天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。 元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。 なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。 |
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福山 鞆 昔は一帯の山麓を占め大伽藍だった「小松寺」
福山 鞆 ほぼ一直線に結ばれた寺町にある「慈徳院」
福山 鞆 見事な石造物が「阿弥陀寺」
福山 かつては海辺に寄った所に「本願寺」
福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」
福山 最古の長い歴史を持つ港町「鞆の港」
福山 鞆 観心行ができる「顕政寺」
福山 鞆の浦で二番目に古いお寺「医王寺」
福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。
福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」
福山 鞆 つわ者どものときの声「小烏神社」
福山 鞆 鬼子母尊講中お題目碑がある「妙蓮寺」
慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。
福山 武器商人の使い?坂本龍馬「いろは丸展示館」
福山 神功皇后の妹君の淀媛命を祀る「淀媛神社」
福山 鞆 加藤清正公ゆかりの「法宣寺」
福山 坂本龍馬と紀州藩が談判した「福善寺対潮楼」
福山 鞆 恵瓊が住持を務めた「安国寺」
瑞雲山安国寺。元々は、無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
その後、室町時代に「安国寺」と改めました。室町時代の末期に同寺は衰退するが、毛利輝元、安国寺 恵瓊が再興し、恵瓊が住持を務めていました。
恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。