イスラエルには、国を失う風土があるのでは?

 イスラエルという国は、よくわからない国という印象もあります。
 ユダヤ人は、経済で成功した人が多いようですが、国家を維持するという面ではよくわかりません。
 イスラエルが第二次世界大戦の約1年後に、国連で承認されできた国です。
 国家として(国として)維持する、という歴史はそれほどありません。そのためか、ビジネスの考え方で、国家を維持しようとしているのでしょうか?
 個にとして、存続するという発想はあるのでしょうか?

鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」

坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)

 祭神:津日女生命、奥津日子命、火産霊命

 平安時代の延暦20年(801年)に、日本で最初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。
 その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
 その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。

「こうでなければ駄目」という考え方ではなく!

 自己術現は、社会のルールの中で自己を満足させること。
 社会のルールを外れると、当然社会からの反撃に合い、自己実現どころではありません。
 社会のルールというものの中に、自分のルールをいかに組み込むか、これが自己実現をするための最低限のルールでしょう!

尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。

 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。

沿岸部の災害対策は大きな課題!

 温暖化は避けられないようです。温暖化の中で、どのように生きていくか、工夫せざるを得ないようです。
 当然農作物も温暖化に遭わせた品種に切り替えていかなければなりません。人間も同じなのでしょうか。
 おそらく国境が無ければ、もう少し寒い地域に移動し、エアコンなど使わない生活をするのでしょうか?

鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」

 瓶の井戸は明月院の奥にある。開山の密室守厳像を安置する宗猷堂の右側にある井戸がそれ、その井戸に相違ありませぬ。断じて地に埋もれたり、廃物となって醜を天下に晒したりはしていない。
 古い郷土史の文献には、この井戸の名前を釣瓶の井戸(つるべのいど)書き記してあったと記憶する。また甕の井というのも発見した。佐藤善治郎著『かまくら』では「その名の通り水がめのような小さな井戸」と形容されている。

二酸化炭素の濃度は、産業革命前に比べると40%以上に!

 二酸化炭素などによる温暖化が問題になっています。国によって取り組み方にはかなり差があるようです。
 温暖化は人に対する問題と同じように、他の動植物にも影響します。
 農作物も、青森などの品種が関東で植えることも出来ましたが、現在は四国などの品種を植えるようになっています。その内、九州や沖縄の品種を植えるようになるのでしょうね。
 ただ心配なのは、地産地消と言われていた時代は、それらの食品によって我々のからだが造られてきました。しかし、食べるものが変わると、農作物のように、住む地域を変えるわけにはいきません。どうしましょうか!

福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」

 安元元(1175)年、春小松内府平重盛卿は、父・清盛が守護神として祀った厳島神社参詣の途次、旅の安全を祈願するため船を渡守の地に立ち寄った。重盛は西方の正覚山静観寺の七堂伽藍、空高くそびえ立つ五重の塔の偉容に打たれ、この地に滞在。静観寺(当時で創建370年を超えていた)境内に自作護身阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し、その際記念に松の木を植えた。重盛は「もし、この松が天に伸びれば平家は栄え、地に這えば平家は衰退するだろう」と言い残す。(樹齢850年の偉容を誇っていたが、昭和二十九年の台風によって倒伏した。)

食欲がないときは、何かしら不調をきたしているとき!

 家庭菜園で、無農薬の野菜などを食べて育った人は、「やさしい味」がわかるようです。
 やはり五感が鍛えられているのでしょうか。
 無農薬肥料を使って、健康に配慮し、農業に取り組んでいる人もいます。
 しかし、値段が優先し、健康に配慮する人は、健康を害した人以外は多くはないようです。
 また、歩くと五感が鍛えられるようです。歩いている途中に、入ってくる音や、空気感、目に入ってくる情報など、多くの情報に接します(都会では難しいですが)。
 お寺や神社などに行った時も、まず感覚で情報を取り込みます。知識は、五感で情報を得た後で、取り込んだほうがいいのでしょう。見逃したときは、また訪れてみたいですね!

相模原南 鎌倉仏師作の地蔵菩薩立像が残る「常福寺」

 1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
 1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。
 その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。
 江戸時代には寺子屋も開かれ、後には「新戸学校」も開かれるなど、当地の学問の中核地であったようです。

自分に起こることはすべて「幸運の種」に変えてしまう!

 「思い通りにならないこと」これをどう捉えるか。
 「前向きにとらえるか」「後ろ向きにとらえるか」でまったく違ってきます。
 個人的な感覚では、子供時代に自然の中で育った人は、「前向きに捉える」ひとが多いように感じます。
 自然は。思い通りになりません。その中でどのように対応するか、考えて行動しなければなりません。その経験の蓄積が前向きに捉えることに役立っているのでしょうか!

鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」

 佐助稲荷神社の下社と社務所があります。
 さらに行くと、奉納された鳥居やのぼりが立ち並ぶ参道の両側にたくさんの狐の置物がありその突き当たりに急な石段があります。その石段を上ると杉木立の中に拝殿が建っています。その裏手の石段を上がると本殿があります。
 境内は巨木が空をおおい、昼なお暗く静まりかえり、人里離れたかくれ里のふんいきがただよっています。

「最後の大勝負」に期待してしまう!

 「最後の大勝負」、これは大抵負けてしまうようです。その結果、最後ではなくなってしまうようです。
 なかなかギャンブルは抜け出せないようなしくみがあるのでしょう。
 戦争も同じような傾向があるように感じますね!

尾道 本堂内に「泣き龍天井」がある「西郷寺」

 1353年の開基。本堂・山門ともに国重文で、時宗の本堂形式としては他に比類のない名建築です鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
 本堂は文和2年(1353年)に発願され、時宗最古式の本堂として貴重なものです。堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音が帰ってきます。

 尾道には時宗のお寺が六ケ寺あります。全国的に見て、一つの町にこれだけの時宗寺院が集まっているのは珍しいそうです。

フランス料理、ワインが健康を保っている!

 料理は、それぞれの国や地域で違いがあります。それぞれの自然風土に合っているのでしょう。
 気候変動が激しくなると、その地域での食料も変えていかなければなりません。反動が早く落ち着くとまだよいのですが、変動し続けると対応はやっかいです。
 江戸時代の富士山の噴火で、農作物を変更した地域がありますが、これは短期間の変動ですので、なんとか対応できたのでしょう。
 長期間変動が激しいと、その気候にあった農作物や料理方法の移行はやっかいになるのでしょうか?
 情報化時代、なんとか乗り切れるのでしょうか!

厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
 なお、成覚坊幸西は壱岐国(阿波で入滅)へ、空阿弥陀仏は薩摩国(出発前日入滅)へ流国となった。
 季光は、戦国時代に中国地方で勢力を誇った毛利氏の祖で、大江広元の四男。父大江広元も法然上人の教えに帰依し覚呵と号した。

“五感”を鍛え、新しい視点や発見に満ちた時間を楽しもう!

 人間の生きる力、それは何なのでしょうか?
 現在は、知識教育やNET情報などの言葉を中心とする情報が重視されています。
 しかし、人間には五感(視・聴・嗅・味・触)といわれるものがあります。
 五感を育てるのは自然です。自然のとの対応を確認するには、農業は結果がわかりやすいです。
 実った野菜や穀物の、量や味を評価すれば、自然との付き合い方の評価がしやすいですね。
 子供の時から、自然の中で、こうしたらこうなる、という体験は、五感が養われ、社会の中で、いろいろな情報を多面的に得ることが出来、ゆるやかな人生を送ることが出来るのでしょう!

福山 鞆 たくさんのお地蔵様が「正法寺」

 正法寺(しょうぼうじ)は広島県福山市鞆の浦にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。

成功者に共通する要素の一つ、「ストレスに強い」こと!

 同僚は、横並びでいるときは良いのですが、上下関係ができると関係が難しくなります。
 むかしは、子供時代から「ガキ大将」がいて、上下関係の中での対応方法を、上も下も学んでいました(男の子だけですが)。
 現在は、男性も女性も学ぶチャンスがないので、変なリーダーが増えてきたようです(会社だけでなく、市や県、官庁(警察や検察庁なども)もあるようです。ストレスに強い上司が増えてきたのでしょう。
 ガキ大将は、上は、下の安全を考え、守っていましたが!

鎌倉 頼朝の娘大姫の守本尊を安置する「岩舟地蔵」

 木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものでした。
 翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
 最愛の義高を失った大姫の嘆きは深く、こののち義高を偲びしばしば病床につくことが多く、二十歳ほどで亡くなりました。