永福寺跡
鎌倉市二階堂  標高:18.8m
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 源実朝は、頼朝の次男として建久三年(1192)に生まれる。もちろん、実母は北条政子。幼名は千幡。この年は、父・頼朝が壇ノ浦に平氏を滅ぼし、国内を平定して征夷大将軍に任ぜられた絶頂期で、鎌倉幕府が名実ともに成立した年でもあった。
 生まれながらにして鎌倉幕府の最高権力者であった実朝は、なんの不自由もない幼少時代を過ごす。しかし、八歳のときに突如、頼朝を失う。急死だった。正治元年(1199)のことだった。
 頼朝が死ぬと、実朝の周囲の空気は一変してしまう。 幕府内では権力闘争が勃発する。
それは、頼家がここで何とをやったのか? なのですが、二代目将軍頼家の永福寺での行いに、家来たちは不信感を募らせたといいます。
 どんなことをやったのかというと、京都から文化人を呼び寄せ、遊びの名人を呼び寄せ、頼家はここでどんちゃん騒ぎや蹴鞠をやったり、遊び場にしてしまったのだという。しかも京都から人を呼び寄せており、武士よりも朝廷の貴族たちを大切にしているとして、家来たちが不信感を抱いていった可能性があるのだ、と思われます。
 まだ幼少だった実朝が、その状況を理解していたとは思えない。だが子供心にも不安を抱いていたことは想像できる。そのことが、実朝にどんな影響を与えたのだろうか。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治 著より)
 このお寺がきっかけで源氏が衰退するのです。

 頼朝の死後。二代目の将軍になったのは息子の頼家。 こんな豪華な建物を受け継いだ頼家なんですけど。家臣たち、御家人たちは、「次の将軍さまは何やってんの」というような、不信感を抱いてしまった。




 阿弥陀堂

 二階堂の南側に立つ脇堂であり、正面が16.7m、奥行が約12.7mの本瓦葺きで、北側の薬師堂とほぼ同じ大きさの堂です。創建時永福寺の特徴をなす、極めて珍しい木製基壇(正面約19.2m、奥行約15.3m、推定の高さ54cm)の上に建てられていました。周囲に緑と雨落ち溝、正面には階段が確認されています。(案内板より)
 南復廊(みなみふくろう)

 二階堂と阿弥陀堂をつなぐ幅約6.6m、長さ約12.7mの建物で、二棟廊とも呼ばれています。前面が廊、奥が部屋になっていました。(案内板より)




 二階堂

 三堂の中心の仏堂で、大きさは正面約19.4m、奥行17.6m、周囲に幅2.4mの裳階(もこし:差掛の庇)を付けた本瓦葺であったと考えられます。基壇は全国的に極めて珍しい木製で化粧されており、大きさは正面が約22.5m、奥行が20.6m、推定の高さは70cmでした。正面と両側面に階段がありました。堂の本尊は釈迦如来と考えられています。(案内板より)
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