尾道 国宝の寺、江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」

 聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。
 足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
 「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
 裏の竹林には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。
 ここの多宝塔(二重の塔)は日本の三大多宝塔の一つとされています。また、裏庭には茶室があり、わびさびの世界を漂わせています。
 爰にハトがいる理由は、江戸時代、幕府が禁止していた伝書鳩を使って、大阪の米相場の情報を撮っていたからです。お寺を維持していくビジネス(?)感覚は大事ですね!

相手の目を意識して、過剰に気を使ってしまいまう!

 以前から、上司という立場になったら、気を使う必要が出てきます。しかし、昨今は、この気づかいが拡大化し、管理職になることを嫌い、転職を考える人も出ているのでしょうね。
 子供に時代に「ガキ大将」のしくみがなくなり、縦社会の基本を学ぶことなく大人になっています。
 その大人が、上司という立場になると、部下も「ガキ大将」のしくみを学んでいないので、大変ですね!

厚木 天台宗の鎮守 山王権現を祀る「知恩寺」

 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
 智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。
 戦国時代から明治初期に至る間、下荻野は鋳物師集団の活動の地として知られていましたが、この懸仏は江戸時代初期の鋳物師である森氏の作例として貴重です。

友人が多い人というのは、愛情乞食タイプの人!

 友人が多いと、ひとりでいると辛い者になってしまいがち。
 愛情に飢えがちなタイプは、いじめに遭うと苦しいもの。
 一匹狼でいることができる人は、いじめには強いのでしょう。
 親が、子供を大事にしすぎ、甘やかしすぎると、子供にとってプラスになるとは言い切れないのでしょうね。
 「いいかげん(良い加減)」は難しいですね!

鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」

 1334年創建。開基は、足利尊氏の祖父、足利家時で、開山は天岸慧広(てんがんえこう)。
 1438年の永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃(10歳または14歳)している。
 この寺で自刃した足利義久は将軍職をうかがう姿勢をとったこともあって、討伐の軍をさし向けられ(永享の乱)永安寺で自害、長男義久も報国寺で自害したという。
 古くから境内の1,000本の孟宗竹林で知られています。
 ところで孟宗竹は、動物園ではジャイアントパンダのエサとして与えられているとのこと。

桃太郎は、イヌ(信頼)・サル(知恵)・キジ(情報)を連れて鬼退治に!

 桃太郎の伝説、吉備の国(第四十一代持統天皇の時、吉備の国は備前・微衷・備後・美作:主に現在の岡山県と広島県東部)の伝説です。
 意外と知られていないのが、「鬼を殺したりしません。悪いことは悪いときちんと教えるけれど、反省したら許しています」。
 日本の文化の基本に、このような考え方が根づいていたのですね!

尾道東高等学校(林芙美子の母校)

 NHKアーカイブに、戦後まだ6年の1951年に放送されたもので、作家の林芙美子さん47歳の肉声が残っていました。放送終了後、林さんは4日後に亡くなった。本当に最後の音声となったという貴重なものです。その中の一部をかきとめました。
 女学校時代に、その女学校もやっぱり私、自分で業実(実業をもじった語:学生のスラング)を働いておりましてね。今で言えばアルバイトの先駆者みたいなんですけれども。こうは言っても、私の育ったとこは尾道というところで、景色のいいとこなんですよね。「この女学校入っておりましてね。そして親が女学校には入れてくれないって言うんですけども、勝手に試験を受けに行ったら6番ぐらいで入っちゃったんです。得意になって入ってたんですけど、袴も買えないし、教科書も買えない。仕方がないから、これが工場に入ってあの太い針で本縫になって、そして日給をもらって、それでもって貯めたりして、日給といっても夜に行ってましたからね。だから、あるいは袴だとかそういうものを、自分のお金で稼いで、そして学校に入った。
 学校に入った時に私は地方での土着のものじゃないもんですから、非常に排斥されていた。自然に図書室に入ったりするようになって、その頃のものだとか、………。その頃たいへん詩が大変遊行していて、はやって若い人に読まれていたので、わたくしも詩を読んで、大変好きでした。先生が、また非常に好きで、読んでくださいました。自然に、自然発生的に、そういうものが好きになっていきました。…………

「きっかけ」という言葉、「切りかける」タイミングの意味だった!

 何かを成し遂げるには、何かしらの「きっかけ」があるようです。これは、後になって気がつくものです。
 “なにかしら”を続けているうちに、何時の間にか、何かを成し遂げている、しかし、それほど成し遂げたという実感はないかもしれません。
 なにかを「やってやろう」という意気込みで、成し遂げる人は僅かのようです(スポーツを除き)

尾道 技芸が上達する「お経の塚」がある「海龍寺」

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 その頃備後太田の荘官でこの寺の別当職であった和泉法眼渕信がこの寺を定証に寄進したという古記録がある。
 正中二年(1347年)には炎上したが、直ちに再建され、寺名を現在の海龍寺と改めたのは寛文二年(1662年)である。
 本尊は鎌倉末期のものといわれ千手観音菩薩である。山門の直ぐ右側に文化七年(1810年)の文楽之墓と文政三年(1820年)の竹本弥太夫の墓があるが、これは江戸の末期に尾道の浜問屋の檀那集が大阪から文楽師匠を招いて余暇を楽しんでいて師匠の死語追善供養の為建てたものである。
 庫裡の裏庭山麓に広がる大盤石は花崗岩の多い尾道地方でもめずらしい巨岩である。

老いるとは懐古的境地になることだ!

 「もったいない」という気持、自分の生きていることを大切と思いはじめることから生れると思うと、自分の時間や健康を大切にするようになるのでしょうね。
 そうすると、他人を大切にする気持ちが強くなっていくのでしょうか。
 自分の時間を大切にし、自分の経験や知識が、人のためになるようにしないと「もったいない」ですね!

厚木 古い石仏が数多く掘り出された「金剛寺」

 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。この忠州が、曹洞宗金剛寺の開祖となります。
 人々は忠州を慕い、三月二十一日のお祭りのときは、忠州作のご詠歌も行われ、賑わいました。
【出典】『厚木の伝承と地名』『厚木の社寺縁起・地蔵めぐり』

朝からくたびれているのは、それだけで罪!

 朝から元気でいたいですね。朝日を見ることができるうちに住んでいると、幸運に恵まれるような気がします。
 私が育った家では、朝日が見えず、夕日をよく見ていました。
 太陽が沈んでいくと、1日が終わり、その日の出来事も終わってしまうような気がしました。あまり悪い出来事がなかったためなのでしょうか?

鎌倉 円覚寺、石段を上がると国宝の梵鐘「鐘楼弁天堂」

 急な石段を上ると、正面に弁天堂(べんてんどう)があります。その左側には、「正安三年」(1301年)の年号が記された梵鐘(ぼんしょう)(国宝)があります。この梵鐘は、北条貞時が物部国光(もののべくにみつ)に造らせた鎌倉時代の代表的な名鐘の一つで、高さは2.59mもあり、関東地方最大の鐘です。また、鐘楼(しょうろう)の鰐口(わにぐち)には「天文九年」(1540年)の年号が記されています。弁天堂は、麓鐘が江の島弁財天の教えによって鋳造(ちゅうぞう)に成功したという伝説により建てられています。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

河童の原型は太古から、明確なイメージが誕生したのは近世!

 カッパは想像上の生き物ですが、太古の時代からいたようです。
 水は人間にとって(作物にとって)非常に大事なもの、しかし、災いも起こします。この災いがカッパを生んだのでしょうか?
 日本、とくに関西から西はそれほど大きな川が少なく、まだよかったのでしょうが、東日本は大きな川があり、大災害も多かったのでしょうね。
 でも、中国ほどの大河はなかったので、竜までは生まれませんでしたね!

福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」

 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。

 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。

お年寄りになっても心身ともに活動的!

 野菜を多く食べているのは日本人。果物を多く食べているのはヨーロッパ人だそうです。
 ヨーロッパでは果物はそのまま盛られた売っています。日本は丁寧に扱われ売られています。そのためかヨーロッパでは果物の価格が安い。
 気候風土もヨーロッパは果物作りに適しているようです。
 やはり気候風土が食生活に影響しているのですね。
 この食生活が、健康寿命にどのように影響しているのでしょうか?
 野菜の食べ過ぎは、健康寿命に影響するのでしょうか、少なくとも早死には防げるように思うのですが!

尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」

 834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
 室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました.
 江戸時代に檀家制度が出来る前は、お寺を維持するためには、今で言うビジネスの感覚が重要だったのでしょうね。そのためか、村上水軍と結びついたのでしょうか?

一日のメインの食事は夕食だ?

 測定できるデータが増え、食べ物と健康について情報が増えてきました。
 そのためか、日本では夕食がメインでしたが、少しずつ変わってきた傾向も見えます。
 これは働く女性が増えてきたことも関連しているのでしょうが、それ以上に、長寿化し老後も健康に過ごしたい、と考える人が増えてきたためなのでしょう。
 もう一度、食べることに重点を置いてきた「漢方」について、視線を向けることが大事になってきているのでしょう!

江の島 台湾近代化の尽力者を祀る「児玉神社」

 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 
 かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命(1980年5月)し、整備した。

騎馬遊牧民が最初にあらわれたのは、紀元前1000年頃!

 移動しながら食料を入手していく、という生活スタイルと、一定の場所に定着し生活するスタイルとでは、戦にどのような違いが生まれたのでしょうか?
 いわゆる遊牧民と農耕民の生活スタイルの違いなのですが。
 戦いの武器については遊牧民が圧倒的に有利ですが、戦いを続けるための補給体制では、農耕民続報が有利と思われます。
 人類の長い歴史を見ると、どちらも生き残っているので、同等なのでしょうね!