鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」

 鎌倉市御成町にある諏訪神社は諏訪氏の屋敷内にあった守護神が移されたも。祭神は建御名方神(たけみのかたのかみ)。
 信濃国一宮の諏訪社大祝職である諏訪盛重は承久の乱(1221年)の後に北条泰時に被官し、1236年に泰時の邸宅が新造されると、尾藤景綱と共にその敷地内の北条屋敷横に屋敷を構え、諏訪池の東側に諏訪神社を祀ったとされる。
 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」

【日蓮と白猿の話】
 1260年(文応元年) 8月のある日、日蓮は草庵で静かに読経をしていました。夜もふけたころ、机に寄りかかってとろとろ眠っていると、白い猿が3匹現われ、上人の衣にすがり、袖を引いて表の方へ引き出そうとします。上人は引かれるままに表へ出ると、ふもとの庵の方で割れるような大声とともに、たい松の火が20や30くらいちらついて見えました。何事かと思う間もなく、草庵に火をつけたらしく、火の手はたちまち燃え上がり、人々の叫び声が手にとるように聞えてきました。洞窟の前に立ってこのありさまを見ていた日蓮は、猿の手をとって洞窟の奥深く入りました。

鎌倉 忍性が熊野本宮から勧請した「熊野神社」

 もとは新宮社と称し、1269年(文永六年)忍性が熊野本宮から勧請したと伝えられ、鎌倉時代、極楽寺全盛時より熊野新宮と号し、極楽寺の鎮守社として広く神域を領して鎌倉幕府の崇敬を受けていた。
 祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、素斐鳴命(すさのうのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)である。
 極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の二社があったが、関東大震災で倒壊したため、昭和三年に当社に合祀された。

鎌倉 江戸期に当地へカムバック「成就院」

 縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。
 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、
 1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失した。
 兵火の後、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバックした。

鎌倉 四季の花が楽しめる「長谷寺」

 鎌倉時代以前からある古寺。736年の創建、開山は徳道(奈良長谷寺の開祖でもある)。坂東33ヵ所観音霊場の四番札所であり、本尊の十一面観音は高さ9.18mある。
 寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。
 その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。
 むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。

鎌倉 龍口寺輪番でもっとも早く建てられた「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 本龍寺は龍口寺輪番八ヵ寺のうち、もっとも早い時期に建てられた寺である。1302年(乾元元年)日行によって開かれた。創建時には与蓮山(よれんざん)という山号であったが、輪番寺になり龍口山とあらためられた。

鎌倉 足利尊氏が後醍醐天皇への挙兵決意「浄光明寺」

 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

鎌倉 鼻高く眼光の鋭い異人「建長寺半僧坊大権現」

 無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
 その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。

鎌倉 地元では大塔宮ともいわれる「鎌倉宮」

 二階堂に鎮座。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮ともいわれている。祭神は護良親王。境内に摂社南方社(祭神南ノ方)村上社(祭神村上義光)がある。例祭八月二十日。もと官幣中社。明治二年七月勅令により創建。明治六年、明治天皇の行幸があり、その行在所は一部宝物の陳列所としている。境内は東光寺跡。本殿背後に土牢があり、祭神幽閉の処といラ。親王の墓は東北にあたる理智光寺趾の山頂にあって、宮内庁の所管である。九月二十二、三日の両夜、観光協会の主催で薪能が奉納される

鎌倉 日蓮の弟子である六老僧が建てたとも「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵(そうあん)を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

鎌倉 四条金吾の屋敷跡に「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。
 日蓮が開眼し改宗したのは慶長五年(1253)、日蓮32歳の時。比叡山延暦寺で天台宗を修めた日蓮はその後、奈良、京都のいろいろな宗派のお寺でも学び、法華経にたどりつく。そして、生まれ故郷の安房の国で開宗する。蓮長という名を改めに日蓮と名乗った。

鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」

 境内には清明石なるものがある。昔は十王堂橋を渡った道路の真ん中にあったらしい。この石をわざと汚したり、踏みつけたりすると祟りがあるという。しかし、この石を知らずに踏むと足が丈夫になり、足を痛めた人は石を清水で洗い、塩や線香をあげて拝むと治るとも言われたという。道路工事のため八雲神社に移された。清明とは平安時代の陰陽師安倍清明(あべのせいめい)のことであろうが、鎌倉には火事と清明にまつわる話が残されている。治承4年(1180)10月に鎌倉に入部した頼朝は、当初山ノ内にあった知家事兼道なる人物の館を移築してそこに住んだという。この家は「晴明朝臣鎮宅の符」があったため200年間火災にあっていないという由来があったという。山ノ内には安倍清明の屋敷があったという言い伝えがあるが、明確ではない。

鎌倉 寺地工事中、地中から石櫃が現れた「円覚寺仏殿」

 寺名・寺地は、はじめ北条時宗と蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃(いしびつ)が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。白鷺池・国師来朝の際、八幡の神霊が白鷺に化身、国師を導いてこの池に降りたったのを記念して名づけられたという。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」長峰五幸著より)

鎌倉 時宗宗祖・一遍は「ものを捨てよ」と「光触寺」

 光触寺は、もともと、作阿上人による真言宗の寺だでした。しかし遊行中の一遍上人が弘安五年(1282)、このお寺を訪れたとき、一遍上人に帰依したことで時宗に改宗したといわれています。一遍に帰依した作阿を開山とし、時宗(に改めたました。
 現在の本堂は、改修されていますが江戸時代の建物で、内部の正面には後醍醐(ごだいご)天皇が書かれたと伝えられる「光触寺」の額が掲げられ、本堂内陣の装飾は美しい極楽の世界を作り出しています。

鎌倉 鎌倉にある唯一の尼寺「英勝寺」

 太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。
 お勝の方(英勝院尼)の逸話。あるとき江戸城内で家康公が大勢の家臣たちとの雑談の折、「およそ食物のうち、一番うまいものは何じゃ?」とご下問があった。めいめい一番うまいものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。およそ食物の味をひきたて、旨くするも、まずくするも、塩加減ひとつでございます」と答えた。料理で苦労した人でもあったのでしょう。

鎌倉 鎌倉らしさを漂わせる「覚園寺」

 モンゴル襲来の後に、その撃退を祈願して、北条貞時か心慧智海(しんえちかい)を開山として建てたものです。開山塔や大燈塔(だいとうろう)は国重文で、裏山には、鎌倉特有の死者を弔う形として発展した「やぐら」が多数あり、「百八やぐら群」と呼ばれています。
 1218年(建保6年)に北条義時(よしとき)はこの地に大倉薬師堂を建立しました。北条氏の信仰を集めたこの薬師堂をもとに、1296年(永仁4年)北条貞時(さだとき)が、再び元寇が起こらぬことを祈って心慧(しんえ)を開山として改めて建立したのが覚園寺です。

鎌倉 日蓮が一時、この夷堂に滞在「本覚寺」

 この寺を開いた人は、一乗院日出(にっしゅつ)です。この人は、寺の縁起によればもとは学者でしたが後に日蓮宗の僧になりました。生まれた所は、駿河の国(今の静岡県)三島で、いろいろな迫害や苦労にたえられる修行をしました。その後、鎌倉の夷堂(えびすどう)に住み、教えを広めようとしましたが、他の宗派の人々の反対にあい、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に捕えられ、刑場で殺されそうになりました。しかし、夷神(えびすがみ)のお告げにより許されたといわれます。このことがあって持氏は、夷堂のあったところに本覚寺を建てて日出に寄進したそうです。

鎌倉 桟敷尼が日蓮にぼた餅を差し上げた「常栄寺」

 この寺の裏山は、かって源頼朝が由比ケ浜の放生会(ほうじょうえ)を見物するために、展望台のような桟敷を設けたところだといわれています。後に、ここに住んだ将軍宗尊親王(むねたかしんのう)の家臣で、日蓮宗の信者であった兵衛左衛門の妻は桟敷尼と呼ばれました。桟敷尼は、1271年(文永8年) 9月12日、捕われの身となった日蓮が馬で龍ノ口の刑場に引かれていくとき、ごまのぼたもちを作って日蓮に「仏のご加護がありますように」と差し上げたということです。このぼたもちのおかげでしょうか、処刑されそうになった日蓮を助ける奇蹟が起こりました。このことから、「首つぎのぽたもち」ともいわれ、有名になりました。