「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われている。
一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
別の説(明治十二年編成皇国地誌)では、約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もある。
2020年のアーカイブ
旅行プランは全部全部立てる!
旅行、というより旅(たび)の計画を自分で立てたいものですね。街道が整備される前の昔の旅人は、情報がほとんどない状態で、旅の計画を立て、道を間違えないように尾根道を歩き、祠や岩陰に泊まり、「明日はどうしようか」など、自分がいる状況を観察し、計画を立てていたのでしょう。また、未整備の道を歩くため、危険もあり、足の裏からも多量の情報が、からだのあちこちに伝わり、「頭の中はいつもフル回転」だったのでしょう!
鎌倉 「北条義時法華堂跡、大江広元の墓」
大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
島津忠久の墓は1779年に修造、大江広元の墓は1823年に造られたもの。薩長同盟が1866年、もと鎌倉御家人で、三浦一族が亡んだとき、大きな打撃を受けた両家を先祖とする長州と薩摩が、江戸後期においても、なんとなく親近感が残っていたのでしょう。それが、明治維新に手を結んだ一因になったのでしょうか。なお、毛利秀光の墓は元々は鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、大正時代になってここに移されました。
リンパの働きをよくすると!
食文化の変化は、免疫力にどのような影響を与えているのでしょうか? 現在の医学は、各種の検査・測定の機器のデータに基づいています。ということは、データを得られないことについては、医者や食品研究者は「何も判断していない」ということです。そのような状態ですから、新規に何かデータが取れると、今までの医学・食品の効果がコロッと変わってしまいます。漢方は、征服した人達を実験台に、50年、100年とか人体実験をしていたそうです!
尾道 昔の船着場の雁木がある「海岸散歩」
むかしの船着場(改修されていますが)です。
干満の差が4mほどあるので、人手で荷下ろしするため、船との渡し板の角度がゆるやかになるよう階段状になっています。
災害時に電力やクレーンなどの燃料がなくなっても、人手でなんとか荷下ろしができますね。
干満の差は、日本海では20cm程度、太平洋側では1.5m程度。瀬戸内海の中央部では、荷物の積み卸しが人手の時代は大変だったのでしょう。
寒い季節の風呂は39度以下のぬるめの湯に!
日本人の風呂に入る習慣はどこからきたのでしょうか? 長野でサルも温泉に入っているので、同じような理由で始まったのでしょうか? 皮膚の衛生面が目的なら、水浴び(シャワー)で住みますから、病気や精神面にも効果があると昔から気がついていたのでしょう。日本で最も古いとされている温泉は道後温泉、大国主命が少彦名神を掌にのせて、温かい湯で入浴させてあげたとか!
鎌倉 瘡守稲荷と鬼子母神が祀られる「上行寺」
日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人が1313年に開山した寺院。すべての病(特に癌)ご利益があるとされる瘡守稲荷(かさもりいなり)と、身がわり鬼子母神が祀られている。
1860年 桜田門外で井伊直弼を襲った水戸浪士のひとり広木松之介が捕縛を逃れ、北陸、越後をへて上行寺にいたり、襲撃3年目に自刃したとか。
互いに生きていくために家族がある!
群で生きる動物は、集団内でのルールを持ち、協力することで生き残ってきた。人間も、本来は集団で生きる動物、それが、豊かさを手に入れたためか、核家族といわれる3~4人の集団で暮らすようになった。そして、社会においても、年功序列というしくみが消えて行き、組織への帰属という意識も薄くなった。その結果、集団としての生存能力弱くなっていっているのでしょうか? 大きな災害があったとき、集団の力が弱いと生き残れない、ということも起こるのでしょうか!
福山 万葉集の大友旅人の歌も詠まれた「鞆港」
鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。
靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。
豊かに考えられる子!
「考える」は、「過去」、「現在」、「未来」について、それぞれ考えることができます。その中で「過去」と「未来」は言葉で考えています。しかし「現在」は、言葉だけではなく、五感からの情報を組み合わせて考えることができます。この多彩な情報を組み合わせることで、感情というものの基礎ができるのでしょう。9才までは、やはり自然の中で五感を育てることが大事なのでしょう!
鎌倉 日親21歳、百日境内の池で修行「妙隆寺」
寺伝によると、1385年(至徳2年)、日英を迎えて寺か建立されたそうです。
山門を入ると、正面の本堂の右手には「血の池」と呼ばれる日上人修行の池があります。その奥には、日親石像を安置する日親堂があります。
日親が21歳のとき、「仏の教えを広めるためには、苦しみに負けないように修行しなければならない」と考え、百日間境内の池で水を浴びてお経を唱えました。それから、毎日自分の爪を1本ずっ抜き、出てきた血で墨をすり十界の曼荼羅(まんだら)をかいたそうです。そして、熱い湯の中に手を入れ、その湯がさめるまでお経を唱えたそうです。曼荼羅とは仏の世界や教えをわかりやすく図に示したものです。
とにかく登っていけば!
低山であっても、山登りは楽しいものです。ただ、そうなるためには、子ども時代から山に馴染んでいることが必要です。できれば、家々に囲まれた低山(安全のため)で、山道を外れて遊んでいると、いろいろと五感が鍛えられます。五感が敏感であればあるほど、山頂まで行かなくても、いろいろと山の姿を楽しむことが出来ます。自然の中では、過去や未来など、思い悩むことをしなくなりますから!
尾道 「文学の小路」千光寺山頂から千光寺へ
千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。
生身の自分をぶつけ相手のフトコロに!
「断り上手」、「断られ上手」になれると、人生を気楽に過ごすことが出来るのでしょう。そのためには、子ども時代に、出来るだけ多くの大人とつながりがあると良いですね。また、子ども同士でも、昔のようにガキ大将がいて、年齢の違う子ども同士で遊ぶ場があるといいですね。核家族になり、同学年で遊ぶようになり、いつの間にか、人類が集団の中で生き残る術を磨いてきたことを失いつつあるようです!
鎌倉 日本三虚空蔵ともいわれる「虚空蔵堂」
聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は、毎年1月13日に御開帳して拝める。
また、1月、5月、9月の13日には「護摩焚き供養」が行われている。
脳を活性化させるには!
「目」から情報を得ることと、「耳」から情報を得ることには、脳の働きに違いがあるようです。「今も狩猟と採集で暮らすタンザニアのハズダ族とその睡眠を、カナダ・トロント大学の人類学チームが調べたところ、20日間にわたり、誰かが常に起きていることが分かった。」という研究報告があるそうです。夜にも常に誰かが起きて、他の生物から襲われないように見張っていたのでしょう。夜は「音」しか聞こえません。その遺伝なのか、今でも危険を回避するときは、目の情報より、耳からの情報のほうが、素早くからだが反応するようです!
尾道 昨年新しくなった「尾道駅」
1891年(明治24年)11月3日 – 山陽鉄道が福山駅から延伸し、その暫定的な終着として開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1906年(明治39年)12月1日 – 山陽鉄道の国有化により国有鉄道の駅となる。
1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
2019年3月10日 新しく建てられ変えられ改行した。駅のデザインは1937年ころの駅舎に似たデザインとなった。
サービス過剰店も繁盛しない!
サービスのやり方は、地域風土で違っていました。しかし、チェーン店の普及で、各地域の特性は目立たなくなってきています。今後はAIを利用したやり方で、全国一律になるのでしょうか? それとも、AIが地域風土を織り込んでくれるのでしょか? 各地域の文化や風土は大切にして欲しいものです。多彩であるほど、これから起きる環境変化への対応力が高くなるのでしょうから!
厚木 今も興廃を繰り返えしているのか「松石寺」
弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。
「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)
この寺の現状は、少し荒れた状態になりつつあるのか?
笑顔ひとつつくれない人!
イヤなときでも、自分の笑い顔は、自分を元気にしてくれる効果があります。しかし、他人を元気にすることは、他人の笑顔だけでは難しいのでしょう。「親切」と「思いやり」を感じてもらうことでしょうか。他人に元気をふりまく人は、やはり貴重ですね!