寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。
東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。
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鎌倉 洋画家の黒田清輝がアトリエに使った「啓運寺」
鎌倉 ぽたもちを日蓮に差し上げた伝説「常栄寺」
鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」
鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」
鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」
鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」
鎌倉 由比ヶ浜の八幡宮「元鶴岡八幡宮」
元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
ところで、源氏は八幡神の使いのハトである伝書鳩を使うことが出来たという。鳩は時速60~100kmで飛ぶ。この通信手段は古代からあるが、日本の歴史上は「言い伝え」しかない。本当の極秘事項で、家康が鷹狩りの没頭したのは、鷹のエサでもあるハト(伝書鳩)を使わせないためだったのでしょうか?
鎌倉 一遍は鎌倉門前払いのとき野営跡「光照寺」
江の島 たびたび裏山が崖崩れした「延命寺」
鎌倉 日蓮が辻説法を行った場所に「本興寺」
鎌倉 黒蜘蛛が疫病を蔓延、厄除けの「八雲神社」
鎌倉 天狗の姿をした像を祀る「半僧坊大権現」
鎌倉 明治中頃まで住職を置かなかった「龍口寺」
鎌倉 昔、ここに律宗の多宝寺があった「妙傳寺」
鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」
創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。『太平記』
鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。