| 極楽寺切通を往き還る旅人たちは、伝えとこの水を愛でて、ひとときを井戸のほとりの茶店に憩いました。慶長五年(1600)六月、京都より江戸への帰りに、ここを通った家康もこの名井を見学して行ったという記録も残っていますが、忙中閑あり、というのでしょうか、まことに奥床しい心がけと思います。 その後、近くに住む下女が菜ワ切り包丁を、あやまって井戸へ落してしまい、それからというものは井戸はいやな顔をしてしまい、星を映さなくなったということです。 石段を上ると虚空蔵堂があります。 本尊の虚空像菩薩(ぼさつ)は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。 |
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鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」
鎌倉 水戸光圀が7日間ほど逗留「英勝寺」
鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」
鎌倉 火の災いを除く「秋葉大権現」
鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」
鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」
鎌倉 鎌倉の苔寺といわれる「妙法寺」
鎌倉 江ノ島弁天に恋した五頭龍が鎮座した「龍口寺」
鎌倉 鎌倉幕府の礎石 三浦大介義明の霊を弔う「来迎寺」
| 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。 本堂の右には三浦義明の墓といわれる供養塔と、石橋山の戦いに敗れて三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠(はたけやましげただ)軍に17歳の若さで殺された三浦一族の多々良良三郎重春(たたらさぶろうしげはる)の墓と伝えられている高さ2mほどの大きな五輪塔2基が並んでいます。 |
戦で多くの人が亡くなっていますね。世界には戦に変わるやり方で、権力を手に入れる民族もいます。インド・ナガランド州に、20世紀末近くまで「首狩り族」として名をはせた民族が住んでいます。この民族は、一対一で強者・長者に挑戦し、その首を取ることを名誉とする民族でした。
この行為をどのように見るか、悲惨なことと見るか、戦に比べればはるかに死者が少ないと見るか。
第二次世界大戦頃から、基地や軍需工場の攻撃から無差別攻撃に移り、戦いで多くの人が命を落とすことが普通になっていますね!
鎌倉 明治の神仏分離で静かな寺に「寶善院」
鎌倉 かまどの神・火の神の荒神さまを祀る「巽神社」
鎌倉 明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」
鎌倉 学僧達の修行道場であった「 千手院」
鎌倉 北条時宗公産湯の井がある「甘縄神明宮」
鎌倉 お茶屋の奥のお堂「岩窟不動尊」
鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」
鎌倉 下関赤間ヶ淵で網に掛かった釈迦如来像が「薬王寺」
山口県下関のあたりの海で、魚がとれなくなった時期がありました。漁師達が、赤間ヶ淵(あかまがふち)と呼ばれるとても深いところに網を入れてみると、高さが17cmほどの小さな釈迦如来像が網にかかりました。その像は、背中に刻まれた文字から、中国の唐の時代の645年に作られた金銅製の珍しいものだったので、領主の原田氏は、どこへ行くにも持ち歩くほど大切にしていたということです。 原田氏は、薬王寺を再興した日達を崇拝していましたので、日達が薬王寺に入ったときにこの像を寄進したということです。その後、この像は2回も盗難にあったので、寺では代わりの釈迦如来像を造って釈迦堂にまつり、砂金で造られた釈迦像は本堂にまつるようにしたのだそうです。
鎌倉 源氏の旗、白旗に因(ちな)む「白旗神社」
小田原を平定した秀吉は天正十八年七月十七日、奥州へおもむく途中、鶴岡八幡宮に参詣した。
そして、白旗社の扉を開けさせ、源頼朝の木像にむかって話しかけたという。
「およそ微少の身で天下を取ったのは、わが国では御身(頼朝)と自分だけである。しかし御身は多田(源)満仲の後胤という名門の出で、しかも頼義・義家は東国に名を馳せ、為義・義朝も関東に威を張った。だから流人となっても、兵を挙げると関東のものがみな従ったので、天下を統一するのにたやすかった。自分はもともと氏も系図もない身であるのにこのように天下を取ったのだから、その功績は自分の方が勝っている。しかしながら御身と自分とは天下友達である」と、ひとりしゃべりおえると、頼朝の木像の背中をポンポンと叩いた、というエピソードがあります。



















