尾道 断崖に造られたとは思えない「千光寺」

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。
 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。

尾道 瀬戸田 多彩な堂塔が並ぶ「耕三寺の」三段部分

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。

尾道 船内で料金が徴収される「福本渡船」

 尾道駅前広場の東端付近から少し東に行くと、向島の小歌島(おかじま)とを結ぶ航路があります。3つある航路の中で最も運賃が安い渡船でもあります。尾道側桟橋入口の赤く塗られたゲートが特徴です。
  大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
 チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3分の航海を体験でき、通勤時間帯は約5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わるようです。)

厚木 盤筒男命と平将門の御霊を相殿に「依知神社」

 縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来た。平将門が関東平定のおり、当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前にし、赤城山神馬献進の託宣を給いたちまち堅牢なる護岸の完成が実現したとのこと。
 このことに感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして937年社殿を再建し、赤城明神社と称した。
 源頼朝が鎌倉幕府を創設のとき、10万余坪に及ぶ 社領を寄進したという。その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にするほどの広大なる土地であった。

尾道 昔は昼寝寺として有名だったのですが「浄泉寺」

 本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)  開基は、1525年に宗円が現在の木ノ庄町市原の地に一精舎を建立したのが始めで、その後1596年に現在地に道場を移した。
 大屋根には畳16畳という鬼瓦を東西に頂き、瀑布の流れ下るような瓦の波は近在随一の大伽藍である。
 本堂前の水盤「離垢」の名文は頼山陽の筆で、「浄泉即是萬劫不乾」などの句が読まれる。また、元禄時代の尾道の石工の名工の作、雨受盤をささえる「天邪鬼」は有名。
 昔は「昼寝寺」として有名だったのですが、いまは、たばこでの火災危険のため禁止になって随分たちました。

尾道 豪壮な山門「ええもん」と呼ばれる「福善寺」

 山門は、四脚門(よつあしもん)で本瓦葺の切妻造となっており、軒丸瓦の円形瓦頭(がとう)は烏丸家(からすまるけ)の家紋である鶴丸の文様となっている。
 欄間には豪壮な龍の彫り物が施されている。
 幕末のころ、第11代住持であった性円が妻を京都の烏丸大納言家から迎えたとき、尾道の大工が京都制作された彫刻を引き継いでこの山門を組み立てたという。
 「ええもん」と呼ばれ、方言として、良い物を「ええもん」と言っています。
 尾道の子供たちが、親にねだるときに「なんかええもんこうてえ(買って)」とおねだりすると、親は「ええもんは福善寺」と言って、ごまかしていたとか。

尾道 空海入唐の頃には既に開かれていた「大山寺」

「愛宕山の日限地蔵」

 往昔、釈迦如来が在世のさい、地蔵菩薩を召して日く「われ入涅槃すれば弥勒菩薩出世の暁まで五十六億七千万年なり、この間娑婆世界に於いて諸々の悪業をつくり五濁濫漫の苦海に沈める薄福重障の衆生をば済度し、永く悪道を離れて仏道を成せらしめよ」と-。この時から地蔵は我が身を百千億にもわかち民衆救済のため路傍にたたれた。
 日限地蔵は数百年前からこの地にありて、幕末ごろ現在のお堂の東手から移り住われた。

尾道 市立美術館から千光寺間にある「鼓岩」

 鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
 右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
 ここには【民話 鼓岩とお姫様】のお話があります。

尾道 幕末、芸州藩が派兵し、この寺を本陣に「妙宣寺」

 後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。

 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。 

尾道 斜張橋で初の最大支間200m超え「尾道大橋」

1968年(昭和43年)3月に尾道大橋有料道路として開通。
2013年(平成25年)3月31日に料金徴収期間満了し無料開放された。
 本州本土と向島の間にある幅約200mの尾道水道を結んでいる。
  ・全   長   : 386m
  ・最大支間長   : 215m
  ・海面からの主塔高: 約76m
  ・海面からの路面高:  34m
  ・形   式   :3径間連続鋼箱桁放射形斜張橋
 尾道大橋は,我が国で建設される斜張橋では初めて最大支間が200mを超え,本格的斜張橋の先駆けとして、綿密な検討をし架けられました。

尾道 瀬戸田 “往生要集”を体感「耕三寺千仏洞地獄峡」

 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。

 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。

 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされ、石仏が約一千体あるという。

尾道 技芸が上達する「お経の塚」がある「海龍寺」

 このお堂は、阿弥陀如来を、ご本尊とする阿弥陀堂であります。当山では、位牌堂と呼ばれています。江戸期より死者の為に家の仏壇にお位牌をまつると共に、この位牌堂にもお位牌を作り、まつる習わしが、現在も続いています。ご本尊、阿弥陀如来様は、柔道家西郷四郎(姿三四郎のモデル)が晩年期、祈っていた念持仏です。
 大きな岩が境内の奥(東)の方にあります。
 裏山は浄土寺山(瑠璃山)という山で、登山道を登るルートの他に、海龍寺の裏手からは3つの鎖場を経て歩きで登るルートもあります。
 2019年2月19日午前2時10分頃、この寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。仏像を盗んだ後、放火したとのことです。

尾道 大火のため焼亡、1928年に移転「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

尾道 静かさを味わう「浄土寺から鎖場下へ」

 浄土寺と海龍寺の間を抜けて昇っていくと、ここが「観音のこみち」入り口で、木々の緑をバックに、心落ち着くところです。耳を澄ませると、………が。
 石造りの瑠理橋があります。この石橋はその昔、久保を縦に流れていた防地川の川下にあつた元借楽座前から海徳寺に向いかかつていた新橋で、この地名はいまでも残り、もとは木の橋であったが、大正四年御大典記念に寄付をつのり大金を投じ石橋にやりかえたものです。その後道路拡張のため取りこわし、その材料の一部で瑠璃橋をかけ、残った石材がいまでも浄土寺境内に残っています。

尾道 浄土寺下から尾道大橋へ

 尾道水道の正面にし、右側が本土側です。林芙美子の放浪記の一節を思い浮かべます。

 放浪記の一節

 海が見えた。海が見える。五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい。
 汽車が尾道の海にさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯の ように拡がって来る。 赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。 緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。
  私は涙があふれていた。……

尾道 四国の金刀比羅宮に向かって建つ「金毘羅大権現」

 西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。
 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っています。
 「金毘羅大権現」とは「ガンジス川の鰐が神格化された航海安全の神」
  金刀比羅宮は香川県中西部、丸亀平野南端の琴平町にあり「こんぴらさん」の名で親しまれる〈金刀比羅宮〉は、明治初年の廃仏殿釈以前は、古くから神仏習合して〈金毘羅大権現〉とよばれていました。江戸時代後期には全国的な信仰を集め、現在も多くの参詣客が訪れています。

尾道 ネコ好きに人気の「猫の細道」

 ネコ好きに人気の猫の細道は艮神社の東側から天寧寺三重塔にかけて続く約200mのノスタルジックな細い路地です。
 作られた観光地という感じではなく、自然のままの路地。独特な雰囲気のあるカフェもあります。

尾道 日比崎の竜王山 「石仏群」

 尾道の人たちには、この場所は何故かあまり知られていないようです。尾道駅より東側にある神社や寺院が、尾道の人たちは観光する場所と思われているようです。
 尋ねてみると、「尾道にこんなところがあったのか!」という思いはするが、観光のお客さん達に来てもらうには、???という感じなのでしょう。

 済法寺の裏山の岩に刻まれた石仏達と同様、他では観光の名所の資格は充分あるのですが、地元の人たちと縁が遠いのは何故なのでしょうか?

尾道 五百羅漢もある「天寧寺」

「五百羅漢」

 羅漢は正式には阿羅漢(あらかん)といい、サンスクリット語のアルハンを音写した言葉です。元来インドでは尊敬に値する人という意味で、仏教では、悟りを開いた修行者という意味です。羅漢には釈迦の十大弟子や、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢、釈迦の入滅後に行われた第一回結集(けつじゅう)(経典の編集会議)で集まった五百羅漢などが含まれます。

尾道 生口島 ここはイタリア?「耕三寺 未来心の丘」

 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。