたようなもの)」を引き継ぎ、そこの学長になった。
 57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。


鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願した「小動神社」

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 小動(こゆるぎ)の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。
 縁起によれば、源頼朝に伊豆配流(はいる)の時代から仕えた佐々木盛綱(もりつな)が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請(かんじょう)したものと伝えられています。元弘三年(1333)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。