「辨天」は「べんざいてん(弁才天)」の略。
弁才天は七福神のなかで唯一の女性、美と才能、財宝を生み出す女神、弁天(べんてん)(弁財天、弁才天)です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
「弁才天・辯才天」(「弁(辯)才」は 梵 Sarasvatī (サラスヴァティという女神の訳語) インドの神の名。聖河の化身という。
室町時代以降は、弁財天が七福神の一神に加えられて福徳財宝をつかさどる神様として崇められるようになり、とりわけ江戸時代になるとその人気が大いに盛り上がりました。
2020年のアーカイブ
退屈な時間の中で想像力を働かせよう!
小さいとき、自由にいろいろなことをやっていると、暇な時間が出来たときに、何かやることが見つかるものです。子どもの時、特定の習い事やクラブ活動などをやり、大人になると専門的な分野に取り組んでいると、暇になったとき、やることが見つからなくなります。今回の疫病対策としてテレワークが始まり、通勤時間の一部が暇な時間になっ人もいます。こんなとき、この時間を使って、何かやることを見つけ、定年後の将来に備えてみるのも、一つの方法ですかね!
鎌倉 北条一族の霊を弔う「宝戒寺」
このあたりは、鎌倉時代の執権であった、北条一族の中でも「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったところといわれくいます。
1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏は滅んでしまいました。その後、1335年(建武2年)に北条高時をはじめとする北条一門の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの地に寺を建て、宝戒寺名付けました。
神社に向かって手を合わし、心を整理!
現代は、情報があふれ、接する人もあふれ、モノもあふれ、社会にはいろいろな出来事があふれています。そのようなも雑多なものに合わせて行くと、どこかおかしくなってしまいます。そのこころの掃除のために神社にいってみてはどうですか。神社が立地している地形を観察すると、災害に合わないような場所にあることが多いようです。このような場所は、安全でパワーがある所なのでしょう!
尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」
寺の山門に怒った顔をして立っている仁王像は、ふつうペアをなしており、一方は口を大きく開き(それを「阿(あ)」形(ぎょう)といい)、もう一方は口をへの字に結んでいる(それを「吽(うん)」形(ぎょう)という)。
仁王は金剛力士とも呼ばれ、仏法を守護し邪悪をしりぞけるために寺の入口に立っています。一体の仁王像もありますが、ペアの仁王像では一方は「阿」形、もう一方は「吽」形の姿で表現されます。山門に安置される仁王像は、向かって右に「阿」形、左に「吽」形というのが一般的です。
才能をもっていない人は幸せ!
現在の社会は、どちらかというと専門家を目指す人が多いようです。しかし、世の中が変化するときは、専門分野も大きく変化します。専門的すぎると小回りがききません。変化について行けません。また、歳をとりリタイアすると、専門的な経験ばかりでは社会に溶け込むことができず、暇な老後になってしまいます。社会の変化は、戦争や大災害、そして、今回の疫病(悪性の伝染病)の蔓延でも起こってきます!
座間 山王大権現から改称した「日枝大神」
当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。
創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
商業施設内での店舗経営は甘くはない!
緊急事態宣言がされました。ショッピングモールや駅ビルなど、大幅な売り上げの減少が起きてしまいます。社会の変革が起きようとしているのでしょうか? 街中の商店街が衰え、大きなショッピングモールが栄えてきました。今度は、移動販売車の時代がやってくるのでしょうか? 法律などの規制を別にすれば、住宅街の昼間空いている駐車場をお借りして、そこで、1時間程度の移動販売を場所を変えながら行う。あるいは、毎月1~2回程度、同じとことに出張販売をする。あるいは、昔の紙芝居のように、お寺などの石段を利用し、漫才や落語などのをやるなど、昭和の戦後から昭和30年代の商売のやり方を参考に、商売のやり方が変わっていくのでしょうか!
鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」
昔は梅嶺山夜光寺とい真言宗の寺でしが、1293年(永仁元年)日朗の高弟だった日像が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺とか梅嶺寺とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長が1633年(寛永10年)高崎で自刃しましたので、妻の松孝院殿(織田信長の次男信雄の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。こうしたこともあって、一時は3,000坪ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。
一歩後退して二歩前進!
大災害や疫病の蔓延のとき、一歩後退する勇気が大事なようです。新コロナウイルスの拡大を防ぐには、一步も二歩も後退する覚悟も必要なようです。テレビの専門家といわれる人達の情報(二転三転するマスクの有効性など)だけでなく、自分の五感から得られる情報も大事にし、自分で「他人に迷惑をかけない」ことを優先し、判断したいものです!
尾道 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」
法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
現代医学で言う病因は「あってなきが如し」!
現代医学でも病気の原因は、「分かっているようでも、原因のある一面を捉えているだけ」なのでしょう。「漢方」といわれている治療法は、中国の漢の時代などに、征服した民族や反対勢力の人達に、いろいろな薬となりそうな物を与え、50年、100年に渡って人体実験を行い、薬としての効能を調べたようです。病気の原因は分からずとも、治療効果が有効であればよい、という考え方です!
鎌倉 北条時宗公産湯の井「甘縄神明宮」
「足達盛長邸址」の石碑のそばにある石の鳥居は特色ある神明鳥居です。石段の下に小さな井戸があり、「北条時宗公産湯(うぶゆ)の井」という札が立っています。時宗は松下禅尼の孫で、足達氏の邸で生まれています。
江戸時代には甘縄院というお寺がそばにありましたが、明治になるとなくなりました。9月14日は例祭で、神輿や山車が出てあたりは賑わいます。
急な石段を上ると甘縄神明神社の拝殿と、その奥に本殿があります。
意識もしょせんはニューロンの活動?
遺伝子が変化するには長い時間がかかります(何らかの要因で突然変異することはありますが)。しかし、DNAのスイッチのon・offは比較的簡単に起きます。このDNAスイッチのon・offの切換で、免疫力も変化するのでしょう。ちょっと気になるのは、免疫力を手に入れた遺伝子の有無が、生まれてくる子どもに引き継がれるかどうか。種の保存を考えると、引き継がれていくと考えた方が有利ですね。ここで問題、「免疫力を手にいてる前に生まれた子どもと、免疫力を手に入れたあとの子どもに違いがあるかどうか?」 そして、「最初に子どもが生まれたあと、ストレスや暴飲暴食が続き、その後に生まれた子どもに違いがあるかどうか?」 そのような研究はあるのでしょうか!
尾道 西国寺伽藍配置で最南端部に造営?「熊野神社」
西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。
古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。
ウイルスで遺伝子(DNA)に狂いが!
遺伝子(DNA)にはまるで「スイッチ」のような仕組みがあり、その切り替えによって遺伝子の働きががらりと変化。さまざまな体質や能力、病気のなりやすさなどが変わるようです。ウイルス感染にも、そのウイルスとDNAの防御力の相性で、症状にも違いがあるのでしょう。遺伝子スイッチの内、先祖から引き継がれているのが、どのくらいあるのか分かりませんが、日本人は、他の地域から「戦争」や「感染症」から逃げて日本に来たのでしょうから、今回の新コロナウイルスの影響も違いがあるのかも知れませんね!
鎌倉 空海が修行した霊跡「成就院」
平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。
本尊は縁結び不動明王として信仰されていますが、最近は恋愛成就の寺院として、また、学業成就、安産、身代わりのお守りが用意されている。
一回のセキで十万粒前後の微細な粒子!
インフルエンザのウイルスは、湿度や温度が高くなると生存率が低くなります。しかし、新コロナウイルスはまだよく分かっていません。ただ、温度と湿度に関係していると思われる現象はあるようです。マスクで呼気の湿度を高めることで効果があると良いのですが。天気が良いときに換気をすると、湿度が下がってしまうといいます。なかなか対応は難しいですね!
尾道 捨身往生の歴史がある「信行寺」
1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜( 阿彌陀如来が法蔵比丘と称した修行時代に、一切の衆生を救うために立てた四八の誓願。無量寿経に説く、四十八の大願)念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。
現代人が駆け回るから世界に広がる!
抗生物質は、細菌には効果がありますが、ウイルスには効果がない、とのこと。細菌に手こずった以上に、ウイルス対策はもっと大変だそうです。人類の歴史で、最悪のウイルスの一つが天然痘です。天然痘の記録は紀元前1350年頃とされている。西暦570年頃、鳥を使って石を落とし、その石に天然痘のウイルスがついており、その石に当たったエチオピア軍の兵士に疱瘡が出来、病気が蔓延したとか。また、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を征服、移住したとき、兵隊や移住者から現地人に感染し、所によっては現地人の9割が死亡したという。