鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」

 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。

「片づけをしなくては」と思っている人!

 人生のどこかで、自分の習慣の見直しをすることが必要なようです。
 自分が育った家では、片付けをするのですが、今住んでいる家では、あまり片付けをしない、といった方もおられるのではないかと思います。
 親の習慣が、子どもにきちんと伝わるとは限らないようです。
 あまり豊かでなかった時代、片付けはキチンとしていたのでしょうが、日本が豊かになってしまうと、片付けはいい加減になってしまうのでしょうか?
 今では“片付け専門家”もおられるようです!

厚木 子供や水子の供養の地蔵信仰「子合地蔵尊」

 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。

日本は治安がよい国と思われているが、はたしてどうか?

 途上国ではこれらは「生きるためには仕方のないこと」と考えられているようです。戦後の日本も同じでした。
 しかし、今の日本ではギャンブル依存症が深刻な社会問題になってきています。
 治安とは、人々が安心・安全に暮らせるように社会の秩序が保たれていることなのですが、自分の収入の範囲でのギャンブルはどう考えればよいのでしょうか?
 パチンコ依存のひとは結構老いるようですが!

江の島 たびたび裏山が崖崩れ「延命寺」

 明治、大正、昭和と大雨があり、今の延命寺の上の方、頂上まであったお墓が崩れ、現在の形になったようです。

 くり抜かれた岩盤の入り口付近にお地蔵さま、少し奥には閻魔さまがおわせられ、洞窟奥には整然とお墓が並んでいます。

「此処は何なのかしら・・・・?」

 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。

権威者の指図とあればそれに従い、他人に責任転嫁させる!

 権威者に、人はどう反応するか、世の中で起きていることを見ると、想像ができます。
 この権力者に対する反応の強弱は、風土によって違いがあるのでしょうか?
 それとも、政治体制によって違いがあるのでしょうか?
 権力者によって違いがあるのでしょうか?
 ただ、現代では情報の操作による影響が強くなっているようです。その情報も五感の内、「言葉」と「映像」に頼っているようです。
 生成AIはこの分野の機能が発達しているようで、心配はありますね!

尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」

 千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。

「人生百年」と呼ばれる時代がそこまで来ているのに!

 人生100年時代、これを25年ごとに区切りを付けると、0~25歳までは学ぶ時代、ここで知識教育だけでなく、五感を使った体験があると、その後の75年間の視野が広がり、ゆとりができるのではないかと思います。
 最近の異常な殺人事件を見ると、いろいろな体験から来る{痛み」の経験が乏しいのでは? と思ってしまいます。
 幼い時、虫など平気で殺していたのが、自分が痛みの経験を重ねるに従い、虫を殺さなくなっていきます。
 五感の経験は、言葉や映像による知識より、人間として生きていくためには重要なようです!

2025年7月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : risetu

鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。

 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。

 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。

どうしようもないこと、放っておく!

 「悩んでいるとき」は、なかなか楽しいことは思い浮かばないですね。
 悩みの相談を受ける人は、悩んでいる人の楽しみを見つけることができるのでしょうか?
 悩んでいるときに楽しみが見つけられたときは、それほど悩んでいないのかもしれませんね。
 技術的な悩みを相談されたときは、解決策を提案できることはできるのでしょうが、精神的な悩みは、外に出て、何か新しい体験ができると良いのですが!

厚木 火を司る火之迦具土大神を祀る「秋葉神社」

 秋葉神社といえば火伏の神として全国に約四百社あり、総本宮は静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社である。祭神は火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)で伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の子供だが、明治までは秋葉大権現といわれる仏教寺院で、秋葉山三尺坊が信仰を集めていた。
 秋葉三尺坊大権現が火伏の神として全国的になるのは徳川綱吉の頃からで、秋葉山三尺坊が火伏に霊験あらたかとして宣伝されてからである。秋葉講が組織され、とくに火事の多い江戸では多くの秋葉講が結成され、町の各所に秋葉山常夜燈が設置され、家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られるようになり、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになって全国各地に広がったのである。

心の容量には限界があり、たくさんのことは考えられない!

 心配事、「お前なんかお呼びじゃないよ」と追い出したいですね。
 気持ちをジャンプし、楽しいことを考えることに切り替えができれば良いのですが、難しいですね。
 子供時代から、いつも外で遊んでいれば、落ち込んだとしても切り替えができるような気がします。スポーツも(指導者にもよりますが)そういう面がありますね。
 知識教育は効率的ですが、気持ちの切り替えという面では、非効率のような気がします。
 気持ちの切り替えには、外に出て五感を鍛えましょう!

尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

 「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔

 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
 天寧寺の三重塔は、五重塔であるにもかかわらず、心柱が下まで通っているわけで、こういうところからも、以前は五重塔であったことがわかります。また、その他にも、五重塔だったことを示す痕跡があちこちに残っています。外観もそうです。三重塔にしては各層の間が詰まっているように見える。

家庭菜園の第一歩は、「習うより慣れよ」ですね!

 自然が好きな人、自然に興味がある人は、家庭菜園がおすすめ。
 現在の物価高騰をどう乗り切るか、太陽戦争後の食料不足のどう乗り切ったかが、参考になると思われます。
 庭が家庭菜園になり、料理から出るゴミや枯れ葉などを肥料にし、薬品など使わず、どんな形状の野菜でも美味しく食べていました。
 都会に人口が集中している時代、田舎で家庭菜園がやりやすい環境ができれば、物価高騰も都市に人口集中も緩和できないでしょうか。
 家庭菜園をしている土地への固定資産税の減税や、オンラインで仕事をしている方の、月数度の都会の会社への交通費の補助か所得税の減税など、なにかしらの効果的な対策はないのでしょうか?

鎌倉 石段の登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」

 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺

 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。

 本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は毎年1月13日に御開帳して拝める。
 また、1月、5月、9月の13日には「護摩焚き供養」が行われている。

核戦争後の地球、地中深くに逃れ生き延びるより他ない!

 アメリカは、イランの核施設を破壊したと、報じています。しかし、核のゴミは残るでしょう。
 核戦争は、爆弾での被害だけでまく、核の雨や核のゴミ(放射性廃棄物)を生み出します。
 核のゴミをドローンでばらまかれたら、ドローンを打ち落としたところで核のゴミはばら撒かれてしまうでしょう。
 すると、人に被害を与え、作物などの食べ物に核物質が含まれてしまいます。
 核戦争は、爆弾によるその場の被害だけでなく、雨や風による放射性廃棄物の被害、そして食べ物によるじわじわとした被害、爆弾を落とした側も、防ぎようがないですね!

相模原南西 庚申信仰の本尊を祀る「勝源寺」

 勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。

 青面金剛尊霊場(札所)

 青面金剛は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。
 この会合を「庚申講」と呼びます。庚申講は平安時代から貴族に広まり、やがて民間でも盛んとなり、夜通しの酒宴へと変化していきました。仏教では、青面金剛は帝釈天の使者で、悪霊を払い除く力があるとされています。

社会全体が「ハウツー」重点主義になっていったが!

 ハウツーものがはやすようになって随分立っています。
 体験より知識優位の時代が続いています。
 パソコンのソフトの使い方でも、ハウツーものに頼ってしまいます。
 どうにかソフト開発者の思考スタイルになれれば、ほとんどハウツーものに頼ることなく、「このソフトを作った人はどう考えたのだろうか}と推測できれば、ハウツーものは必要がなくなります。
 やっかいですね!

尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。

 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。

 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

自分らしく生きていますか?

 自分がいい気持ちでいられ、そして、自分が行きたいところに行く、そんな人生が送れたら最高なのでしょうね。
 でもせめて、自分らしく生きていける、そう感じられたら、充実した人生になるのでしょう。
 がんばらなくても、そうなれたら良いですね!