山火事を猿が里人に知らせた「山脇神社」

【伝説】
 かつてこの山一帯で、深夜、山火事が発生した際、数百匹もの山猿が社を取り囲んで泣き叫び、里人に危急をしらせ集落への延焼を救った。祭神大山津美之神(山の神=山王)の神使は猿とされる。

 「山王」とは日吉の神様の別名で、天台宗・比叡山延暦寺の守護神としての性格を意味します。それを「山王信仰」といい、天台宗のお寺の広がりと共に日吉の神様がまつられました。こうして全国に分霊社が増えるに伴い、「日吉さんといえばお猿さん」といわれるほど、魔除けの神猿さんも広く知れ渡ったとのことです。

尾道 江戸時代、尾道港の中心地「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

尾道 瀬戸田 耕三寺「千仏洞地獄峡」

 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。

尾道 名木蟠龍の松は涸れてしまったが「光明寺」

 寺の草創は承和年中(834~847)円仁和尚。収蔵庫には、国重要文化財で平安時代後期の作「浪分観音」や尾道市最古の仏像で国重要美術品の「金銅観音」があり、境内下には約30mにわたり東西に枝を伸ばす名木「蟠龍の松」(市天然記念物)がありました。また、本堂の左手には第12代横綱陣幕久五郎の墓があり、墓前には石に刻んだ横綱自作自筆の句碑「うけながら風の押す手を柳かな」があります。

尾道 亀の形の小さな丘だった「亀山八幡神社」

 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬したとされている。
 比較的敷地の広い神社です。参道は本通りから続いており、JRと旧国道2号線に分断されています。

尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」

 本堂の西側にある「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。
 三人が捕らえられ処刑された夜、この寺の住職勘応の夢枕に三人の霊が現れて、「我々三人の首を埋葬供養されたら、首より上の病を癒すであろう」と告げたので、住職は三人の首を請い受けて本堂の横に埋葬し、三人の戒名を刻んでねんごろに供養した。それから霊験まことにあらたかであるので「三ツ首様」はお香の煙が絶えない。

尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」

 向上寺は応年七(1400)年地頭・生口守平公が 瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として 崇敬されました。
 伽藍は明治6年に焼失、本堂は三原近在の寺院解体による古材で 再建しましたが、その後、老朽破損・解体し、現在は仮本堂にて 創建六百周年の復興を目指しています。

尾道 平安時代の初め806年の鎮座の「艮神社」

 非常に神聖な感じを受ける神社です。
 この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
 “神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。
 名前の艮(うしとら)は北東はの方位で、時刻にすれば夜中の3時前後、「草木も眠る丑三つ時」にあたります。

尾道 日本最古の交通安全標識が「尾道東高等学校」

 ここは林芙美子の母校である。林芙美子の文学碑と対照的祥碑のすぐ後方に風雅な頼山陽遺墨の「往来安全」灯籠がひっそりたっている。
 この灯籠は頼山陽と交りが深かった籔内流茶道の宗匠内海自得斉が山陽来遊のさい揮毫を依頼して天保年中(1830-)当時山陽道の脇道として往来の激しかった東高下の防地川に建てたもの。
 1973年頃ここに移した、おそらく日本最古の交通安全標識なのでしょう。

尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」

 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。

尾道 幕末の頃「拳骨和尚」がいた「済法寺」

 1753年広島国奉寺11世笑堂の開基と言われています。境内の山中の岩には釈迦や十六羅漢像など二十六尊者の石仏が刻まれています。
 またこの寺の9世物外(もつがい)不遷は「柔術不遷流」の開祖で多くの弟子を抱え、晩年は幕末動乱の中、平和を願い奔走し旅中に果てました。武術の他にも多くの俳句や書画を残し「拳骨和尚」として親しまれています。

尾道 文人たちが集まった橋本家庭園「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

尾道 海上3分の航海を体験しませんか「福本渡船」

 大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
 チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3分の航海を体験でき、通勤時間帯は約5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わることもあります。)

尾道 虚空蔵堂もある「慈観寺」

虚空蔵堂
 「講(こう)」といい、同一の信仰を持つ人たちの結社で維持されていたお堂でした。現在は慈観寺さんが引き継がれているそうです。
 海中より引き上げられたと伝わる虚空蔵菩薩像を安置。「空海が、海の彼方の輝く老木を引き上げて等身大の虚空蔵菩薩座像を刻み安置した」、という伝説があります。
 疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかった子供が治癒したので、子供の病気の治癒に効くとされています。そのためか、「薬師如来の真言」を書いた紙が、下に貼られています。

尾道 昔、夜毎に海上を照らした玉の岩の「千光寺」

【民話 千光寺の玉の岩】
  ぬばたまの夜は明ぬらし
  玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり
 と、古歌にもうたわれているように、尾道は「玉の浦」とよばれていました。この名の由来に次のような伝説があります。
 ずっと、ずっとむかしの話。
 千光寺山は、むかしからぢ大きな岩がぎようちさんあるレころじや。今でもたたくとポンポン音がする「鼓岩」や、大きな亀が首をのばして下の道を見ようる一亀の岩一など大きな岩があるんよ。・・・・・

尾道 瀬戸田 武州から来た法然上人像「法然寺」

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め)、その徳を慕われた後白川法皇の皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
 その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。

浄土寺山8合目あたりに巨石「不動岩」

 浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。
 その8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。

尾道 変化に富んだ天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」

「天水鉢をささえる八体の天ノ邪鬼」
 あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。
 何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。

尾道 各地の古建築を模した「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。


 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。

尾道の旧市街で唯一名前がある「蓮花坂」

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。尾道は坂のまちとして知られているが、坂道のほとんどにに名前がない。ひとつだけ例外の坂道がある。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道がある。
 尾道には、確かに坂道がたくさんある。しかし、ほとんどの坂道には途中に石段がある。「坂(阪)」という文字はその原点に「土のイメージ」があるため、坂道の途中に石段があると「坂道」と呼ぶには抵抗があったのでしょうか。
 尾道では石段のない珍しい坂道が「蓮花坂」、そのため坂道に名前をつけ、そのほかの石段が途中にある坂道には名前をつけなかったのでしょうか?