AI時代を目の前にして、暗記教育の弊害が予測されています。AIは、今までのテストでは、決して人間に負けることはないでしょう。そして、体力面においても、ロボットの時代がくると、人間は到底叶いません。でもひとつの希望が残っています。現代唯一の人類であるホモサピエンスは、知力・体力とも優秀だったネアンデルタール人よりも、生き残り作戦では成功したのです。利己的でなく、協力に喜びを感じる遺伝子が優秀だったからでしょう!
4月 2019のアーカイブ
鎌倉 心おだやかに花散歩「長谷寺」
鎌倉時代以前からある古寺。736年の創建、開山は徳道(奈良長谷寺の開祖でもある)。坂東33ヵ所観音霊場の四番札所であり、本尊の十一面観音は高さ9.18mある。
寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。
その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。
むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。
夢をなくしたときが「老人」だと!
人生100年時代、心持ちが年齢を決めるようです。思い込みが強いお年寄りが多いようですが、これは“こころの老化”のようです。テスト教育の普及で、幼いときから「テストの答えのみが正解」(正解を選ぶしろ、あえて不正解を選ぶにせよ)を続けていると、どんどんあたまが固くなってしまい、あたまの老化が進行します。そして、早い年齢から周りからのアドバイスを、受け入れることができなくなってしまうのでしょうか。クレーマーもそのひとつの現象なのでしょう!
鎌倉 本尊阿弥陀如来は運慶作?「教恩寺」
中座山大聖院教恩寺と号す。開山は知阿、開基北条氏康。もと材木座光明寺境内にあって、宝海山と号したともいう。本尊の木造阿弥陀如来并両脇侍菩薩立像は鎌倉時代前期の作品で、鎌倉市指定文化財。
本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来は、運慶が刻んだものと伝えられていますが明らかではありません。
対人関係は、相手ではなく、自分を見直すこと!
江戸時代は、地位=権力、名声=名誉、お金=禄高が、集中しないように、権力は老中にあるが禄高は数万石まで、名誉は学術的なものもあるが、公家が名誉を担っていたのでしょう。この力の分散が、争いが起きなかった要因なのでしょう。現在は天皇が名誉の面で大きな力を発揮でき、ひつとのところに力が集中しない仕組みになっているのでしょう。もうすぐ「令和」の時代になりますね!
尾道随一の名水が湧く「正念寺」
時宗 来迎山引接院 正念寺 縁起
創建 天正二年(1574年)
開山 遊行三十一代 遊行上人
総本山 神奈川県藤沢市 遊行寺
時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。当山は第三十一代遊行上人によって闘かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発擢したといいます。
誰でもがみな、ある意味出来損い!
「自分は出来損ない」と思うことを大事にすることが日本の文化。いくら自分がトップだと思っても、「やっと三本の指に入ったかな」と表現する文化です。職人の心構えでも、尾道にある御袖天満宮の石段は、5mの1本ものが54段あるが、上から二段目だけを2本つなぎに造っています。わざと「まだ完全な腕ではない」と、職人自身が腕を磨くために、あえて不完全にしています!
鎌倉 鶴岡八幡宮への参道「若宮大路」
鶴岡八幡宮の参道の「若宮大路」は、頼朝が妻政子の安産を祈願して1182年3月に整備したという。頼朝と政子のあいだには長女がいましたが、嗣子の誕生を祈り、堂々たる大路を海から鶴岡八幡宮へむけて、神をまねく通り道若宮大路を造ったのでしょう。
1182年(寿永元年)8月12日、幼名万寿、二代将軍源頼家が生まれています。
「段葛」とは江戸時代からの名称で、往時は置道(路)とか置石とか作道とよばれていました。
自利を選んだ結果、犯罪を犯してしまう!
2005年4月25日に尼崎市で起きたJR福知山線の脱線事故、直接的な犠牲者は死者107名(運転手含む)、負傷者562名でした。この事故の原因は、手前の駅でオーバーランし、その遅れを取り戻すため、運転手がスピードを出し過ぎたためでした。刑法的な見解では「運転手に罪がある」ということになります。しかし、その背景には「時刻を守れなかった運転手には、厳しい再教育と待遇があった」ということです。エリート達の「知性」と「理性」が造った“しくみ”が、最大の主因だったのでしょう。現在の裁判では、裁けない問題ですね!
厚木 明治初年、町内の神社を合紀した「厚木神社」
現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょ)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
「サクラ」はバラ科の植物!
「サクラ」はバラ科なのですね。バラ科は「花」や「実」が魅力的なものが多く、しかも、健康にも良いものもあるのですね。これは、人間に「バラ科の植物をもっと広めろ」というサインなのでしょうか。人間も昆虫と同じような役目を担っているのですね!
鎌倉 室町時代、佐竹義盛が建てた「大宝寺」
室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛(よしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺(ほんかくじ)を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。
本堂には、本尊の三宝本尊と四菩薩像、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天と鬼子母神像などがまつられています。
ほんの少しの「見栄え」アップ!
たいして重要ではないと思ってしまいがちなことを、「大事なこと」と思うことができるかどうかが大切です。しかし、なぜ「たいしたことではない」と思ってしまうのでしょか? その対象物が「自分はたいしたものではないよ」とは言ってはいません。わたしたちが、勝手に「たいしたものではない」と、思っているだけです!
尾道 巨大なカラス天狗が住む「金剛院」
西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。
金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。
永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。
正しい「気づき」を!
「事実を、五感を使って正確に認識する」ことは、大変難しいことです。しかし、このことを認識している人は、それほど多くはいないですね。どうしても、「自分の見たいように」、「自分の思いたいように」ということになってしまいます。「三人寄れば文殊の知恵」、一人では無理なのですね!
鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」
ここの堂守の僧が勝長寿院に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。
今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。
窟堂(いわやどう)(岩窟不堂(がんくつふどう))は1184年(文治4年)からあり、今も奥の岩屋に不動明王がまつられています。窟小路(いわやこうじ)の道の名はこれによります。
取り越し苦労から生じた毒素!
「笑いはガンに効果がある」と、言われ出してかなりたちました。反対に、心配や不安、恐れ、疑いなどが、健康にとってマイナスになるといわれだしました。からだの健康には、笑いを含めて、うれしいこと、新鮮な食べ物などが、毎日、安定的に手に入れて過ごしことが、できるかどうかなのですね。良いこと、うまい食べ物といったものと、若干ちがいがあるのでしょう。しかし、良いこと(周囲で良いとされていること)、うまい食べ物を求めてしまいますね!
鎌倉 元寇に対応した北条時宗を葬る「仏日庵」
北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。
その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)
一神教や終末論は争いを激化する思想!
宗教であれ、一神(一人)に権力や名誉が集中すると、不安定な社会になることが、人類の歴史で証明されています。にもかかわらず、なぜ、そのしくみを改革できないのでしょうか。人類史上、どの段階で権力・名誉・財力に特別な魅力を持つようになったのでしょうか。やはり、農耕で麦を栽培するようになり、その麦が保存可能だったためなのでしょうか?
厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」
妻田薬師は、もともと古義真言宗の白根山東光寺遍照院という別当寺が管理する仏堂で、古くから近隣の人々の厚い信仰を受けていました。
薬師堂(市指定有形文化財)
この薬師堂は、薬師如来を安置するための仏堂で、「新編相模巨t記稿」には、永禄12年(1569)、三増(愛川町)で武田信玄と北条氏との戦いがあり、その前に武田信玄によって焼かれたと記されています。 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より