座間 裏山の湧水が不動池に「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 円覚寺仏殿は、1923年(大正12年)関東大震災で壊れた後、1964年(昭和39年)に再建されました。鉄筋コンクリート造ですが、戦国時代の1573年(元亀4年)の仏殿の図面をもとにして建てられたので、昔の様子を残しています。正面の軒下には、後光厳天皇の筆跡にもとづく「大光明宝殿(だいこうみょうでん)」の額が掲げられています。本尊の宝冠釈迦如来像は、頭部は鎌倉時代の作で、体部は江戸時代の作といわれています。両脇に安置されている梵天と帝釈天は、1692年(元禄5年)に再興されたものです。また、天井には前田青邨の指導で守屋多々志が描いた「白竜の図」があります。

尾道 心願成就の守り本尊の日限地蔵「大山寺」

 古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐(803年)の頃には既に開かれていたと伝えている。
 901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。
 寺に祀られている日限地蔵は心願成就の守り本尊として参詣祈願する人が多い。

厚木 白龍が池に棲むという「白山神社」

 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。  むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、 加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
 下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 同山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、 白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。

福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」

 瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。
 特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
 また、境内には昭和二十九年(1954)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。オランダ人医師シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平清盛の長男の平重盛(武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した)が植えたと伝える。

鎌倉  若狭局を祀る社「蛇苫止堂」

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。

尾道にこんなところが「日比崎 石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

尾道 一畑薬師如来も祀る浄土寺「薬師堂」

 方三間、宝形造、本瓦葺の開山堂です。「延命薬師如来」、「一畑薬師如来」を祀る薬師堂となっています。
 「一畑薬師如来」は、出雲の一畑山頂にある臨済宗「一畑寺」に祀られる薬師如来と関係があるのでしょうか? 浄土寺は真言宗泉涌寺派なのですが、泉涌寺は「密・禅・律・浄」の四宗兼学の道場としての歴史があるので、禅寺である一畑寺であっても関係があってもおかしくはないのでしょう。
 浄土寺歴住墓の灯籠には「出雲国 堅田定五郎忠成」と刻まれたものがあり、出雲との繋がりが深いため、「一畑薬師様」という通称で呼ばれている、特に目のお薬師様として信仰されている薬師様にいらっしてもらったのでしょうか。

鎌倉 平家一族の冥福を祈るために「教恩寺」



 山門の十六羅漢の彫刻。
 お釈迦様は、入滅の際に仏法を護って伝えていくよう十六人の弟子に遺言しました。
 北条氏康が開基、知阿上人を開山とする時宗の寺。
 もとは光明寺の境内にあった寺で、この地にあった光明寺の末寺、善昌寺が廃寺になったので、1678年に貴誉上人が移建したといわれている。
 本尊の阿弥陀如来像は運慶作で、一ノ谷の合戦に敗れた平重衡(東大寺を焼き討ちをした人、鎌倉で1年あまりを過ごしたが、身柄を東大寺の使者に引き渡され、ほどなく斬首されました。享年29歳)が囚われの身となって鎌倉に連れてこられたとき、源頼朝が、平家一族の冥福を祈るために籠堂を建立し、阿弥陀三尊を奉安したもの。

尾道 “重軽さん”の金剛院「金毘羅大権現」

 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っています。
 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。
 天狗の原点ついては、『日本書紀』に猿田毘古神について、鼻がきわめて長く、背も高く、目は鏡のように輝いていたとあり、この姿から天狗のイメージのもとになったともされています。神々の道案内をするという役割は、のちに方角の神、旅の神、道の神という信仰を生みだしました。そのため集落の境や道の分かれ目などに道祖神として祀る例も多くなりました。

福山 鞆の浦 仏庭十三仏がある「地蔵院」

 鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

鎌倉 日蓮の弟子の四条金吾頼基の屋敷に「収玄寺」

 むかし、日蓮の弟子の四条金吾頼基(よりもと)の屋敷があったところです。1271年(文永8年) 9月、日蓮のいた庵に北条時宗の使者が大勢きて、日蓮を由比ケ浜に引きたてていきました。このことを知らせる使いが頼基の所に走り込んでくると、頼基兄弟はすぐさまはだしで由比ケ浜にかけつけました。
 「日蓮上人を殺すならば、自分を身代わりに段してください。」
と申し出たのですが、そのため役人ににらまれてしばらく土牢(つちろう)に入れられたり、主人の江馬光時(えまみつとき)から領地を没収(ぼっしゅう)されたりしましたが、信仰をまげなかったということです。

尾道 金堂の保存修理で間違いが「西国寺」

 ここの金堂の保存修理工事では、建物の右側の側面の戸と左側の側面の戸をめぐって、戸を右前に並べるか、それとも左前にするか、それをめぐる話があります。
 金堂の左右側面の戸は、舞良子(まいらこ)と呼ばれる細い桟が一定の間隔で取り付けられています。こういう側面にある戸は、中世までの建物では、左右の戸が建物の正面から見て対称になっていることがよくあります。右側の側面の戸が右手前に並び、左側の側面の戸は左手前に並ぶことです。
 西国寺の金堂の左右の舞良戸も右側面は右手前に並び、左側面は左手前に並んでいました。
 ところが、保存修理を終わってみると、左右とも右手前に戸を並べてしまっていたのです。建具を担当した職人が、引き違いの戸は右手前と思い込んでいたため、こういう間違いが起きてしまったのです。

鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」

 坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)です。延暦20年(801年)坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
 その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。
 日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したころ、富士山が大噴火した最初の記録が残っています。富士山の噴火記録は、奈良時代の末期からあるのですが、大噴火の記録としてはこの延暦の噴火(西暦800~802年)からです。

尾道 間借りしていた三軒長屋「志賀直哉旧居」

 志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
 志賀直哉は、夕方になると八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
 長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか。
 そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。

鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」

 円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。山号は伝衣山(でんねさん)。本尊は千手観音像。五山文学で有名な造庭で有名な夢窓疎石の塔所です。疎石は建治元年(1275)生まれ、京都南禅寺に入寺した後、鎌倉瑞泉寺を開き、元徳元年(1329)に円覚寺五十三世として入寺。後醍醐天皇や足利尊氏の帰依を受けました。観応二年(1351)に死去、臨川寺に葬られましたが、後の文和三年(1354)に弟子の方外宏遠によって円覚寺内にも塔所が造られました。生前、黄梅院は夢窓派の活動拠点となり、また応安元年(1368)に足利尊氏の子、二代将軍足利義詮の遺骨を分骨したことで、さらに発展しました。しかし、足利氏の外護を受けていた時代が終わると、衰微していきました。

厚木 渡辺畢山が描いた厚木六勝図に「熊野神社」

 熊野神社付近は、古くから「熊野の森」といわれ、大きな木がたくさん生い茂っていました。渡辺畢山が厚木を訪れた際に描いた厚木六勝図の一枚に、「熊林ノ暁鴉」(熊野の森に明け方群がる鴉)があり、これはここの風景を描いたものです。この絵から人家もまれだった当時の様子がわかります。
(注)乳状下垂……古いイチョウによく見られる状態で、幹や太い枝の表皮に一部が乳房のように垂れ下がったもの。

鎌倉 後醍醐天皇を助けた「日野俊基朝臣の墓」

 日野俊基は、下流の儒家の出でしたが、後醍醐天皇の信任を得て蔵人となりました。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わました。諸国を巡り反幕府勢力を募ったが六波羅探題に察知され、正中元年(1324年)の正中の変で、同族の日野資朝らと逮捕されましたが処罰は逃れました。京都へ戻ったのですが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した二度めの討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡で処刑されました。

尾道 蛇が神さまの使い「辨天神社」

 「辨天」は「べんざいてん(弁才天)」の略。
弁才天は七福神のなかで唯一の女性、美と才能、財宝を生み出す女神、弁天(べんてん)(弁財天、弁才天)です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
 「弁才天・辯才天」(「弁(辯)才」は 梵 Sarasvatī (サラスヴァティという女神の訳語) インドの神の名。聖河の化身という。
 室町時代以降は、弁財天が七福神の一神に加えられて福徳財宝をつかさどる神様として崇められるようになり、とりわけ江戸時代になるとその人気が大いに盛り上がりました。