一度悪い先入観をもつと!

 一度先入観を持つと、すべてその先入観を前提にものを考えてしまう。現代のように、色々な地域の人達や、多彩な情報が溢れる世の中、思い込みは弊害を生みやすい。
 やはり、現状を洩れなく把握し、事実だけに基づいて、考える方法を身につける必要がある時代になっているのでしょう。
 記憶に頼ることは、思い込みに頼ることにもなってしまいます。いつもピュアな心で、物事に接するように努力しないといけないのでしょう。難しいことですが!

厚木 長野高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」

 清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があった。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
 高遠は長野県伊那市の高遠町で、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
 高遠の地は田畑が少なかったので、農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかく、高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励した。その背景があり、また職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったようです。

地獄も極楽も、あの世にいって出会うもの!

 「不満」というものを持ち出すと、解決方法への思考が鈍くなってきます。一種の思考停止状態になるのでしょうか?
 「不安」もそうですが、それから脱出するには、「自分に希望を持つ」しかないのでしょう。ただし、それが行き過ぎると、また別の問題が出てくるのでしょうが。
 生活面では、むかし瀬戸内でよく言われていた「半農半漁」のように、複数の生活を支える仕事があると、不満や不安がすくなくなるのでしょうね。
 テレワークが定着する時代になれば、複数の生活を支える方法が見つけやすくなるのでしょうね!

鎌倉 鼻高く眼光の鋭い異人「建長寺半僧坊大権現」

 無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
 その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。

日本の大学進学率は43位!

 今までの入試問題の多くは、記憶能力の試験が中心でした。世の中の変化が少ないときは、それで良いのかも知らないのですが、変化が激しい時代は、過去の知識をベースにした考え方では、変化に対応しきれません。
 現状をしっかり把握した上で、いろいろな知識・情報を各種組み合わせ、その時代の社会に適したアイデアを見つけ出さなければなりません。
 単に教科書を記憶することだけでなく、多彩な知識・情報を組み合わせる思考方法を身につける必要があるのでしょう。それができる学生には、100点を満点にせず、103点・105点をつけても良いのでしょう。私の経験では、半世紀前には、一人だけですが、そんな先生もおられました!

尾道 干潮と満潮の差は3mを越える「昔の船着場」

 「昔の船着場」が再整備されています。
 瀬戸内海中央部の干潮と満潮の差は3mを越えます。そのため船着場は階段状に作られており、毎日2回づつ干潮と満潮があり、海面の高さの変化に応じて、船と船着場(岸)に板をかける段を変えて、人が荷の積み卸しをしていました。
 このあたりは瀬戸内海の中央部で、海水が激しく混ぜ返されます。このため、海の栄養分が行き渡り、しかも18kmにもなる潮流が味の良い海産物を生み出します。料理人の中には備後地方の海で採れた魚が一番おいしいと言われる方もおられます。しかし、下水処理が進みすぎ、海の栄養分が不足し、海産物に変化が起きています。

ロシアは軍事予算は毎年二倍増から三倍増にしてきた!

 軍事力というものについて、多くの日本人は考えてきませんでした。しかし、軍事力を強化しようとすると、国民の意識を、特定の方向に向ける必要があります。多様性を制限する必要があります。
 しかし日本の歴史は、仏教と神道を両立させ、また短歌、狂歌、俳句、川柳など、意志を伝えるには解釈の曖昧を許してきた文化の歴史があります。
 日本でも一時期は、無理やり意識を統一した時期もありましたが、その実態は、意志統一されたフリをしていた人達も多くいたのでしょう。
 世界中が「曖昧を許す」風土が定着すると、もう少し平和なときが来るのでしょうか!

鎌倉 地元では大塔宮ともいわれる「鎌倉宮」

 二階堂に鎮座。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮ともいわれている。祭神は護良親王。境内に摂社南方社(祭神南ノ方)村上社(祭神村上義光)がある。例祭八月二十日。もと官幣中社。明治二年七月勅令により創建。明治六年、明治天皇の行幸があり、その行在所は一部宝物の陳列所としている。境内は東光寺跡。本殿背後に土牢があり、祭神幽閉の処といラ。親王の墓は東北にあたる理智光寺趾の山頂にあって、宮内庁の所管である。九月二十二、三日の両夜、観光協会の主催で薪能が奉納される

リタイア後の田舎生活のメリット!

 物価が高騰してきています。食費も高騰してきています。生活維持の対策として、家庭菜園にも目を向けたいものです。でも、食費をある程度カバーしようとすると、未経験では大変です。しかし、新しいことにチャレンジすることは、たとえ失敗しても、その経験は役に立つものです。いや、役に立つものにしていきたいものです!

相模原 江戸時代 山伏の修験が行われた「八幡宮(磯部)」

 磯部八幡宮はもともと源氏の氏神であるとされ、境内には三社神、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神、稲荷社などが点在しているほか、御神像の仏弥陀が奉斉されています。
  神社の創建時期は明らかでないが、1358年以前にはすでに旧磯部村の鎮守としてこの地で民衆の信仰を集めていたと見られています。
 当社では山伏の修験が行われ江戸時代には沢山の家業繁昌厄除が焚から又この地域は大山詣りの宿場のため境内は非常に賑ったと伝へられます。
 当時は対岸の依知、山際等からも参拝があり特に火渡りの護摩が有名でありました。

欲に振り回されない!

 「欲に振り回されないこと」。密教ではその欲を「六大煩悩」として、定義しています。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)なのですが、自分の、この「六つの煩悩を受け入れた上で、どうするか」なのでしょう。
 そのためには「教養(広い文化的な知識をもとにして、自分で考えること)」が必要なのでしょう。
 専門知識や思い込みは、狭い知識になりやすく、また、その狭い範囲の知識が深くなると、その状態を満足し、教養なある考え方ができなくなってくるようです。
 ロシアのリーダーに関する報道を見ていると、この人も思い込みが激しいと思ってしまいます!

鎌倉 日蓮の弟子である六老僧が建てたとも「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵(そうあん)を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

スポーツビジョンという要素!

 年を重ねると、いろいろな目の力が落ちてきます。やはり筋肉と同じように鍛えることが必要なのでしょう。
 また、自分の思い込みの蓄積から、いつの間にか、見たいものしか見なくなっています、きっと脳は楽をしたがっているのでしょう。
 「視点を変える」といいますが、確かに違った見方ができれば、新しいものが見えてきます。その新しい刺激で、サボりたがりやの脳を働かせましょう。認知症予防のためにも!

尾道 海雲塔とも呼ばれた「天寧寺三重塔」

 当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
 なぜ、五重塔として修復せずに、三重塔に変えてしまったのか、その理由はよくわかりませんが、五重塔として再建して、再び四重、五重が傷んでしまったら困ると考えた人がいたのかもしれません。いずれにしても珍しい塔です。
 (「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)

「貧すれば鈍する」ということわざ!

 「貧すれば鈍する」、貧乏すると世俗的な苦労が多いので,才知がにぶったり,品性が下落したりする、という意味なのですが、その通りです。
 少しでも心に余力ができるとすれば、家庭菜園をすることです。戦後の食糧不足の時、それまでの庭が、畑に化けて、少しは心に余力ができていたのでしょう。
 田舎暮らしができる人は、野菜などを少しでも自作することで、心に余力も少しはできてきます。
 大災害や戦争など(そのような時代は来て欲しくはないのですが)の心構えは、必要な時代になりつつあるのでしょうか?

厚木 源頼朝の側室丹後の局を救った「妻田薬師院」

 妻田の薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良(ろう)弁(べん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
 境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
 また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。

仕事の受けとめ方は千差万別!

 楽観的に考えることができるか、悲観的に考えてしまうか、その考え方で、その時の人生を決めてしまうのでしょう。
 楽観的に考えることができれば、いろいろと前向きに考え、努力することができます。たとえ失敗しても、なにかしらの財産になります。
 悲観的に考えてしまうと、心の重荷が増えていき、なかなかその重荷を下ろすことができなくなり、ときにはカウンセラーの力を借りて、重荷を下ろすことになってしまいます。
 その時の状況を、冷静に・ありのままに、「そうなのか」と、状況把握をするところで済ませ、良否は判断しないこと。悲観的にならずに、何かしらの対策案を考えることにつながるのでしょう!

福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。
 仏教の世界では、東の方には薬師さんの仏国土があり、西の方には阿弥陀さんの仏国土があるといいます。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

その土地の風土を反映した食べ物!

 SDGsが叫ばれる時代、やはり、産業革命以降の時代は、人類にとって厄介なものだったという反省のようです。
 快適さを求め、便利さを求め、そして、うまいものを求め、ついには燃料を地下にまで求めるようになりました。そして、モノが地球上のあちこちに運ばれるようになりました。
 自然の神を大切にしてきた日本でも同様です。一度手に入れた快適さは、手放すことは難しいですね。せめて「地産地消」は心がけたいですね。健康にもいいようですから!

鎌倉 四条金吾の屋敷跡に「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。
 日蓮が開眼し改宗したのは慶長五年(1253)、日蓮32歳の時。比叡山延暦寺で天台宗を修めた日蓮はその後、奈良、京都のいろいろな宗派のお寺でも学び、法華経にたどりつく。そして、生まれ故郷の安房の国で開宗する。蓮長という名を改めに日蓮と名乗った。