有髪薬師地蔵尊の拝み方
どこのどんな仏様でもお加護をうけるには一心に拝むことが大切です。
1.必ずお加護があると信じて
2.身の心も清浄に雑念を去って
3.真前に立って合掌し地蔵真言
「オン.カ.カ.カ.ビ.サン.マ.エ.ソワカ」
と唱えながら三回薬壷を手でなぜて自分の躰の悪いところをなぜる。
ボケ封じは頭の頂を抑える。
4.毎日参詣するのが一番良いが週詣り・月詣りなど回数多くお参りし、
5.受けたお加護は他の人にも施すこと。
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福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」
福山 戦国時代、安国寺恵瓊が再興した「安国寺」
この安国寺の歴史が再発見されたのは1949(昭和24)年。解体修理が行われた安国寺の阿弥陀三尊像の中から古文書が見つかった時である。
安国寺は本来、金宝寺。室町時代に寺社名、歴史が書き換えられたと分かった。
阿弥陀三尊像、法燈国師坐像やこれらを収める釈迦堂など、安国寺は国、県指定文化財を蔵するが、すべて金宝寺時代のものだと判明した。
(「知っとく? ふくやま」 監修 松本卓臣/平井隆夫より)
安国寺の住持を務めていた安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物。
恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の拡大に暗躍(ひそかに策動)したが敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。
福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」
福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」
医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こ鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。
文政9年(1826年)に、鞆に寄港したオランダの医師のシーボルトも、植物観察のために医王寺を訪れており、この景観を楽しんだでしょう。
福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」
福山 鞆 淀媛神社から医王寺へ
福山 西国法華布教の拠点であった「法宣寺」
福山 鞆 神功皇后の妹君の淀媛命を祀る「淀媛神社」
福山 鞆の浦 仏庭十三仏がある「地蔵院」
福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」
福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」
福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」
福山 鞆 一直線に結ばれた寺町にある「慈徳院」
福山 鞆 十六羅漢像が安置されている「正法寺」
創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。
釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢
1.賓度羅跋羅堕闇尊者(びんどらばらだじゃそんじゃ)
2.迦諾迦伐蹉尊者(かなかばっさそんじゃ)
3.迦諾迦跋産堕閣尊者(かなかばりだじゃそんじゃ)
4.蘇頻陀尊者(そひんだそんじゃ)
5.諾矩羅尊者(なくらそんじゃ)
6.跋陀羅尊者(ばだらそんじゃ)
7.迦哩迦尊者(かりかそんじゃ)
8.伐闍羅弗多羅尊者(ばしゃらほったらそんじゃ)
9.戎博迦尊者(じゅはくかそんじゃ)
10.半諾迦尊者(はんたかそんじゃ)
11.羅怡羅尊者(らごらそんじゃ)
12.那伽犀那尊者(なかさいなそんじゃ)
13.因掲陀尊者(いんかだそんじゃ)
14.伐那婆斯尊者(ばなばしそんじゃ)
15.阿氏多尊者(あしたそんじゃ)
16.注荼半託迦尊者(ちゅうだはんたかそんじゃ)
羅漢とは、悟りを開いた修行者という意味です。
福山 鞆 朝鮮通信使の常宿でもあった「南禅坊」
福山 鞆 日蓮宗への改宗を拒否、浄土真宗「明圓寺」
福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に造られた福禅寺の客殿。
座敷から一望できる仙酔島や弁天島が浮かぶ鞆の浦の眺めは素晴らしく、江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場となっていました。
正徳元年(1711)、朝鮮通信使の李邦彦がここを訪問した際、対潮楼から見た景色を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛しました。
幕末に坂本絵龍馬の海援隊が運用する「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(880トン)が衝突する日本初の蒸気船海難事故「いろは丸事件」の際、坂本龍馬(武器商人か?)ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行なった場所にもなっています(本来は「いろは丸」側に非があったものの、坂本龍馬は紀州藩側の、本来積んではいないと思われる積載物の損害賠償を求めています)。
福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」
福山 鞆 坂本龍馬は策略士だった「いろは丸展示館」
いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。
明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。
龍馬は、交渉の部隊を長崎に移すことで時間稼ぎをし、その時間を利用し、様々な工作を行ったようです。
最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決着しました。
この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。