厚木 鋳物師が活動に因んで「鐘鋳神社」 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。
鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」 日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟といい、『立正安国論』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟」と呼んでいました。 この法窟がこの寺の造られるもとになったので、開山は日蓮になっています。また寺の名は『立正安国論』を書いたことからきています。
福山 鞆 たくさんの石仏立ちが「正法寺」 境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。
鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」 浄智寺は山号を金宝(峰)山(きんぽうざん)といい、臨済宗の寺で、北条時頼の三男宗政とその子の師時(もろとき)の二人が開基となり、1281年(弘安4年)ころに建てられたようです。また、開山は、宋の僧である元庵普寧(ごったんふねい)と大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山は、南州宏海(なんしゅうこうかい)(真応禅師(しんおうぜんじ)となっています。宗政が若くして亡くなったため宗政夫人が夫の宗政と子の師時の二人を開基とし、また、開山に招かれた宏海が、自分はまだ若いのでその師の正念をたて、正念はその師の普寧を開山にたてたため、このように複雑な形になったようです。
尾道 後醍醐天皇の第三王子が開基「妙宣寺」 後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。 本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。 本堂の後ろには加藤清正を祀る清正公堂があり、熊本の本妙寺のと同作の清正等身大の肖像が安置されている。
鎌倉 銭を洗うと百倍、千倍になるという「銭洗弁天」 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。
尾道 咲き競うボタンの「天寧寺」 開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。 1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。
愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。
鎌倉 芝増上寺から移設も「建長寺 仏殿、法堂」 仏殿は、芝増上寺にあった崇源院(徳川秀忠の夫人、浅井長政の娘、お江)の霊屋を1646年に譲り受けたもの。 現在の仏殿(国重文)は、1628年(寛永5年)に芝増上寺建てた、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠の夫人だった崇源院(すうげんいん)の御霊屋(みたまや)の拝殿を、1647年(正保4年)に移転したもので、天井や壁に華麗な装飾がみられます。
福山 鞆 五坊を有する大伽藍だった「本願寺」 開基は鎌倉時代の一遍上人と伝わる由緒ある時宗寺院です。元は沖見堂(沖御堂)と称して鞆港に近い西町にありました。「沖見堂」の名称から、航海の安全を保つ灯台の役割を果たしていたのではないかという説もあります。 寺領も広く、境内に五坊を有する大伽藍でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収され、その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで町の北の端にあたる現在地に移転しました。江戸時代を通して、朝鮮通信使の定宿でもありました。
鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」 勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。 境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまつられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。
厚木 花の寺百ヶ寺神奈川6番札所「長谷寺」 「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。 神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。 また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。
尾道 昔の人が愛した景色の「文学記念室」 庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されています。 1912年~1928年かけて増改築され現在の形となっています。 福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。
鎌倉 日蓮宗最古の三寺院の内の一つ「妙本寺」 身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院。創建は1260年。 この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。 二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。
尾道 旧市街がよく見える「海徳寺」 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。
座間 星の谷観音堂として建立された「星谷寺」 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたも。 星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中ののことと思われます。この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
福山 鞆 見事な石造物が 「阿弥陀寺」 200530a_amidaji 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。
海老名 この辺の伝説[彦六ダブ]の「龍昌院」 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。
鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。
尾道 昔から船着場があった「海の駅」 海の駅とは、国土交通省により登録された、一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)のことで、ヨットやボートの停泊設備です。 「海から、誰でも、いつでも、気軽に、安心して立ち寄り、利用でき、憩える」ことをめざしています。 ここは、住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。 ここの「海の駅」は、食堂や売店の施設はありません。ホテルや食堂、商店街が近いので、停泊施設以外は造らなかったのでしょうか。