毎日が日曜日になった時、それまで蓄積したものから、どれだけ離れることができるか、という視点も必要なのでしょう。専門的であればあるほど、蓄積したものからどれだけ離れることができるか、それが出来れば、違った視点から、今まで蓄積したものを見ることが出来、新たな発見があるかも知れません。
日本には「曖昧さ」が許容される風土があり、いままで築いてきた視点を変えても受け入れてもらえます。
毎日が日曜日なのですから、異なった視点を持つために、広く歴史(過去)を学び、いろいろな視点があることを学びたいものです!
2023年のアーカイブ
尾道 瀬戸内が楽しめる向島一周自転車旅!
フェリー乗り場が見えてきた。丁度フェリーが桟橋から離れていくところだった。自転車で近づいてゆくと、左沖合から、別の大きめのフェリーが近づいてきている。
熱中症対策のため自販機でスポーツ飲料を買い、フェリーの接岸を見ながら、一息休憩を取る。
フェリーが接岸すると、乗っていたクルマはすべて下船した。この桟橋は終点ではないのでどうしてなのかと思った。
軽自動車が多かった。尾道大橋の料金表示で軽自動車50円となっていたことを思い出す。フェリーで尾道まで行くより、ここから走って行ったほうがきっと安上がり(2013年4月から無料)なので、みんなここで下船したのだろう。
元気な高齢者が助ける社会を!
手持ち無沙汰のお年寄りもおられます。この人達の中には、社会の戦力になる方々も多くおられるように感じます。
現在、この戦力は十分には社会で使われていないように感じます。むかしの「村の知恵袋」のように、何かしらの貢献が出来ると思うのですが。
ただ、社会に貢献する仕事には、何かしらの資格が必要な場合が多く、今の記憶力中心の資格試験では、難しいことも多いのでしょうね!
厚木 1486年に起立、裏山は松が繁っていた「宝泉寺」
宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。
現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。
共産主義は原始社会から見いだされたもの!
マルクスは、原始時代の「みんなで分け合う社会」を夢見て、共産主義を考えたのでした。しかし、権力・名誉・財力が少数の者に集中する社会のしくみを作ってしまいました。
ノーベルも、「一瞬で人々を殺すことができれば、戦争をしなくなる」と考え、ダイナマイトを発明したのですが、ますます戦争が悲惨なものになりました。
人間というものは、権力を持つと、自分のことしか考えない、なかなかヤッカイなものですね!
鎌倉 前身は多福寺、その後、廃寺、そして再興「大宝寺」
室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛(よしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺(ほんかくじ)を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。
本堂には、本尊の三宝本尊(さんぽうほんぞん)と四菩薩像(しぼさつぞう)、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天(しゅっせだいこくてん)と鬼子母神像(きしぼじんぞう)などがまつられています。
他人と接する時のストレス!
人と接するストレスから逃れたいため、ゲームなどにはまってしまうのでしょうか?
ネットでの配信も、一方的に情報を流すこともでき、人と接するストレスは避けられます。子供のときから、多くの年代の人達と接していないと、接し方が身につかないようです。
歳をとってもそうです。若い人達との接触は、固定観念から抜け出すには必要ですね。年齢にかかわらず、いろいろな人達と接する技術は大事ですね!
尾道 日比崎中学校の裏山に「石仏群」
ここには多くの石仏があります。数十cmのものが多いのですが、さまざまな石仏があります。
この写真の上に石仏群の本命達が住んでいます。一番奥に蔵王権現の石仏があります。石碑に「南無上石鎚山大悲蔵王大権現」と刻まれています。
枯れ葉が多い時期は滑りやすいので注意が必要です。急な石段もありますので、気をつけてください。
歩くときは姿勢をちゃんと保つ!
「歩き方」については、多くの人はそれほど意識していません。しかし、目的に応じた正しい歩き方、というものは知られていません。
たとえば、卓球やテニス、野球やサッカーなど、右利きの人は、ボールを打ったり投げたりするとき、右足・右の腰・右手・右の肩が一緒に同じ方向に動いています。
しかし、歩くときは、右足が前、左手が前(右手が後ろ)というように、手と足が逆に動いています。おそらく、手でバランスを取るようになり、このような歩き方になっているのでしょう。
昔の歩き方は、手で荷物を持ち、足の指でバランスを取っていたので、「ナンバ歩き(同じ側の手と足を動かして歩く)」が出来ていたのでしょう。確かに足の裏からの情報で、その状況に応じて足の右側や左側の筋肉に力が入っているようです。
膝の関節が人工関節になった人が、「足の指に力を入れて歩くようになると、楽になりました」と話しておられました。足の筋肉の力が、状況に応じて働くようになったのでしょう。
やはり、「ナンバ歩き」のほうが、上半身(特に腰のあたり)も使っているためか、歩幅も広がり、長く歩くことが出来るようです。なれるまで大変ですが!
座間 悪疫流行を抑えたお礼に「座間神社」
「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。
一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
別の説(明治十二年編成皇国地誌)では、約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もあります。
見晴らしが良いと、脳へのよい刺激!
春は変化の季節。いろいろな変化に戸惑いも多いことでしょう。ときどき「気分転換」をしましょう。
気分転換には、遠くも見える高いところが良いです。高いところから遠くを眺めていると、悩んでいたこともどこかに行ってしまいます。
瀬戸内のような所では、誰もいない島の砂浜で、波の音を聞きながら、海や島、行き交う船などを見ていても、気分転換になります。
自然の風景は、心を穏やかにします。特に春先がいいですね!
鎌倉 一幡の母が井戸に身投げ「蛇苫止堂」
若狭局を祀る社
源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。
もっと早く言ってくれれば!
昨今は「我慢が出来ない人」が増えているのでしょうか?
また、「自己主張をする人」が増えているのでしょうか?
ネットでの情報発信が手軽に行えるため、自己主張をしたくなるのですが、自分を主張するために、他人を受け入れることが難しくなっているようです。しかも、そのことに自覚がないようです。その典型が参議院の議員の中にもいます(もうすぐ議員資格がなくなるようですが)。
いまは、他人を受け入れることが少ない人と、協力的な人と、二極化が目立つようになってきているようです!
鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」
もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。鎌倉幕府の第五代執権で名執権とうたわれた北条時頼の夫人により創建されたと伝えられている。北条時頼の夫人の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。
本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。
運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。
最近は、季節の移り変わりに鈍感!
野菜が温室で育てられるようになり、季節感が薄れてきました。地球の温暖化が叫ばれていますが、温室栽培はそのまま継続のようです。
物価が上昇している今、人間に寄り添うより、植物が本来持っている性質を生かしながら、人間が料理方法を工夫して、野菜を供給することは難しいのでしょうね!
尾道 江戸時代、伝書鳩と米相場 「浄土寺」
伝書鳩と米相場 広島県尾道市 浄土寺
江戸時代のことです。お米の商いをしている商人が浄土寺におまいりに行きました。
お和尚さんに奉納のお金を渡すとき「大阪の米相場が安いんで、これだけしか奉納ができないんです、申し訳ございません」と言って渡しました。
和尚さんは「どうもありがとう、でも大変ですね。ところで大阪の米相場って、そんなに上がり下がりするんですか?」と言いました。
すると「米相場はそうなんですよ、米の相場が分かれば、もっと安心して商いができるのですがね」と言いました。
すると、和尚さんは「このお寺の言い伝えに、源氏が伝書鳩を使って連絡をしていたっていう話が伝わっています。どうですか、伝書鳩を使ってみたらどうですか」といました。
すると、大阪の商人は「伝書鳩は江戸幕府が禁止してるんだよ、残念だなぁ」と言いました。
詳しく聞きますと、「大阪で伝書鳩を使った商人が捕らえられて、大きな処罰をされたそうです。そのため今は一切そんなことはしてない、無理だ!」と言いました。
すると、大阪の商人は「伝書鳩は江戸幕府が禁止してるんだよ、残念だなぁ」と言いました。………
わかっていないのに、わかったふりをする!
町歩きの時、通りがかりに合った人と、なねげない話しができると、その土地に関する思いがけない情報を手に入れることが出来ます。
このとき、聞くことに重きを置き、聞き出している雰囲気を感じさせず、なにげない話しをしているような雰囲気が作れるといいですね。
「わかったふり」これは最悪ですね。
話力は、話すことではなく、聞くことなのでしょうね!
尾道 村上水軍、その後の回漕問屋としても信仰「光明寺」
834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
室町時代には村上水軍の信仰を集、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
海上鎮圧令(海賊取締令・海賊停止令)とは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が倭寇に対し
①豊臣氏に従い、大名となる
②豊臣政権の大名の家臣となる
③武装を放棄し、百姓になる
この3つを迫った政策です。
その場対応のウソはつかない方が賢明!
なぜウソをつくのでしょうか?
最近の技術の進化で。だれもがスマホやドライブレコーダーで簡単に記録を残しています。
そのデータをネットに上げることも出来ます。また、報道機関に提供も出来ます。
むかしに比べ、ウソがばれる環境が整っています。それにもかかわらず、「自分のウソは、バレない」という感覚は、むかしのままのようです。
環境の変化にともなった感覚を、身につけるのは、なかなか難しいことのようですね!
相模原 西南 江戸時代には寺子屋が「常福寺」
1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。
その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。