鎌倉では神社の前を通るとき、立ち止まり、神社に向かってお辞儀をする人をよく見かけます。外国の観光客が増え、外国人向けのお店が増えてきてはいますが、まだ日本の風土を守っている人もおられるようです。日本風土を守っているが故、外国の人たちが観光に訪れるのでしょうか。「観光」とは、見知らぬ土地に行って、何か役に立つことがないか、見つけることが目的だったようです!
12月 2018のアーカイブ
鎌倉 幕府の裏鬼両という方角に当たる「本覚寺」
「東身延」とも呼ばれる。佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。
本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。
人間重視それとも組織重視!
成長期には組織重視、低迷期は人間重視が社会の基本です。現在のようにそれほど成長が期待できないときは、人間重視です。具体的には「笑顔重視」なのでしょう。アメリカのように対立し、笑顔が少なくなりそうな社会では、混乱が拡大するのでしょうか!
尾道 文化財の宝庫「浄土寺」
聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。
足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
裏の竹林には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。
ここの多宝塔(二重の塔)は日本の三大多宝塔の一つとされています。また、裏庭には茶室があり、わびさびの世界を漂わせています。
世論がこういっているから!
学校での学びは○と×、電波で見聞きすることも、解説者の答えがある。これでは、自分で考えることがなくなる人も出てくる。夏休みや冬休みに、NHKラジオで「子供科学電話相談」があるが、この番組で相談する子供達は、自分で考えた上で相談している。この姿勢を学びたいものである!
尾道 尾道一の絶景「浄土寺山山頂」
瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
東西南北のすべて見渡すことができ、特に瀬戸内の島々の遠望がよい。ここまで登ってくる観光客はまづいない。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
浄土寺山は“尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。条件が良ければ四国山脈最高峰の石鎚山が一望できます。
自己の確立がエゴの確立になっている!
「自己の確立」ということが曖昧なままだと、親に依存したままか、エゴの確立になってしまうのでしょうか。核家族で育つと、子供時代に接触する大人が少なく、思考パターンが単純になってしまうのでしょうか? 自分の思い込みだけが正解と考えてしまうのでしょうか? 私の高校時代、テストで103点とか105点をつけてくれた先生がいました。???でしたが、多様性を評価してくれていたのでしょうか。そんな時代もありました!
鎌倉 スサノオノミコトを祀る「八雲神社」
八雲神社は、もとは牛頭天主社(ごずてんのうしゃ)といい素戔嗚尊(すさのおのみこと)をまつる神社でした。文明年間(1469~1487年)山ノ内上杉氏と扇ガ谷(おおぎがやつ)上杉氏が争っていたとき、上杉憲房(のりふさ)が武運長久を祈り、疫病が流行しないことを願って京都祇園(ぎおん)の八坂神社をこの地に移して八雲神社にしたといわれています。
シリアスな顔より笑顔のほうが!
「いい笑顔」が出来る人と出会うと、たとえ知らない人でも微笑みます。なぜなのでしょうか? そのような人は、初めて行った場所でも、知らない人から挨拶をされることがあるようです。また、知らない子供からも挨拶されるようです。なんとなく分かるようですね!
海老名 有鹿姫伝説の「有鹿神社」
海老名市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
感謝は人づきあいのエッセンス!
「感謝する」ことが出来る人は、「いま」を大事にしている人なのでしょうか。感謝するには、いま現在どのようなことが起きているか、を敏感にとらえることができていないと、ついつい感謝することを逃してしまいます。過去や、この次に何が起きるのだろうかと考えていると、なかなか感謝できないですよね!
鎌倉 鎌倉で五重塔は珍しい「龍口寺」
龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。
願いごとは、神様に誓うもの!
神様にお参りして、願いごとをお願いする時期が近づいてきました。でも、お参りは、お願いするのではなく、手を合わせて「頑張ります」と神様に誓うことなのですね。来年は何をしようか、どう取り組むもうか、そろそろ考えを、まとめなければならないですね!
尾道 清楚で風格のある「西郷寺」
1353年の開基。本堂・山門ともに国重文で、時宗の本堂形式としては他に比類のない名建築です。鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
本堂は文和2年(1353年)に発願され、時宗最古式の本堂として貴重なものです。堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音が帰ってきます。
人生の達人になるには、コツコツだ!
近頃、週に1日だけ開店する古本屋など、フルに開店しないお店を見かけます。自分の興味があることを、たとえわずかな時間でも開業するスタイルが、可能な時代に入りつつあるようです。むかし瀬戸内海の島々の人たちは「半農半漁」といったスタイルで働いていました。生業と共に、コツコツと副業をやっていれば、歳を取っても安心できるのでしょう!
鎌倉 源氏の秘密兵器「伝書鳩」その関係は「鶴岡八幡宮」
源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。
鶴岡八幡宮は参道の若宮大路(国史跡)と共に、政権都市・鎌倉の中心となりました。東西約260m、南北約35mの社域。鎌倉市の中では極めて広大な敷地です。
「バチが当たる」の「罰」ではなく「八」!
「バチが当たる」=悪い行いに対する神仏の懲らしめを受ける、というが、30代が一番信じていないようです。どうも出世競争で、出世のためなら何をしても好い、と考えるようになる世代なのでしょう。「バチが当たる」の語源の、賭け事で勝つことを祈る、にもかかわらず一番信じていないのですね。「バチが当たる」という意識が定着していれば、今のような不可解な事件はあまり起こらないのでしょう!
福山 おっぱいがいっぱい「阿武兎観音」
岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。
人類初の核家族を作った社会!
人類は、育児にできるだけ多くの人数が関わることで、より生存率を高めてきたのでしょう。母親一人で育てると、その母親にいらいらが発生するのは、本能的で赤ちゃんに他の大人に関わって欲しいからだろう。子供時代に、その子が関わる大人が少なく、その大人がマイナスの対応しかしなかった場合、その子には救いがないまま育ってしまう。多くの大人が関われば、その中にプラスに関わる大人もでてくる。こんな環境を失った人々の社会が長く続いた場合、どのような人間社会になるのだろうか?
鎌倉 「元鶴岡八幡宮」の横に芥川龍之介が住んだ
元八幡は、相模守であった源頼義が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時・貞任に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
後三年の役のとき、頼義の子の義家が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。