福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。
 正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられています。

地蔵人気は、平安時代、地獄の恐怖心が強くなったことで!

 お寺の入口や道端で見掛ける地蔵菩薩。閻魔大王の裁きで地獄に落ちないように救ってくれる地蔵菩薩。
 平安時代に、富士山の延暦大噴火(800年頃~)と貞観大噴火(864年~)が代表的ですが、この恐怖に対し地蔵信仰が盛んになったとのこと。
 いま、富士山の噴火が起こるのではないか、すると、電子機器が障害を受け、交通機関だけでなく情報社会も壊滅的な障害を受けるのではないか? との恐怖心が起きても致し方ない時代になっています。
 なにか救いの菩薩が現れるのでしょうか?

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 開山は空海(くうかい)と伝えられ、中興(ちゅうこう)開山は、1558年(弘治4年)に没している元秀(げんしゅう)です。赤い山門を入ると、正面に本堂があります。本堂は公開されていませんが、本尊は左手に剣を持つ珍しい不動明王(ふどうみょうおう)で、腕を前で交差させています(非公開)。
 境内には、本堂左側に地蔵堂や関東大震災の供養塔(くようとう)などが立っています。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

現在の家庭は“ボス”不在の社会!

 自民党の総裁選挙がありましたが、昨今はボス教育を子供時代に受けて人がほとんどいないので、とんでもないことをするリーダー(大統領、首相など)が出てきます。
 これは民主主義の弱点のあるのでしょうが、社会そのものの問題なのかもしれませんね。
 ほとんどの人々を大事にしなくても成り立つ社会を造り上げてしまったのでしょうか?

二日酔いになるまで飲みすぎる!

 アルコールでストレス解消は、あくまで一時的なものだそうです。そのためか毎日お酒を飲むようになってしまうのでしょうか?
 アルコールに弱い人のストレス解消法を参考に出来ればよいのですが、よくわかりませんね。
 やはり、とことん悩み続けていると、ある日フゥット悩みが消えることもあります。そうするしかないのでしょうか?

厚木 白龍が池に棲むという「白山神社」

 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。  むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
 下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。

相手の顔をしっかり見て話すよう心がける!

 NETでの連絡が多くなると、向き合って話すことが少なくなります。これが続くと、向き合って話す方法が身につかなくなります。
 すると、向き合って話すときの表情などが乏しくなるのでしょうね。
 テレビを見る人も少なくなりつつあるので、いろいろな場面での向き合い方のノウハウが、わからなくなるのでしょうね。
 ユーチューバーの画面では、日常的な方法が少ないので、なかなかノウハウは身につかないのでしょうね!

座間 美濃齋藤氏の遺臣が開拓し祀る「日枝大神」

 当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。
 創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。
 明治二年(1869)、「山王大権現」から「日枝神社」に改称、祭神も「大山咋命」に変わり、同六年には村社に列され、同十八年八月に再遷宮の記録があります。
 昭和九年(1934)五月、社殿再建と共に神楽殿も完成し、外郭も整ったところで、当時の東京府麹町の日枝神社より新たに分霊し、社号も同年十月に「日枝大神」に改め現在にいたっています。

品格なき上司とは?

 「親の育て方」、「自然の中で五感を育てることが出来たか」で、大人になって“ウソ”をつく人間になるか、どうか、決まるのでしょうか。
 いい顔をしたいため、ウソをつくのが普通になってしまう人がいます。ある国の大統領を見ていると、ウソを、ウソだと感じていないようです。むしろ正しいと思っているようです。
 現在、戦争をしている国のトップの報道を見ていると、ウソなことを、本当のことと思っているのでは、感じます!

鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」

 東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院。1333年5月22日、新田義貞鎌倉攻めの時、新田軍が、若宮大路まで迫ってきた事を知った北条は一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げた。鎌倉幕府滅亡の地。
 寺はその後、直に再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代には廃絶しました。
 北条得宗家の氏寺跡、鎌倉幕府滅亡の地として政治史的に極めて重要な遺跡で、1976年、1996、7年に行った発掘調査により寺院跡の一部が確認されています。この裏山に自害した一族の墓「腹切りやぐら」があります。

不安に対し、迎合・攻撃・ひきこもりの三つの反応をする!

 情報過多の時代になり、いろいろな情報に対し対応できず「不安」が増しているのでしょうか?
 不安は、迎合、攻撃、ひきこもりが起きるという、確かにNETでは、攻撃する人が増えましたね。これも不安解消のためなのでしょうか?
 また「攻撃する」に至らない人は、迎合するか、ひきこもりすることになってしまうのでしょうか?
 情報過多の時代、その時代についていくだけの態勢が、まだ我々には充分備わっていないようですね!

尾道 善勝寺 → 御袖天満宮へ

【天神さまの霊験碑】

 明治の初めころ、長江に生玉茂七さんという人がいました。
 一日の仕事をすませ、ゆっくりとくつろいでいたときです。茂七さんが日ごろお世話になっている畳問屋からお使いの人が来ました。ちょっと店まで来てほしいということです。茂七さんは、さっそく出かけて行きました。
「何かご用でも」
いぶかしげに尋ねる茂七さんに、
「いやいや、親類から珍しいものを送ってきましてね。いっしょに一杯やろうと思って」
と、問屋の主人の言葉が返ってきました。
 茂七さんが、ごちそうになって家に帰り着くと間もなく、畳問屋の番頭さんがやってきました。
「たいへんなことが起こりました。お店の手提げ金庫がなくなっているのです。家中調べたのですが、見当たらないのですよ。あなたに心当たりはないものかとお尋ねに上がったのです」

“五感”に触れているものを話題にするといい!

 最近は、小学生達の体験教室が少し増えてきたようですが、やはり社会は、知識優先ですね。生成AIの時代になると、変わっていくのでしょうか。
 小さな頃から、五感を育てていくこと、これは変化の時代だからこそ、重要だと思います。
 温暖化や情報社会の変化に対応するには、人類が数十万年生き延びてきた感覚を、磨いておく必要があると思います!

座間 不動池には豊富な湧水が「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

 本尊は「积迦如来立像」(運慶作、長5寸5分:室町時代の作。座間市重要文化財)で、造像当時は金箔神であったが、永い年月に剥落して現在ではわずかに衣丈のひだに残っているだけである。台座は後に補ったもの、光背は欠失している。
 温和な顔立の内に高雅な気品が溢れている。この釈迦如来は当山の本尊である。

人生後半戦を楽しく充実したものにしたい!

 人生100年時代、40代から老後の生活を考え、準備をする必要があります。
 特に、老後生活の必要な技術の習得は、早めに始めた方が良いですね。
 歳を取ってから新しいことを始めるのは、やはりハードルが高いですね。
 40代で技術を覚え、50代で情報を蓄積し、60代で仲間を広げていくぐらいが、遅さの限界でしょうか?

鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」

 山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれていますが、もとは新井(あらい)(荒井)の闇魔堂(えんまどう)というお堂だったといわれています。新居の閣魔堂は、知覚禅師(ちかくぜんじ)が1250(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明(あまなわしんめい)神社の近くの「由井郷見越岩(ゆいごうみこしいわ)」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。材木座の九品寺の近くに「新井閻魔堂祉(あらいえんまどうあと)」の史跡案内の石碑があります。新居の閣魔堂はその後、1703年(元禄16年)に地震や津波でお堂が壊れたので、まもなく現在の場所に移されました。

ツキを呼ぶ、言葉遣い、ビューティーアクション!

 「縁起をかつぐ」「神社にお参りする」などは、自分の希望を、自分に意識づけする方法の一つでしょうね。
 夢をハッキリと意識するということは、夢の実現の第一歩、そうすると、自分の夢の実現への努力が続きます。まわりの人たちにも伝わり、協力を得ることにもなります。
 これが夢の実現に大きく貢献しますね!

尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。
 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」 「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。
 小津安二郎監督の代表作「東京物語」のロケ地、港の守護神とされる神社。
 むかしは、海からお詣りしていたようです。

人間関係で大切なのはたった一つ、それは「礼節」!

 都市化が進むと、人のつながりが弱くなっています。都市では、助け合わなくても“なんとかなる”ようです。
 お金を出せば、サービス業が発達しているので、なんとかなるのでしょうか。
 ただ、お金がない人達、お金をあまり使えない学生達は、人々のつながりで、元気になってほしいですね。
 そのための対策の一つとして、礼儀作法は、まわりの人たちに、援助をしてもらえるキッカケにはなりますね!