尾道水道の正面にし、右側が本土側です。林芙美子の放浪記の一節を思い浮かべます。 放浪記の一節 海が見えた。海が見える。五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい。 汽車が尾道の海にさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯の ように拡がって来る。 赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。 緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。 私は涙があふれていた。…… |
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尾道 四国の金刀比羅宮に向かって建つ「金毘羅大権現」
尾道 ネコ好きに人気の「猫の細道」
尾道 日比崎の竜王山 「石仏群」
尾道 五百羅漢もある「天寧寺」
尾道 生口島 ここはイタリア?「耕三寺 未来心の丘」
境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。
尾道 もともとは海徳寺の鎮守だった「勇徳稲荷神社」
軒が低く打ち水が涼気を誘う後地小路をくぐりぬけるとまねくが如く道路にセリだした松の木の根元にギョッとするほど鮮やかな朱塗の鳥居が待ち受ける。もともと正一位勇徳稲荷神社は海徳寺の鎮守であったが、大正十五年に同寺が火災にあい、このため寺は、東久保町の山手に引っ越したが、神社だけは独立し、そのころの名ごりをとどめ「抱二天」の仏様がまつられている。
鎮座はこれまたいつのころかわからないが鏡台に文久二年(一八六二)と書きこんであるところからこれよりさかのばるものとみられ、間口三間ほどの拝殿はそう古くはないが玄関は昭和年代に入り、近くの御嶽教社をとりこわし移し、また鳥居も元市民病院横にあった稲荷様のものといわれる。
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尾道 絶景の山頂「浄土寺山」
尾道 大草鞋の大男がいるよ、悪いことはダメ「西国寺山門」
尾道 鉱毒事件の調査に来たのか?「志賀直哉旧居」
尾道 踊念仏を復興し、継承「正念寺」
尾道では坂に名前がないがその例外が「蓮花坂」
尾道 歴史や文化の発信を願う「海の駅」
尾道 昔は入江で渡しがあった「磯の辨天神社」
尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。
尾道 生口島の北鬼門の鎮護「向上寺」
尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」
尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」
尾道 もとは祇園社、神仏分離令で「八阪神社」に!
尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」
「五重塔から三重塔へ」という珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。