永平寺は源頼朝が建立した寺院で、源義経や藤原泰衛をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊のため、荘厳なさまに感激した平泉の二階大堂大長寿院を模して建久3年(1192年)に、工事に着工しました。
鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和56年(1981年)から発掘調査を行い、中心部の堂と大きな池を配して庭園の跡を確認しました。同派二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配置され、東を正面にした全長が南北130mに及ぶ伽藍で、前面には南北100m以上ある池が造られていました。
鎌倉市では、昭和42年(1967年)度から土地の買収を行っており、現在史跡公園として整備事業をすすめています。
平成24年(2012年)3月 鎌倉市教育委員会 (案内板より)
奥州討伐を終えて鎌倉に凱旋した頼朝は、「天下統一を果たした」という権力誇示のためと、平家や奥州藤原氏などとの戦いで死んでいったいくたの将兵の供養を兼ねて、大寺院の建立を決意する。それが永福寺。二階堂・勝長寿院に匹敵する壮大な大寺院だったと伝えられています。壮大な二階建ての本堂があり、それが二階堂と呼ばれたことから、その名がついたといわれています。
近年の大規模な発掘調査で、その全貌が判明。当時の姿を仮想空間での再現に成功した。現地に行けば、スマホやタブレットでその姿が見られる。
このお寺、頼朝はある有名な寺院の真似をして作ったらしい。
実は頼朝が奥州合戦で東北に行った際に、平泉の大きなお寺に影響を受けて建てたと言われています。当時平泉は最高技術で作られたお寺がいくつもある
東北最先端な都市でした。
そんな平泉の巨大寺院を目の当たりにした頼朝達の思いは?
それを頼朝を初め、鎌倉武士達は見たわけです。圧倒されたんです。恐らくは、戦いながら、絶対これに負けないのを作ろうって、東北にできて鎌倉にできないわけはないと思ったのでしょう。
頼朝は鎌倉幕府の力を見せつけるため、平泉にあるものとそっくりな永福寺を作ったのです。
永福寺の着工は、建久三年(1192)。頼朝は熱心に工事の様子を見に出かけたとも伝えられている。よほどこの寺の建立に執心していたのだろう。
その後、さらに次々と建物が建てられ、永福寺の全盛期には、本堂の二.階堂のほか、阿弥陀堂、薬帥堂、三重塔、多宝塔、鐘楼、惣門(そうもん)などがそろい、大寺院にふさわしい威容を誇ったという。
永福寺は景勝地に建てられたこともあり、頼朝や北条政子、その後の将軍たちもここを訪れ、境内で歌会や花見、蹴鞠(けまり)などに興じて、楽しいひとときを過ごしたといわれている。時代を謳歌したこの永福寺も室町時代の後期になると、その存在を示す記録がない。いつ、どのように消滅してしまったのか、確たる資料は残っていない。