経営コンサルタントのように、「建て前」中心でやっていると、普及し始めた「生成AI」に仕事を奪われてしまいます。また、歳をとって仕事を辞めたとき、自分の考え方が狭くなっており、その後の人生も狭くなってしまいます。
これからは、いかに感性を磨き、それを生かしていくかが、問われてきます。自然に学び、歴史に(主流ではない歴史も)学び、ホンネで付き合える人を見つけ、多様な生き方を見つけることが重要になるのでしょうか!
2023年のアーカイブ
鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」
明月院のもともとは、北条時頼が建てた「最明寺」という自邸内の持仏堂がはじまりのようです。時頼の死後は荒廃し、子の時宗がそれを再興し、禅興寺としました。
この禅興寺の盛時に塔頭として明月院が建立されました。
本寺の禅興寺は江戸時代に衰退し、明治初年に廃寺とされ、明月院だけが残りました。
明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。
感じる人工知能のほうが!
生成AIが広まろうとしています。その原点は、情報をカード化するところから始まり、コンピュータで、SQLなどのデータベースソフトが定着し、大量のデータを蓄積できるようになり、それに、編集ソフトが開発され、それらをもとに、AIが作業を行うようになりました。
しかしまだ、人間の感性は、それぞれの人に合うようには、まだAI化はされていないようです。
ただ、人々の自然との接触が少なくなり、学校や社会が、文字や画像などの情報への接触が中心になった今、人々の感性も、AI化されないとは、言い切れないのでしょうね!
尾道 太宰府に左遷さる道真が寄った「御袖天満宮」
菅原道真公着衣の袖をご神体とする神社で、大林宣彦監督の映画「転校生」で主人公が石段を転げ落ちるシーンのロケ地としても有名。またテレビアニメ「かみちゅ!」で境内モデルとなった神社。
雷が鳴ったとき、「くわばら、くわばら」と唱えませんか?
死後に雷神となった菅原道真は、復習のために各地に雷を落としたという伝説があります。
しかし、自分の領地桑原には落雷がなかったところから、「私はあなたの故郷の桑原に住んでいる者ですよ。雷を落とさないでください。」という願いを込めて「くわばら、くわばら」と唱えるようになった、ということです。
生きることに心を注ぐ!
異常な高温が続いています。でも、異常とは言えないような、通常になってしまうのでしょうか。18世紀の半ばに始まった産業革命。250年もエネルギーを使っていると、もう元には戻れないのでしょうね。あとは、温暖化の進行を遅らせるだけですね。
その一端として、里山暮らしの促進も1つの方法。
都心と、そうでないところで、同じ品物でも、都心の方が高くなる商品が出てきました。そのような方法が常態化すると、田舎暮らしの人も増えるかもしれないですね!
厚木 カッパが雨乞いをした「白山神社」
白山神社は、飯山観音背後の白山(標高284m)の山頂付近の尾根道がある。むかしの道は、平野の道は雑草で視界がわるく、手入れも大変だったので、大きな街道を除き、尾根に道をつくることが多かったのでしょう。崩れても手入れが簡単で、視界が得られやすく、道に迷うことも少ないため、尾根を歩くようになったのでしょう。
社殿の前には、池(白山池)があって、古くから雨乞いの霊地とされてきた。
飯山観音(長谷寺)を開いたとされる行基は、この山を登り、霊水が湧き出している池を発見し、加賀国白山妙理大権現を勧請したと伝えられている。
そして、クスノキで彫られた十一面観音が祀られたという。この十一面観音が現在の飯山観音(長谷寺)の本尊といわれている。
育つ環境・教養の度合いによる差!
孤立した人が増えているのでしょうか?
多様性が受け入れられない社会になっています。
現在は、1つの正解を求める社会になっています。そのためか、生成AIというものも出来てきました。論理的な思考をする過程で、答えを一つにしようと、情報を整理していきます。その方向から外れた情報は、除外されていきます。
それは、人に対しても、同じように行われているようです。
しかし、答えはいくつもあって良いのです。特に日本では「好い加減」が通用していたのですから。
専門家は、生成AIに置き換わっていくのでしょう。いまから「好い加減」に多様な答えを許容していかないと、答えは1つ、としてきた専門家は、苦しい社会になっていくのかも知れませんね!
鎌倉 足利尊氏が蟄居していた「浄光明寺」
境内を奥に進むと、石段の上に頼朝の建てた永福寺(ようふくじ)から移されたと言い伝えられる本堂があります。中には、阿弥陀(あみだ)・釈迦(しゃか).弥勒(みろく)の過去・現在・未来を表す三世仏が安置されています。本堂の横にある収蔵庫には、本尊の阿弥陀三尊像(あみださんそんぞう)(国重文)と地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。阿弥陀如来像は、鎌倉時代末期の宋(現在の中国)の影響を受けた彫刻で、像の高さが141cmもあり大きく立派なことと、粘土を貼り付けた土絞(どもん)という模様(もよう)があることでで知られています。
熱中症には3通りがあります!
昨今は、秋に行われていた運動会が、春の終わり頃になりました。しかし、温暖化のため初夏、あるいは、夏といった状態で行うことになってしまいました。
そのため、熱中症の生徒さんが出るようになりました。
運動会が、秋から春になったのは、受験ということが関係していると思うのですが、命と受験とどちらが大切なのか? 生徒さんが選択できないのでかわいそうです。
温暖化とともに、エアコン利用環境のため、生物的に見ると、先進国の人は、環境の変化への対応能力が弱っていること、もっと考える必要があるのかも知れないですね!
尾道 2020年3月に閉館された「文学記念室 」
閉館されました。閉館前は、庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されていました。
1912年~1928年かけて増改築され現在の形となっていした。
福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。
しかし、2020年3月に閉館になりました。
なんでもほめる、なんでもほめる!
ネット社会になると、人に会っても「ほめる」ことが難しくなるのでしょうね。多くの人に合わないと、人それぞれの良いところを見つけにくくなります。
まして、子供時代から、近所の大人達と話しもしないで育ってくると、様々な人を見分けることも苦手になるのでしょうね!
福山 鞆 十六羅漢像が安置されている「正法寺」
創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。
釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢
1.賓度羅跋羅堕闇尊者(びんどらばらだじゃそんじゃ)
2.迦諾迦伐蹉尊者(かなかばっさそんじゃ)
3.迦諾迦跋産堕閣尊者(かなかばりだじゃそんじゃ)
4.蘇頻陀尊者(そひんだそんじゃ)
5.諾矩羅尊者(なくらそんじゃ)
6.跋陀羅尊者(ばだらそんじゃ)
7.迦哩迦尊者(かりかそんじゃ)
8.伐闍羅弗多羅尊者(ばしゃらほったらそんじゃ)
9.戎博迦尊者(じゅはくかそんじゃ)
10.半諾迦尊者(はんたかそんじゃ)
11.羅怡羅尊者(らごらそんじゃ)
12.那伽犀那尊者(なかさいなそんじゃ)
13.因掲陀尊者(いんかだそんじゃ)
14.伐那婆斯尊者(ばなばしそんじゃ)
15.阿氏多尊者(あしたそんじゃ)
16.注荼半託迦尊者(ちゅうだはんたかそんじゃ)
羅漢とは、悟りを開いた修行者という意味です。
最終的に生き残ったのは常に敗者!
「生き残るのは敗者」と、歴史学者や生物学者が言っておられます。確かに、第二次世界大戦で敗者の国が、経済的な発展を実現しています。
勝者であるソ連(現ロシア)は、終戦後にポツダム宣言に違反し「強制抑留」で、日本の軍人・軍属や一部の民間人も、ソ連兵からダモイ(帰国)と言われ、移動を命じられたのですが、着いた先は日本ではなく、シベリアを始めとするソ連領内やモンゴル地域などの酷寒の地でした。そこでは、わずかな食糧と不衛生な環境の中、過酷な労働を課せられる抑留生活を強いられました。抑留された約57万5千人のうち、約5万5千人が命を落としました。
その勝者の現ロシヤは、歴史に学ぶことがなく、また勝者を目指しながら、亡びかねない行為をしています。
ロシヤは文字の文化が千年程度、歴史に学ぶことがあまりないのでしょうか?
鎌倉 蛇形ノ井の「蛇苫止堂」
1422年(応永29年)のこと、佐竹(さたけ)氏と上杉(うえすぎ)氏の戦いがあり、負けた佐竹上総介入道常元(さたけかずさのすけにゅうどうつねもと)は山を登って、妙本寺祖師堂の中で自殺しました。あとを追ってきた上杉方は、祖師堂に火をつけました。そのときの住職日行(にちぎょう)は急いで堂の前の宝蔵から、これだけは焼かれないようにと、日蓮(にちれん)が書いた、本尊である仏の世界を表した曼荼羅(まんだら)を持ち出し、「蛇形ノ井」の中に隠しました。するとにわかに空に黒雲が起こり、その中に蛇の姿が見え、突然、すさまじい音とともに雨が降り注いで火を消してしまったということです。
隠された憎しみは仮面をかぶる!
核家族になり、都会では、自然の中での体験が減り、周りの人たちとの接触が減り、Netでのやりとりが増え、子ども時代から「加減」というものが身につかなくなくなっている子どもが多いようです。
この「加減」というものが身についていないと、「Yes」か「No」という選択が中心になり、その間の選択が出来なくなります。
それに、学校教育も「Yes」か「No」という評価になっているので、状況に応じた「加減」を、体験することが少なくなっているのでしょうね!
愛川 八菅山修験の第五番目の行所「塩川の滝」
塩川滝は滝幅4m、落差約15m。724年(聖武天皇即位…奈良時代に関東地方に悪い病気が流行してたくさんの死者が出ました。聖武天皇はこれを心配し、行基に「これから関東に下って悪い病気を除くように。」と命じた天皇。)~729年の神亀(じんき)年間、奈良東大寺の別当良弁(べっとうろうべん)僧正がここに清流権現を祭ったとの伝承があります。
滝つぼ近くは夏でもひんやりとした冷気が漂っています。雨乞いの霊験あらたかな滝であり、八菅修験の第五番の行所でもありました。
判断力は『あれか、これか』の中で!
「確固たる思想を持つ」という考え方が主流です。しかし、これは「自分だけが正しい」という結果を生み出します。そして、多様性が阻害されます。
日本のように、征夷大将軍(将軍)や天皇いて、神様も仏様もいて、クリスマスも祝います。「好(い)い加減」が広く許容される国は、日本ぐらいです。
1つの考え方でしか生きていかなければならない国は、日本から見ると「かわいそう」と思ってしまいます。しかし、その国では、正解とされています。
これは自然環境に多様性がないためなのでしょうか?
日本は、地震、台風、洪水、干ばつなとど、多様な自然環境の中で、生き延びていくための智慧の結果なのでしょうか!
尾道 瀬戸田 耕三寺「千仏洞地獄峡」
千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。
苦しみは真理が分からないから起きる!
子ども時代から、「どうしてだろう」とその都度考えていれば、苦しみは少なくなるのでしょうね。
昔話で、小さいときからお寺の小僧になった人が、大人になり智慧のある人になり、人々の暮らしを助けている、という話があります。
やはり、小さいときから、それぞれの真理を見つけながら、暮らしてきた結果なのでしょう。
情報・知識が容易に手に入る時代、それが真理だと勘違いしていると、苦しさからは、なかなか抜け出せないのでしょうね!
鎌倉 明治の神仏分離の際にこの地に「蛭子神社」
昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまっられていました。
本版は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。