創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。
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福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」
福山 鞆 一直線に結ばれた寺町にある「慈徳院」
福山 鞆 十六羅漢像が安置されている「正法寺」
創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。
釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢
1.賓度羅跋羅堕闇尊者(びんどらばらだじゃそんじゃ)
2.迦諾迦伐蹉尊者(かなかばっさそんじゃ)
3.迦諾迦跋産堕閣尊者(かなかばりだじゃそんじゃ)
4.蘇頻陀尊者(そひんだそんじゃ)
5.諾矩羅尊者(なくらそんじゃ)
6.跋陀羅尊者(ばだらそんじゃ)
7.迦哩迦尊者(かりかそんじゃ)
8.伐闍羅弗多羅尊者(ばしゃらほったらそんじゃ)
9.戎博迦尊者(じゅはくかそんじゃ)
10.半諾迦尊者(はんたかそんじゃ)
11.羅怡羅尊者(らごらそんじゃ)
12.那伽犀那尊者(なかさいなそんじゃ)
13.因掲陀尊者(いんかだそんじゃ)
14.伐那婆斯尊者(ばなばしそんじゃ)
15.阿氏多尊者(あしたそんじゃ)
16.注荼半託迦尊者(ちゅうだはんたかそんじゃ)
羅漢とは、悟りを開いた修行者という意味です。
福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」
福山 鞆 日蓮宗への改宗を拒否、浄土真宗「明圓寺」
福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に造られた福禅寺の客殿。
座敷から一望できる仙酔島や弁天島が浮かぶ鞆の浦の眺めは素晴らしく、江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場となっていました。
正徳元年(1711)、朝鮮通信使の李邦彦がここを訪問した際、対潮楼から見た景色を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛しました。
幕末に坂本絵龍馬の海援隊が運用する「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(880トン)が衝突する日本初の蒸気船海難事故「いろは丸事件」の際、坂本龍馬(武器商人か?)ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行なった場所にもなっています(本来は「いろは丸」側に非があったものの、坂本龍馬は紀州藩側の、本来積んではいないと思われる積載物の損害賠償を求めています)。
福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」
福山 鞆 坂本龍馬は策略士だった「いろは丸展示館」
いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。
明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。
龍馬は、交渉の部隊を長崎に移すことで時間稼ぎをし、その時間を利用し、様々な工作を行ったようです。
最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決着しました。
この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。