鎌倉 禅を世界的に広めた鈴木大拙ゆかりの「東慶寺」

 寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。
 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

鎌倉 洋画家の黒田清輝がアトリエに使った「啓運寺」

 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法(つじせっぽう)」の名画を描いたということです。

鎌倉 ぽたもちを日蓮に差し上げた伝説「常栄寺」

 黒塗りの山門があり、門柱の左右に、あざやかな朱塗りの鎌倉彫で作られた聯(れん)といわれる木板がかかっています。右に「ぼたもち寺常栄寺」、左に「たつのくち くびのおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち常栄寺」という歌が彫られています。
 「棚からぼた餅」といいますが、ここと関係があるのでしょうか?

鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」

 東勝寺は、執権北楽泰噂の招きで退耕行勇が開いたと伝えられている大寺院でした。発掘調査によると、階段状の石段が造られ、とりでのようなっくりになっていたらしいことがわかってきました。出土品には、北条氏の家紋である三鱗(みつうろこ)の入った瓦や、中国から渡ってきたと思われる青磁の碗などの破片が見っかっています。
 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時は、この東勝寺に一族を集め、堂に火をかけて一族郎党800人余りとともに自害したといわれています。発掘調査の結果火災の跡が見つかりました。

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり。
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」

 参道入口の近くに石の門柱があり、「天照山(てんしょうざん)鍛錬所(たんれんじょ)」」と書かれていました。第二次世界大戦中に海軍の軍刀を作った鍛冶場である「天照山鍛錬所」がこのあたりにありました。
 総門の右手前には「関東総本山(かんとうそうほんざん)」と刻まれた太い石の角柱が立ち、目をひきます。また、総門の右手には「大本山光明寺」と書かれた石柱が立っています。

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

 日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
 1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。
 本殿(国重文)は、鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を移築したもので、鎌倉時代の神社建築を伝える貴重な建物です。

鎌倉 由比ヶ浜の八幡宮「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。

 ところで、源氏は八幡神の使いのハトである伝書鳩を使うことが出来たという。鳩は時速60~100kmで飛ぶ。この通信手段は古代からあるが、日本の歴史上は「言い伝え」しかない。本当の極秘事項で、家康が鷹狩りの没頭したのは、鷹のエサでもあるハト(伝書鳩)を使わせないためだったのでしょうか?

鎌倉 一遍は鎌倉門前払いのとき野営跡「光照寺」

 1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
 時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。

江の島 たびたび裏山が崖崩れした「延命寺」

「此処は何なのかしら・・・・?」
 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
 明治、大正、昭和と大雨があり、今の延命寺の上の方、頂上まであったお墓が崩れ、現在の形になったようです。
 くり抜かれた岩盤の入り口付近にお地蔵さま、少し奥には閻魔さまがおわせられ、洞窟奥には整然とお墓が並んでいます。

鎌倉 日蓮が辻説法を行った場所に「本興寺」

 日蓮が亡くなった後、その弟子の九老僧の一人といわれた高僧の天目もさかんに辻説法をしましたが、1336年(延元元年)開山となり、足利氏の一族で奥州探題も務めた石堂良房を開基として建てたのが、本興寺の始まりといわれています。
 14世紀後期の2代目の日什(にちじゅう)のころから、寄進や造営がさかんになって栄えたということですが、1416年(応永23年)、兵火のため焼け、翌年、鎌倉公方の足利持氏が再興したといわれています。

鎌倉 黒蜘蛛が疫病を蔓延、厄除けの「八雲神社」

 八雲神社は、もと祇園天王社と呼ばれていました。1087年(寛治元年)弓馬の名将といわれた新羅三郎義光(源義光)が、後三年の役で兄八幡太郎義家(源義家)の援護のため奥州(東北)へ下るときに鎌倉を通り、疫病が流行して人々が苦しむようすをみて、京都京都祇園社の祭神をここに移して祭ったと伝えられています。鎌倉では古い神社の一つです。

 明治維新のとき、「神仏分離令(通称)」が出されたとき、「祇園」は釈迦の教化活動の拠点の一つであったことから、神社において「祇園」という名前が使えなくなり、もとの名前が「焼蜘蛛(やくも)神社」だったので、「八雲神社」という名前にしたのでしょうか?

鎌倉 天狗の姿をした像を祀る「半僧坊大権現」

 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
 お堂の中には、天狗の姿をした半僧坊(はんそうぼう)像がまつられ、神と仏が一緒になった信仰を伝えています。ここからの眺めはたいへん素晴らしく、毎月17日にお祭が行われます。

鎌倉 明治中頃まで住職を置かなかった「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

鎌倉 昔、ここに律宗の多宝寺があった「妙傳寺」

 ずっと昔はここは極楽寺と同じ律宗の多宝寺と言うお寺があり、裏山には巨大五輪塔があり、その中には「多宝寺覚賢長老遺骨也」がありました。
 その多宝寺については正確なところは判りませが、山号は扇谷山。開基は鎌倉幕府連署・北条重時の子業時とされています。
 開山は忍性で1262年(弘長2年)、忍性はその5年後に極楽寺に移っています。覚賢はその後の住職だったのかもしれません。学堂のある学山、要するにお寺大学院。当時極楽寺・称名寺と並ぶ、西大寺系律宗の拠点寺院であったそうです。

鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」

 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
 1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。『太平記』
 鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。

鎌倉 安産の神様とされる産女霊神を祀る「大巧寺」

「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。
 創建は1320年と伝えられています。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。
 この寺は、はじめ大行寺(だいぎょうじ)といって十二所しありました。頼朝がある戦いのとき、この寺で練った作戦によって大勝したため、大巧寺と名を改めるよう命令したそうです。

鎌倉 日蓮も一時幽閉された土牢「光則寺」

 行時山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。
 境内奥の墓地上にある。文永八年(1271)龍ノロ法難で日蓮は斬首をまぬがれ、佐渡へ流されるまで、他の僧俗とこの土牢に幽閉されたという。

鎌倉 北条時頼公の墓がある「明月院」

 明月院の由緒を述べますと、当寺は北条時頼公の墓といわれる宝笹印塔があることでもわかるように、北条氏執権第五代の最明寺入道時頼の仏道修行の小堂がはじめであります。名君時頼を記念して時宗は禅興寺を建て、後に廃寺となったが、その名残りのたった一つの塔頭が明月院なのです。
 さすが由緒ある古い寺、上杉重房木像、北条時頼塑像という名彫刻を持ち、古都鎌倉の伝統を脈々と伝えているのです。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」長峰五幸著より)

鎌倉 平家一族の五氏の霊を祀る「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。