「補陀洛」サンスクリット語で「ポータラカ」(観音菩薩が住むという南海上にある山のことで、観音浄土を意味する)。日本語に翻訳するとき「補陀洛」の字をあてた。
はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていったという。
この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
補陀洛寺は別名竜巻寺ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。
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鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」
鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」
鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」
鎌倉 吾妻鏡にも載っている「岩窟不動尊(窟不動)」
鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」
勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
1303年(嘉元元年)、但馬阿闍梨日実が創建。
1683年(天和3年)、火災で伽藍を焼失する。その後復興する。
1791年(寛政3年)、暴風雨で被害を受ける。その後復興する。
1923年(大正12年)、関東大震災で被害を受ける。その後復興する。
境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまっられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」
鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」
鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」
鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」
鎌倉 頼朝の娘大姫の守本尊を安置する「岩舟地蔵」
木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものでした。
翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
最愛の義高を失った大姫の嘆きは深く、こののち義高を偲びしばしば病床につくことが多く、二十歳ほどで亡くなりました。
鎌倉 八幡太郎義家が白旗を立てた「源氏山公園」

英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。
今は公園として整備され、上天気の日曜などは大賑わいの葛原岡、源氏山一帯も有史以前の一時期は狩猟・漁携を生活手段とする放浪性原始人たちが出没したらしく、縄文式土器や石斧や黒曜石の石鉱などが葛原岡神社の鳥居の傍から出土していることが鎌倉市史考古編に見えている。
将棋の升田九段を思わせる髭面の男が怪しげな鹿皮服で丸木弓か梶棒か何か持って、この辺個していたらしい。陸地は今より低く、入江はすぐ足元の笹目や扇ケ谷まで入り込んでいたから、海の幸にも恵まれた、絶好の野営地だったわけである。
鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」
鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」
江の島 たびたび裏山が崖崩れ「延命寺」
鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」
鎌倉 石段の登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」
明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」
日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。
1331年、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。
日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。


















