尾道 中世時宗の特徴をよく表している「常称寺」

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 鎌倉時代の後期の正応年間(1288~1293年)に、時宗二祖真教上人によって創建されたと伝わる古刹である。神奈川県藤沢市清浄光寺を本山とする。
 1340年に足利尊氏が七堂伽藍を建立するも、本堂だけを残して焼失、その後再建と焼亡を重ね現在に至る。 現存の本堂は、室町中期の建築で、外観を和洋、内部構成を禅宗様とし、内陣・外陣と脇陣を一体空間とするなど、中世時宗の特徴をよく表している。 南北朝時代の作、重要文化財「紙本白描遊行上人絵伝」が伝わるなど、多くの寺宝が現在に伝わっている。
 中世時宗寺院は全国的に遺存例が少なく、そのなかでも室町時代の遺構が3棟も残っている例は希少。

厚木 火を司る火之迦具土大神を祀る「秋葉神社」

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 秋葉神社は、火伏の神として全国に400社ほどあり、総本宮は静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社です。祭神は火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)でです。明治までは秋葉大権現といわれる仏教寺院で、秋葉山三尺坊が信仰を集めていました。
 秋葉三尺坊大権現が火伏の神として全国的になるのは徳川綱吉の頃からで、秋葉山三尺坊が火伏に霊験あらたかとして宣伝されてからです。秋葉講が組織され、とくに火事の多い江戸では多くの秋葉講が結成されて、町の各所に秋葉山常夜燈が設置され、家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られるようになりました。大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになって全国各地に広がっていきました。

鎌倉 鎌倉時代に広る熊野信仰「熊野神社」

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 創建年代は不詳ですが、応永年間(1395~1427年)及び永正年間(1504~1520)に社殿を再建したと伝えられ、隣接する浄妙寺が1188年密教寺院として創建していることから、1188年頃には創建されたものと推定できる。
 祭神は天宇頭女神(あめのうづめのかみ)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)です。

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

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 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。  鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。

鎌倉 古色蒼然たる気配の寺「杉本寺」

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 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。
 光明皇后は夢の中で「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前と行基に命じて、財宝を寄付して734年の春、この寺を開いたと伝えられています。

相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」

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 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

尾道 俗に一宮さんといわれる「吉備津彦神社」

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 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
 第十一代垂仁天皇の時代のこと、朝鮮半島の百済からやってきた温羅(うら)なる鬼神が吉備(美作・備前・備中・備後、現在の岡山県と広島県東部)にたどり着き、住みついた。温羅は瀬戸内海を航行する船に海賊行為を行い、婦女を掠奪するなど、乱暴狼藉をくり広げていた。
人びとは恐れおののき、都に訴え出てきたので、朝廷は吉備津彦を遣わし、温羅を成敗したという。

鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」

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 佐助稲荷神社の下社と社務所があります。
さらに行くと、奉納された鳥居やのぼりが立ち並ぶ参道の両側にたくさんの狐の置物がありその突き当たりに急な石段があります。その石段を上ると杉木立の中に拝殿が建っています。その裏手の石段を上がると本殿があります。
 境内は巨木が空をおおい、昼なお暗く静まりかえり、人里離れたかくれ里のふんいきがただよっています。

尾道 尾道随一の名水“延命水”の「正念寺」

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 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。当山は第三十一代遊行上人によって闘かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発擢したといいます。

鎌倉 源頼朝夫人平政子の墓がある「寿福寺」

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 1200年 源頼朝夫人政子(平政子)が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
 明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
 開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。

福山鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」

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医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
 医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。6年に一度ご開帳されます。広島県の重要文化財にも指定されています。
 坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。

相模原南 縄文の住居を再現した「勝坂遺跡」

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 縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡であり、この集落遺跡の一部約2ヘクタール(勝坂D区)が国指定史跡となっている。
 勝坂遺跡は相模川によって形成された河岸段丘上に立地し、西側の段丘の下には鳩川が流れている。また、段丘崖には現在でも湧水や、天然記念物として市の登録文化財となっている照葉樹林がみられる。

鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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 菅原道真を祀る荏柄天神社は古来学問の神として信仰が厚く、大宰府・北野と並んで三天神とよばれ、室町時代以降、詩歌の献詠が盛んであった。また寃罪を判ずるとする古い信仰もあって、『吾妻鏡』に渋川守兼の歌を献じて至心を訴えた記事が見えている。
  右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
 その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。

尾道 お店の裏の神社と関連は?「磯の辨天神社」

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 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 現在の神社はあまりにも小さく、昔からこの狭さであったとは思えません。横のお店の裏側に名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」

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 寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。
 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

尾道 天寧寺から信行寺の途中に「幸神社」跡

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現在は「幸神社跡」の石碑しかありません
 由緒あるこの社殿も文明奪中(1469~1487)に再興され、当時は旧暦四月十二日に祭礼が行なわれ、当夜は町内の道路を通る婦女子の尻を捻ってもよいという奇習から賑わいをみせ、造り物も盛大であったが、明治にいたり尻捻りの風習はなくなり、また飾りものも大戦勃発とともに姿を消してしまった。
 さらに神社まで引っ越しと云う憂き目をみたが、敬神の念深い近くの中村鶴造、浅井鶴松、岡千代蔵の三人が発起人となり、地理的にも意義のある同社の位置を示す「幸神祉跡」の石碑を物資乏しい昭和二十三年に建立したもの。

座間 日蓮人処刑を免れた刀とゆかりの「圓教寺」

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円教寺に伝わる話
 刀工鈴木弥太郎貞勝は、1271年、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。

尾道 自然石に彫られた羅漢達「済法寺裏山 石仏群」

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 済法寺の裏山斜面の自然石に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 十六羅漢とは、お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といいます。仏教を護持しようと誓ったとされる弟子達です。羅漢は阿羅漢の略で,供養に値する人という意味です。

鎌倉 幕府の守り神の夷神を祀った「本覚寺」

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 この寺を開いた人は、一乗院日出(にっしゅつ)です。この人は、寺の縁起によればもとは学者でしたが後に日蓮宗の僧になりました。生まれた所は、駿河の国(今の静岡県)三島で、いろいろな迫害や苦労にたえられる修行をしました。その後、鎌倉の夷堂(えびすどう)に住み、教えを広めようとしましたが、他の宗派の人々の反対にあい、鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に捕えられ、刑場で殺されそうになりました。しかし、夷神(えびすがみ)のお告げにより許されたといわれます。このことがあって持氏は、夷堂のあったところに本覚寺を建てて日出に寄進したそうです。

尾道 本堂内に「泣き龍天井」がある「西郷寺」

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 1353年の開基。本堂・山門ともに国重文で、時宗の本堂形式としては他に比類のない名建築です鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
 本堂は文和2年(1353年)に発願され、時宗最古式の本堂として貴重なものです。堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音が帰ってきます。