鎌倉 源頼朝の館 大倉御所の北隅「白旗神社」

 白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮と並ぶ崇敬を集めた。
 江戸時代末までは寺院として法華堂があった。明治維新に白旗神社と改められた。
 神社奥の山上には源頼朝の墓がある。また、その少し先に大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓もある。これらの墓は、江戸時代になってつくられた。島津も毛利も後にも手を結んで行く事になったのだろうか。

尾道 アララギ派のリーダー「中村憲吉旧居」

 中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。(アララギは、正岡子規門下の歌人たちによって結成された短歌結社誌)
 1933年12月25日に病気(肺結核と急性感冒)の療養のために、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地し、1934年5月5日、45歳の若さで帰らぬ人となった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれています。
 ここでは、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されています。
注)「文学記念室」は、2020年3月末、入館者数の低迷などを受けて閉館したようです。この施設も文学記念室の一部なので、閉館したのでしょうか。

相模原 西部 北条氏照の娘貞心尼を中興開基の「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

鎌倉 腰越 生き延びた比企高塚の屋敷跡に「本龍寺」

 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。慶長6年(1601年)に津村の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女により龍口寺が本格的な寺としての格式を整えられてから、江戸時代までは片瀬腰越八ヶ寺(通称片瀬八ヶ寺)が輪番で維持していた。本龍寺もそれまでは、「与蓮山」と号していたが、「龍口山」と改める。
 平成14年、立教開宗750・創建700年を期して、本堂建て替え並び寺域整備を行う。

尾道 断崖に造られたとは思えない「千光寺」

 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
 唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。
 見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。

厚木 江戸時代は境内に山王社にまつられていた「知恩寺」

【智恩寺山王大権現懸仏】
 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。

鎌倉 浄土宗三祖光明寺開山の「良忠上人御廟」

 念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。
 その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜った。本堂横の池のある庭園が記主庭園と名付けられているのはこのことに由来している。

尾道 瀬戸田 多彩な堂塔が並ぶ「耕三寺の」三段部分

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。

福山 鞆 毛利輝元が足利義昭を迎えた「静観寺」

 平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となった。南北には北朝と南朝間で幾度も戦闘があり、静観寺五重塔など貴重な文化財が失われた。また鞆の浦が足利尊氏の再起の拠点となり、室町幕府成立へ重要な役割を担った。戦国時代に入ると、毛利、尼子勢の間で拠点争いの地となった。毛利氏擁護の下で室町幕府15代将軍足利義昭が長期滞在、鞆幕府とも呼ばれた。

鎌倉 日上人修行の血の池がある「妙隆寺」

妙隆寺の鍋かむり上人

 辻説法跡の次の妙隆寺にも、熱狂的・行動的な日蓮宗の僧侶がいました。この寺の第二祖日親上人です。
 日親は、この寺で激しい修行をした後、京都に本法寺を開き、日蓮にならって辻説法を行い、日蓮宗の布教につとめました。そして時の室町幕府六代将軍足利義教に直訴を行い、「立正治国論」を執筆しました。日蓮が受けた法難を自らも受けよう、追体験しようという強い意志が感じられます。しかし幕府はこれを許さず、日親をとらえて、真っ赤に焼いた鍋を頭からかぶせました。これが「日親上人鍋かむり」の伝説です。
 日親はこのとき34歳。将軍義教はまもなく赤松満祐に殺され、日親は出獄。再度獄につながれたりもしますが、応仁の乱へ突入して行く乱世の中、日親はめげることなく京都の町衆へ日蓮宗布教につとめ、82歳まで生きました。

尾道 船内で料金が徴収される「福本渡船」

 尾道駅前広場の東端付近から少し東に行くと、向島の小歌島(おかじま)とを結ぶ航路があります。3つある航路の中で最も運賃が安い渡船でもあります。尾道側桟橋入口の赤く塗られたゲートが特徴です。
  大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
 チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3分の航海を体験でき、通勤時間帯は約5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わるようです。)

厚木 盤筒男命と平将門の御霊を相殿に「依知神社」

 縄文弥生の往古より遠い祖先は、盤筒男命を祭神に依知神社を創建し、郷土の開発に尽力して来た。平将門が関東平定のおり、当社に参詣し相模川氾濫の苦難を眼前にし、赤城山神馬献進の託宣を給いたちまち堅牢なる護岸の完成が実現したとのこと。
 このことに感謝感激した 氏子は、将門公の御霊を相殿にして937年社殿を再建し、赤城明神社と称した。
 源頼朝が鎌倉幕府を創設のとき、10万余坪に及ぶ 社領を寄進したという。その境内は、祭り競馬をした所を馬場、大鳥居のあった所を鳥井という地名にするほどの広大なる土地であった。

鎌倉 もとは光明寺の境内にあった寺「教恩寺」

 開山は知阿(ちあ)です。小田原北条氏3代目の北条氏康(うじやす)が光明寺境内に建てたのが始まりといわれています。
 このあたりはもと米町(こめまち)と呼ばれていて、ここには以前、光明寺の末寺の善昌寺(ぜんしょうじ)がありましたが、いつの頃か廃寺になり、1678年(延宝6年)、貴誉(きよ)が光明寺境内から教恩寺を現在の大町に移したといわれています。
 1937年(昭和12年)ごろ、境内から古銭がいっぱい入った古い壷が出土しました。銭は中国の宋や明の時代の銅銭で、鎌倉時代や室町時代にこれらの銅銭が使われたことがわかる貴重な資料といえます。

尾道 昔は昼寝寺として有名だったのですが「浄泉寺」

 本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)  開基は、1525年に宗円が現在の木ノ庄町市原の地に一精舎を建立したのが始めで、その後1596年に現在地に道場を移した。
 大屋根には畳16畳という鬼瓦を東西に頂き、瀑布の流れ下るような瓦の波は近在随一の大伽藍である。
 本堂前の水盤「離垢」の名文は頼山陽の筆で、「浄泉即是萬劫不乾」などの句が読まれる。また、元禄時代の尾道の石工の名工の作、雨受盤をささえる「天邪鬼」は有名。
 昔は「昼寝寺」として有名だったのですが、いまは、たばこでの火災危険のため禁止になって随分たちました。

厚木 飯山の観音さんとして知られる「長谷寺」

 当山は神亀二年(725)奈良時代の高僧、行基により開かれ初めは飯山寺と呼ばれていました。
 その後、大同二年(807)弘法大師が真言密教の場としたと言われ、この地の領主飯山権太夫が深く信仰し伽藍を建立したと伝えられています。
 弘法大師空海は最澄と同時代人で、しかも非常に深い交流がございました。もともと彼らはどちらも遣唐使の一員として、同じ船団で唐に渡っています。二人は乗った船も違っていたようです。空海は、中国の長安まで行き、その当時の「真言密教の最高峰」と呼ばれていた青龍寺の恵果阿闍梨に学び、免許皆伝のようなものを受けた人です。

尾道 豪壮な山門「ええもん」と呼ばれる「福善寺」

 山門は、四脚門(よつあしもん)で本瓦葺の切妻造となっており、軒丸瓦の円形瓦頭(がとう)は烏丸家(からすまるけ)の家紋である鶴丸の文様となっている。
 欄間には豪壮な龍の彫り物が施されている。
 幕末のころ、第11代住持であった性円が妻を京都の烏丸大納言家から迎えたとき、尾道の大工が京都制作された彫刻を引き継いでこの山門を組み立てたという。
 「ええもん」と呼ばれ、方言として、良い物を「ええもん」と言っています。
 尾道の子供たちが、親にねだるときに「なんかええもんこうてえ(買って)」とおねだりすると、親は「ええもんは福善寺」と言って、ごまかしていたとか。

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 行基の作と伝えられる薬師如来像がおられます。
 薬師如来のご利益は、密教の七仏薬師法を行えば、滅重罪(めつじゆうざい)から除病至菩提(じよびょうしぼだい)にはじまって、除病延命、産生安穏(さんしようあんのん)、天変、風雨、時節反逆の難まで、あらゆることにご利益があるとされていす。
 抽象的なご利益ばかりの他の如来より、病気治療をはじめ、呪詛を封じ、災害や反逆から護ってくれる薬師如来は頼りになったのでしょうね。

厚木 古い石仏が掘り出された「金剛寺」

 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。
 この大師堂の周りに、畑から掘り出された数多くの石仏が並べ置かれています。

尾道 空海入唐の頃には既に開かれていた「大山寺」

「愛宕山の日限地蔵」

 往昔、釈迦如来が在世のさい、地蔵菩薩を召して日く「われ入涅槃すれば弥勒菩薩出世の暁まで五十六億七千万年なり、この間娑婆世界に於いて諸々の悪業をつくり五濁濫漫の苦海に沈める薄福重障の衆生をば済度し、永く悪道を離れて仏道を成せらしめよ」と-。この時から地蔵は我が身を百千億にもわかち民衆救済のため路傍にたたれた。
 日限地蔵は数百年前からこの地にありて、幕末ごろ現在のお堂の東手から移り住われた。

鎌倉 石段下に星ノ井のある「虚空蔵堂」

 極楽寺切通を往き還る旅人たちは、伝えとこの水を愛でて、ひとときを井戸のほとりの茶店に憩いました。慶長五年(1600)六月、京都より江戸への帰りに、ここを通った家康もこの名井を見学して行ったという記録も残っていますが、忙中閑あり、というのでしょうか、まことに奥床しい心がけと思います。
 その後、近くに住む下女が菜ワ切り包丁を、あやまって井戸へ落してしまい、それからというものは井戸はいやな顔をしてしまい、星を映さなくなったということです。
 石段を上ると虚空蔵堂があります。
 本尊の虚空像菩薩(ぼさつ)は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。