鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 石段を上ると、山門の右側に「子育て地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが立っています。このお地蔵さまに、子どものことについてお願いするとかなえてくれると信仰されています。
 山門は明治のはじめごろ廃寺となった東渓院(とうけいいん)から移したもので、「くるす門」ともいわれ、キリスト教の十字の紋がある珍しい門です。江戸時代に鎌倉にもキリスト教の信者がいたのではないかと思われい本堂内にはキリシタンが使用したとみられる燭台(しょくだい)が2基あります。

鎌倉 退居寮として開創「白雲庵」

  正和年間(1312~16)に退居寮として開創。 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」

 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
 昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。

鎌倉 源氏が衰退の原因か?「永福寺跡」

 頼朝の死後。二代目の将軍になったのは息子の頼家。 こんな豪華な建物を受け継いだ頼家なんですけど。家臣たち、御家人たちは、「次の将軍さまは何やってんの」というような、不信感を抱いてしまった。それは、頼家がここで何とをやったのか? なのですが、二代目将軍頼家の永福寺での行いに、家来たちは不信感を募らせたといいます。
 どんなことをやったのかというと、京都から文化人を呼び寄せ、遊びの名人を呼び寄せ、頼家はここでどんちゃん騒ぎや蹴鞠をやったり、遊び場にしてしまったのだという。しかも京都から人を呼び寄せており、武士よりも朝廷の貴族たちを大切にしているとして、家来たちが不信感を抱いていった可能性があるのだ、と思われます。

鎌倉 薬師堂だけが残った「辻薬師堂」

 ここには医王山(いおうざん)という山号の長善寺(ちょうぜんじ)があり、寺の伝えでは、奈良時代の神亀(じんき)年間(724~729)、鎌倉にいた豪族で「由比の長者」といわれた染屋太郎時忠(そめやたろうときさだ)が建てたといわれますが、確かなことはわかりません。もとはJR横須賀線の名越のトンネルの西の谷にありましたが、後にこの地に移されました。横須賀線が敷かれたとき、その線路が境内を横切ることになり、本堂が取り壊されて廃寺(はいじ)になり、薬師堂だけが残ったということです。
 また、一説によると、長善寺は江戸時代に焼失し、薬師堂だけを残して廃寺になったともいわれています。

鎌倉 果てしなく大きな智慧と福徳がある「虚空蔵堂」

 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は毎年1月13日に御開帳して拝める。

鎌倉 頼朝が戦いで大勝したため改名「大巧寺」

 創建は1320年と伝えられています。
 この寺は、はじめ大行寺(だいぎょうじ)といって十二所しありました。頼朝がある戦いのとき、この寺で練った作戦によって大勝したため、大巧寺と名を改めるよう命令したそうです。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになりました。

鎌倉 法然上人が開祖か「鎌倉大仏高徳院」

 開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
 当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
 1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
 かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。

鎌倉 敵味方の区別なく慰める「円覚寺」

 鎌倉時代の1282年 鎌倉幕府執権北条時宗が元寇(文永の役)戦没者(両軍の兵士)追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
 文永の役(1274年)に続いて、弘安の役(1281年)も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。
 円覚寺の経営を主に支えた荘園は、尾張国富田庄(名古屋市)で、円覚寺の寺僧が派遣され海上交通を利用し結びついていた。
 この寺は度重なる兵火や失火等の災害によって多くのお堂を焼失した。現在ある建物は1703年(元禄)の大地震以降再建されたものです。

鎌倉 松葉ケ谷法難の跡「安国論寺」

 寺地は松葉ケ谷法難の跡と伝える。本堂のほか、御小庵・庫裡・山門・熊王稲荷大明神尊殿などが伽藍を形造っている。日蓮が寵って『立正安国論』を執筆したという巌窟も残る。本堂の本尊木造日蓮上人坐像は昭和三十八年の造立。建物も新しい。御小庵の本尊は『立正安国論』を書いている姿を形どった木造日蓮上人坐像。これら以外、鬼子母神および十羅剃女立像・七面大明神立像・大黒天立像・日朗上人坐像などの木造像もまつられている。熊王稲荷大明神尊殿の本尊は木造稲荷明神騎狐像。他に古文書・絵画等も伝わる。

鎌倉 八幡太郎義家が白旗を立てた「源氏山公園」

 源氏山は、英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。

鎌倉 祖先をまつる神社「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

鎌倉 中興開基は足利尊氏の父・貞氏「浄妙寺」

 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。
 文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利尊氏の父・貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。

鎌倉 もとは瑠璃光寺ともいった「寶善院」

 もとは泰澄山(たいちょうざん)瑠璃光寺(るりこうじ)ともいったと伝えられています。奈良時代の天平神護(てんぴょうじんご)年間(765年~767年)に越後の国の僧で越(こし)の大徳(だいとく)といわれた泰澄(だいちょう)が、日ごろ信仰していた十一面観音をこの土地にまつったのが寺の起こりだと伝えられていますがはっきりしていません。泰澄は、加賀(今の石川県)の白山を開いたといわれる人です。越というのは、越前・越中・越後の三国をまとめた呼び名で、今の福井・富山・新潟の三県のことです。また大徳(だいとく)というのは、並ぶ者のないほど徳の高い僧であるということです。

鎌倉 鎌倉十井の一つ底脱ノ井「海蔵寺」

 海蔵寺の入口の右手に、鎌倉十井(じっせい)の一つ「底脱ノ井(そこぬけのい)」がありますが、この井戸には、次のような話が伝わっています。
 室町時代のころ、上杉氏の娘が尼になって修行していた時のことです。
 夕飯の仕度に水を汲むと桶(おけ)の底がすっぽり抜けてしまいました。そのとき心の中のもやもやがすっと解け、悟りが開けたといいいます。
 その尼の賤(しず)の女(め)が
   いただく桶の   底脱けて
    ひた身にかかる  有明の月
と歌ったと伝えられています。

鎌倉 道路脇の小川を渡ると「八坂神社」

 八坂大神ともいいます。祭神は須佐の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王。つまり、桓武平氏の先祖を祀っています。
 相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもので、かつては相馬天王と称しました。
 相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人です。
 銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立しました。

鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」

 鎌倉市御成町にある諏訪神社は諏訪氏の屋敷内にあった守護神が移されたも。祭神は建御名方神(たけみのかたのかみ)。
 信濃国一宮の諏訪社大祝職である諏訪盛重は承久の乱(1221年)の後に北条泰時に被官し、1236年に泰時の邸宅が新造されると、尾藤景綱と共にその敷地内の北条屋敷横に屋敷を構え、諏訪池の東側に諏訪神社を祀ったとされる。
 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

鎌倉 女性にとって圧政の時代に救いの寺「東慶寺」

 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。