みずからの高ぶりをコントロール!

 ネット社会になり、「ひと言多い」場面をよく目にするようになりました。その影響かテレビでもよく目にします。
 自分にブレーキをかけることができない人が増えているようです。
 これは核家族が増加した影響なのでしょうか。「気を使う」あるいは「我慢する」ということが、日常の生活で少なくなったためでしょうね。
 大家族ですと、いろいろと気遣いが必要なため、その環境で生活すると「自分をコントロール」する力がつくのでしょうね!

尾道 足利二代将軍義詮が寄進「天寧寺」

 開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
 仏教が成立した初期は、釈迦を像にすることが禁止されていました。しかし釈迦の死後、シンボルとして蓮華や法輪、仏塔が作られ、礼拝対象となります。さらに時が経ち、初めてできた仏像が釈迦如来です。

学問は大いにやりながら、それにとらわれない!

 学問にとらわれると、なぜか視野が狭くなりやすい。視野が狭いが、深くなっていく。狭く・深くなりがちなのは、社会のしくみとして、出世しやすいからなのでしょうか。
 学問はした上で、その学んだことをいかに捨てていくか。
 いまの社会は、記憶力がよい人が、学問をする傾向があるので、学んだことを捨てることができない。その結果、イライラ社会になっているのでしょう。SNSの情報には、考え方の狭さを感じさせるものが比較的多いようですね。
 イライラを減らすには、「いい加減」が良いのでしょうね!

厚木 天台宗の鎮守 山王権現を祀る「知恩寺」

【智恩寺山王大権現懸仏】
 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。
 智恩寺の懸仏は、中央の仏像を、左右に配された猿が拝む形式であり、刻まれている銘文から寛永13年(1636)に荻野の鋳物師である森久左衛門重久が鋳造したことが分かります。

好きなことを知ってはじめて仕事は回る!

 仕事の処理が得意な分野と、その人が好きな分野は必ずしも一致しません。好きなことは、時間がたつのを忘れて取り組んでしまうため、必ずしも効率的とは言い切れません。
 しかし、好きな分野は、どんなに困難があろうとも、なんとか乗り越えようと取り組んで行くことができます。
 時代が変化しているときは、好きなことに取り組むべきなのでしょう!

福山 鞆 オリジナルの観心行を行う「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた、と伝えられています。

集中しておしゃべりしたあとは気が緩むもの!

 SNSなどでの情報交換が増えています。しかし、そこでは文字情報だけです。しかし、文字情報だけでは限界があります。その限界を感じ、乗り越えるために、絵文字がつくられました。
 日本語は、英語と違って、文字情報だけでは不十分です。言葉では「イヤ」と言いながら、その表情は{イエス」の場合もよくあります。
 英語を日本語に訳すのは比較的楽ですが、日本語を英語に訳すには、場面によってはかなり難しいですね。
 幼い時から英語教育をすると、複雑な日本の風土の理解が、難しくなることはないのでしょうか?

鎌倉 法然上人が開祖か「鎌倉大仏高徳院」

 開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
 当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
 1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
 かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。

「ホンネ」か、「タテマエ」か、まず疑ってかかる!

 ホンネ=本音(本当の音色)は、三味線や琴、太鼓などの日本の楽器、あるいは、演歌は、西洋の楽器や音楽のように倍音だけで構成されてはいません。音のゆらせ方が特殊なようです。
 その影響かどうかはわかりませんが、世間では「ホンネ」と「タテマエ」の両方が通用しています。そのような社会では、「ホンネ」を知った上で、「タテマエ」で対応していくことが大事なようです!

尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」

 天寧寺は室町二代将軍足利義詮(よしあきら)が父の足利尊氏の菩提を弔うため、 夢窓疎石に命じて建立させた。
 天寧寺三重塔は、1388年に建立された五重塔(当時は高さが35m前後ではないかと考えられるとか)を、1692年に傷みの激しい上二重を取り払って三重に改造したものです。このため三重塔にしては、全体に上からかぶさっているような重苦しい感じがしています。
 この塔は、海雲塔とも呼ばれ、高さ25m、足利時代をしのぶ貴重な建築物として国の重要文化財に指定されています。

他人からバカにされたくない!

 誰でも、他人からバカにされることはつらいもの。それが、小学校から「いじめ」というかたちで起きているようです。
 その基本に、優劣をつけることがあるのですが、昨今の情報化社会では、その「劣」情報が拡散してしまいます。
 小学校から始まるテストや通知表により、優劣評価の中で育っています。しかも、ヒトの能力の内の一部だけ取り上げて、しかも、それが全てのような評価をしてきました。
 いつの間にか、人を含めたものごとを、優劣をつけないで、ありのまま観察する能力が、身につかなくなっているのでしょうね!

鎌倉 敵味方の区別なく慰める「円覚寺」

 鎌倉時代の1282年 鎌倉幕府執権北条時宗が元寇(文永の役)戦没者(両軍の兵士)追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
 文永の役(1274年)に続いて、弘安の役(1281年)も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。
 円覚寺の経営を主に支えた荘園は、尾張国富田庄(名古屋市)で、円覚寺の寺僧が派遣され海上交通を利用し結びついていた。
 この寺は度重なる兵火や失火等の災害によって多くのお堂を焼失した。現在ある建物は1703年(元禄)の大地震以降再建されたものです。

自説にこだわるあまり孤立!

 経験を積むほど、その分野の知識は増えてきます。しかし、その分野以外の情報は、意識はしていないのですが入ってこなくなります。特に男性は。
 その結果、自分の分野での優位性を武器にするようになります。それが進行したまま、歳を取っていくと、頑固で融通の利かない老後になってしまいます。
 人生の半ばを過ぎると、多彩な情報に触れるようにしないといけないですね!

相模原南 北条氏照の娘貞心尼が中興開基「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。
 虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。
 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。
 また、本堂、客殿、庫裡の新築が平成23年4月に終了し、落慶式を迎えました。

安全とはリスクのない状態ではない!

 「安全」というのは、危険に対して、その危険を回避する(または最小の被害で済ます)ことです。ということは、危険なとき、対応する能力(ときには反射的)を身につけておくことです。
 急に、命に関わる危険が発生したとき、時間がゆっくり流れ(例えば、1秒が10秒くらい)、周囲の状況をつかみ、冷静に対応の方法を決めます。この能力は、子供時代の暮らしの中で身につくのでしょうか? まるでスローモーションのように時間が流れます。
 昨今は、危険予報の情報が早めに発信され、防災用具や食料が整備されていますので、安全を手に入れやすい社会になっています。ただし、そのような環境にあっても、危険に関わる対応は、気を緩めてはいけませんね!

尾道 蓮花坂(れんが坂) から 大山寺へ

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。
 尾道には、確かに坂道がたくさんあります。しかし、ほとんどの坂道の途中に石段があります。
 「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか?

脚がつるのは!

 足がつるのは、やはりキツイですね。足がつったとき、足の親指を上にきつく上げたりしていますが、効果があるのかどうかわかりません。
 起きている間なら、なんとか予防の余地があるのですが、寝ている間は、なかなか難しいですね。やはり、頭寒足熱がよいのでしょうか?

鎌倉 松葉ケ谷法難の跡「安国論寺」

 寺地は松葉ケ谷法難の跡と伝える。本堂のほか、御小庵・庫裡・山門・熊王稲荷大明神尊殿などが伽藍を形造っている。日蓮が寵って『立正安国論』を執筆したという巌窟も残る。本堂の本尊木造日蓮上人坐像は昭和三十八年の造立。建物も新しい。御小庵の本尊は『立正安国論』を書いている姿を形どった木造日蓮上人坐像。これら以外、鬼子母神および十羅剃女立像・七面大明神立像・大黒天立像・日朗上人坐像などの木造像もまつられている。熊王稲荷大明神尊殿の本尊は木造稲荷明神騎狐像。他に古文書・絵画等も伝わる。

自分に固執しまったら!

 「自分」というものを持ちながら、「他人を誉める」ことは案外難しいものです。どうしても他人を誉めると、自分がその人より下になるのでは? と、思ってしまうのでしょうか。
 プライドというものは、人間以外の動物は持っているのでしょうか?
 我々は、人同士に限らず、食べ物でも、住んでいる場所でも、何にでも優劣をつけてしまいます。
 本来、生きていくために(生き延びるために)優劣をつけたのでしょうが、その感覚がどんどん広がって、何にでも優劣をつけるようになったのでしょうか? 

厚木 仏様が神社の中に「大釜大弁財天尊」

 鳥居や燈寵3基が入口に建てられ、れっきとした神様として祭られています。実は弁天様は仏教に属する仏様で、美しい仏様が神社に祭られ信仰されているのは奇妙なことです。一般の庶民は、ただひたすら身近な御利益だけを願い仏様を神様にして拝んだのでしょうか。
 大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。