鎌倉 江戸時代は所領150貫ほどだった「円覚寺」

 1333年(元弘3年)に北条氏が滅亡した後も、北条氏に招かれ円覚寺の住職にもなっていた夢想礎石が、後醍醐天皇や足利氏の信任も厚かったため、寺の勢いは保たれましたが、室町時代には、1374年(応安7年)をはじめとして火災がしばしばあり、しだいに衰えていきました。
 1590年(天正18年)、関東に入った徳川家康は、翌年円覚寺の所領を認めましたが、150貫ほどでした。江戸時代はあまり変わりはありませんでした。
 幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。

鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

 日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)

 1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。
 菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。
 しかし、57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。

鎌倉 光明寺草創以前よりこの地に「蓮乗院」

 この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗(しんごんしゅう)だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗(じょうどしゅう)の蓮乗院と改めたといわれてします。
 1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈(ほうじょう)に入る慣わしになりました。

鎌倉 塩嘗(しおなめ)地蔵を収める「光触寺」

 光触寺の境内。木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。その本堂の脇に小さな地蔵堂があり、塩嘗(しおなめ)地蔵が収められている。この塩嘗地蔵、なぜそう呼ばれるのか。
 ひとつは、六浦の塩売りが、初穂の祝いのために、「地蔵に備えた塩をなめたから」という説や、塩売りの供えた塩が「いつのまにかなくなっている」というので、そう名付けられたとも言われている。いずれにせよ、鎌倉には地蔵信仰が多く存在する。

鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。
 一時は3,000坪(約1ha)ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。

 徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。

鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」

「稲荷の神霊と頼朝」
 頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑になっていたとき、ある夜、翁が枕元に現れ、「兵を起こし、平氏を滅ぼし、天下を統一せよ」と激励したと言う。
 さっそく、頼朝は鎌倉に入るやいなや、稲荷の神霊に感謝して、佐助山の隠れ里を選び、社殿を造らせ、佐助稲荷神社とうしたと伝えられている。
 このためか、鎌倉には稲荷を祀るところが多い。

鎌倉 鎌倉幕府ができる前からあった「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。
 桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。
 忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」

 ここの堂守の僧が勝長寿院(鎌倉市雪ノ下にあたる相模国鎌倉大御堂ヶ谷に、鎌倉時代初期に源頼朝が建立した寺院)に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。

 今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。

鎌倉 八幡太郎義家が出陣時に白旗を立てた「源氏山公園」

 源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。
 白旗山または旗立山とよばれたこともあるようです。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあります。

「八幡太郎義家」
 九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。
 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。

鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」

 第十五世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。本尊:千手観音菩薩。
 円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。

 中国から日本へ渡来した無学祖元は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。
「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」と。
 現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めた。

鎌倉 もとは市役所の駐車場にあった「諏訪神社」

 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。

 諏訪神社は現在、商工会議所西側の御成トンネル右手前に移され、社殿も鳥居も再建されています。この神社は、誠訪盛澄(すわもりずみ)・盛重(もりしげ)の邸内の守護神としてまつられたものということです。
 現在諏訪神社がおかれている場所には、以前簡易裁判所がありましたが、現在は由比ガ浜に移されています。

鎌倉 昔、極楽寺の境内でした「熊野神社」

 もとは新宮社と名乗っていました、1269年(文永六年)忍性が熊野本宮から勧請したと伝えられ、鎌倉時代、極楽寺全盛時より熊野新宮と名付け、極楽寺の鎮守社として広く神域を領して鎌倉幕府の崇敬を受けていました。
 祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、素斐鳴命(すさのうのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)です。
 極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の二社があったのですが、関東大震災で倒壊したため、昭和三年に当社に合祀されました。

鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」

 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。

鎌倉 神仏分離で名を改めた「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就の後に黄金(こがね)作りの太刀と黄金を寄進したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離で小動神社と名を改めました。
 また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

鎌倉 捨身護法・法華色読の霊地「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。

 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。

 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。

鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」

 明月院のもともとは、北条時頼が建てた「最明寺」という自邸内の持仏堂がはじまりのようです。時頼の死後は荒廃し、子の時宗がそれを再興し、禅興寺としました。
 この禅興寺の盛時に塔頭として明月院が建立されました。
 本寺の禅興寺は江戸時代に衰退し、明治初年に廃寺とされ、明月院だけが残りました。

 明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。

尾道 太宰府に左遷さる道真が寄った「御袖天満宮」

 菅原道真公着衣の袖をご神体とする神社で、大林宣彦監督の映画「転校生」で主人公が石段を転げ落ちるシーンのロケ地としても有名。またテレビアニメ「かみちゅ!」で境内モデルとなった神社。

 雷が鳴ったとき、「くわばら、くわばら」と唱えませんか?

 死後に雷神となった菅原道真は、復習のために各地に雷を落としたという伝説があります。
 しかし、自分の領地桑原には落雷がなかったところから、「私はあなたの故郷の桑原に住んでいる者ですよ。雷を落とさないでください。」という願いを込めて「くわばら、くわばら」と唱えるようになった、ということです。

鎌倉 足利尊氏が蟄居していた「浄光明寺」

 境内を奥に進むと、石段の上に頼朝の建てた永福寺(ようふくじ)から移されたと言い伝えられる本堂があります。中には、阿弥陀(あみだ)・釈迦(しゃか).弥勒(みろく)の過去・現在・未来を表す三世仏が安置されています。本堂の横にある収蔵庫には、本尊の阿弥陀三尊像(あみださんそんぞう)(国重文)と地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。阿弥陀如来像は、鎌倉時代末期の宋(現在の中国)の影響を受けた彫刻で、像の高さが141cmもあり大きく立派なことと、粘土を貼り付けた土絞(どもん)という模様(もよう)があることでで知られています。

鎌倉 蛇形ノ井の「蛇苫止堂」

 1422年(応永29年)のこと、佐竹(さたけ)氏と上杉(うえすぎ)氏の戦いがあり、負けた佐竹上総介入道常元(さたけかずさのすけにゅうどうつねもと)は山を登って、妙本寺祖師堂の中で自殺しました。あとを追ってきた上杉方は、祖師堂に火をつけました。そのときの住職日行(にちぎょう)は急いで堂の前の宝蔵から、これだけは焼かれないようにと、日蓮(にちれん)が書いた、本尊である仏の世界を表した曼荼羅(まんだら)を持ち出し、「蛇形ノ井」の中に隠しました。するとにわかに空に黒雲が起こり、その中に蛇の姿が見え、突然、すさまじい音とともに雨が降り注いで火を消してしまったということです。