1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられました。
国生み神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)をお祀りしています。伊勢神宮に祀られている天照大神(あまてらすおおみかみ)の御親にあたる神様で、昔から「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」といわれ、除災招福、特に寿命の神様として信仰されています。(持善院ホームページより)
向拝に竹を編んで作られた「龍の注連縄」が張られています。
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尾道 尾道で最初にできた神社「艮神社」
艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
「艮」という字は、会意(二字以上の漢字を組み合わせ,同時にそれぞれの意味をも合わせて一字の漢字とすること)は、「目+人」で、「目」は呪的な目的で聖所に掲げられている邪眼。その下に、後ろ向きに退く「人」の形になっており、侵入者が邪眼を恐れ、退く意味だそうです。
尾道 加藤清正を祀る清正公堂がある「妙宣寺」
後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。
このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。
本堂の後ろには加藤清正を祀る清正公堂があり、熊本の本妙寺のと同作の清正等身大の肖像が安置されている。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した際には、尾道は拠点港になり、大勢の兵士や物資が集積しました。
その縁で秀吉の重臣、加藤清正の等身大の木像が妙宣寺に祀られています。
尾道 裏山の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」
済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。
尾道 千光寺山、たたくとポンポンと鳴く「鼓岩」
鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
「鼓岩(つづみ岩)=ぽんぽん岩」 映画監督:大林宣彦
尾道の、海や町を見降ろす千光寺山の中腹に、ぽんぽん岩と呼ばれる大岩がある。小石を握ってその岩の真ん中を破くとぽんぽんと音がするので、そう呼ばれるのである。それはきっと、岩の内部が空洞になっている故なのだが、ぼくにはそれがまるで岩の声のように聞こえる。面白くて、楽しくて、そして恐ろしい。
だから、こどもの頃から、ぼくはこのぽんぽん岩が大好きだった。面白くて楽しいだけでは駄目。こどもは恐ろしいものに心ひかれるのである。
尾道 瀬戸内が楽しめる向島一周自転車旅!
フェリー乗り場が見えてきた。丁度フェリーが桟橋から離れていくところだった。自転車で近づいてゆくと、左沖合から、別の大きめのフェリーが近づいてきている。
熱中症対策のため自販機でスポーツ飲料を買い、フェリーの接岸を見ながら、一息休憩を取る。
フェリーが接岸すると、乗っていたクルマはすべて下船した。この桟橋は終点ではないのでどうしてなのかと思った。
軽自動車が多かった。尾道大橋の料金表示で軽自動車50円となっていたことを思い出す。フェリーで尾道まで行くより、ここから走って行ったほうがきっと安上がり(2013年4月から無料)なので、みんなここで下船したのだろう。
尾道 日比崎中学校の裏山に「石仏群」
ここには多くの石仏があります。数十cmのものが多いのですが、さまざまな石仏があります。
この写真の上に石仏群の本命達が住んでいます。一番奥に蔵王権現の石仏があります。石碑に「南無上石鎚山大悲蔵王大権現」と刻まれています。
枯れ葉が多い時期は滑りやすいので注意が必要です。急な石段もありますので、気をつけてください。
尾道 江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」
伝書鳩と米相場 広島県尾道市 浄土寺
江戸時代のことです。お米の商いをしている商人が浄土寺におまいりに行きました。
お和尚さんに奉納のお金を渡すとき「大阪の米相場が安いんで、これだけしか奉納ができないんです、申し訳ございません」と言って渡しました。
和尚さんは「どうもありがとう、でも大変ですね。ところで大阪の米相場って、そんなに上がり下がりするんですか?」と言いました。
すると「米相場はそうなんですよ、米の相場が分かれば、もっと安心して商いができるのですがね」と言いました。
すると、和尚さんは「このお寺の言い伝えに、源氏が伝書鳩を使って連絡をしていたっていう話が伝わっています。どうですか、伝書鳩を使ってみたらどうですか」といました。
すると、大阪の商人は「伝書鳩は江戸幕府が禁止してるんだよ、残念だなぁ」と言いました。
詳しく聞きますと、「大阪で伝書鳩を使った商人が捕らえられて、大きな処罰をされたそうです。そのため今は一切そんなことはしてない、無理だ!」と言いました。
すると、大阪の商人は「伝書鳩は江戸幕府が禁止してるんだよ、残念だなぁ」と言いました。………
尾道 村上水軍、その後の回漕問屋としても信仰「光明寺」
834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
室町時代には村上水軍の信仰を集、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
海上鎮圧令(海賊取締令・海賊停止令)とは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が倭寇に対し
①豊臣氏に従い、大名となる
②豊臣政権の大名の家臣となる
③武装を放棄し、百姓になる
この3つを迫った政策です。
尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」
「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」「よく言おう」「よく聞こう」という願い。
江戸時代から尾道は、実質的には豪商が町を治めていた。この風土がこの猿達を生んだのでしょうか。
尾道 山門は「ええもん」と呼ばれる「福善寺
福善寺寺域全体が中世山城「丹花(たんか)城」跡に立てられています。
守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ、当時この地方には浄土真宗がまだ広まっておらず、行栄は近郊の住民に医業を施して生業(なりわい)とし、その傍(かたわ)ら久保町に道場を開き念仏布教を行っていた。
『ええもんは福善寺』と尾道の名物でもある入口の豪壮な山門は、龍の彫り物など木組み一式が京都の名工によって制作された。本堂は欅の紫宸殿造で人を圧倒します。
尾道では「ええもん」=「良いもの}という意味です。
尾道 瀬戸田 ここは日本か?「未来心の丘」
未来心の丘。
境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。
尾道 隠れた名所か「浄土寺山頂上」
瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。
尾道 職人の精神が石段に「御袖天満宮」
5mもの1本石が54段(ただし、現在は一番上の段が割れてしまいました。)。
花崗岩には割れやすい「(割れ)目」があり、石工は、その石の目を見分け、その目に沿って数カ所少し掘り、小さなくさびをそこに入れ、順番に金槌(玄能)で叩いていき、石を割ります。
上から二段目だけ、二本継ぎが1段あります。「完璧は災いの元」という職人の哲学でしょうか。それとも、「完璧なものは神様しか造れない」ということでしょうか。
日光東照宮や姫路城にもこのような職人気質が残っています。
大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)
尾道 柔術不遷流の開祖不遷がいた「済法寺」
旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)
尾道 昔の船着き場が「福本渡船 ⇔ 駅前海岸」
昔の船着き場があります。クレーンなどなかった時代の港の風景です。
このあたりは干満差(干潮時と満潮時の海面の高さの差)が4m程度あります。そのため、舟から荷揚げをするとき、船と船着場に渡す板の角度を平らにするため、船着場が階段状になっています。
いまはクレーンなどがあり、このような船着場はなくなってしまいました。しかし、大災害で動力が使えなくなったとき、役に立つかも知れませんね。
尾道 生口島 奈良・平安時代を参考「耕三寺」三段部分
大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。
尾道 行基菩薩創建と伝えられる「西国寺」
西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
西国寺は平安時代の院政期より朝廷との関わりが深く、官寺として大きな影響力を持っていたと考えられます。
備後守護の山名氏一統の手によって再興されました。山名氏は明との交易を盛んに行っていたため、瀬戸内海交易の中心地の尾道は非常に重要な拠点でした。港町尾道を円滑に管理下に治めるため、西国寺に多くの寄進を行っていました。
尾道 806年空海によって創建「千光寺」
千光寺本堂からの景色
冬至の朝、本堂に行くと、本堂を照らす朝日が本堂正面から登り、本堂舞台に、欄干の細長い影を落し、その長い影は舞台に敷かれた板と、美しく平行線を絵描き、本堂本尊に真直ぐ向かっているそうです。
本堂の本尊が祭られているのはこの後側です。そのためか、最もお参りが少ない本堂と言われているとのこと。
遠くに「しまなみ海道」の最初の橋が見えます。ただし、サイクリングをする人は、この橋は渡りません。渡船で向島まで行き、因島大橋を目指します。
尾道 大火で焼失、海岸から1928年に移転「海徳寺」
1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。