河童の原型は太古から、明確なイメージが誕生したのは近世!

 カッパは想像上の生き物ですが、太古の時代からいたようです。
 水は人間にとって(作物にとって)非常に大事なもの、しかし、災いも起こします。この災いがカッパを生んだのでしょうか?
 日本、とくに関西から西はそれほど大きな川が少なく、まだよかったのでしょうが、東日本は大きな川があり、大災害も多かったのでしょうね。
 でも、中国ほどの大河はなかったので、竜までは生まれませんでしたね!

福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」

 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。

 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。

お年寄りになっても心身ともに活動的!

 野菜を多く食べているのは日本人。果物を多く食べているのはヨーロッパ人だそうです。
 ヨーロッパでは果物はそのまま盛られた売っています。日本は丁寧に扱われ売られています。そのためかヨーロッパでは果物の価格が安い。
 気候風土もヨーロッパは果物作りに適しているようです。
 やはり気候風土が食生活に影響しているのですね。
 この食生活が、健康寿命にどのように影響しているのでしょうか?
 野菜の食べ過ぎは、健康寿命に影響するのでしょうか、少なくとも早死には防げるように思うのですが!

尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」

 834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
 室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました.
 江戸時代に檀家制度が出来る前は、お寺を維持するためには、今で言うビジネスの感覚が重要だったのでしょうね。そのためか、村上水軍と結びついたのでしょうか?

一日のメインの食事は夕食だ?

 測定できるデータが増え、食べ物と健康について情報が増えてきました。
 そのためか、日本では夕食がメインでしたが、少しずつ変わってきた傾向も見えます。
 これは働く女性が増えてきたことも関連しているのでしょうが、それ以上に、長寿化し老後も健康に過ごしたい、と考える人が増えてきたためなのでしょう。
 もう一度、食べることに重点を置いてきた「漢方」について、視線を向けることが大事になってきているのでしょう!

江の島 台湾近代化の尽力者を祀る「児玉神社」

 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。
 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 
 かつて児玉神社は荒れ果てていた。境内を浮浪者が徘徊したり、参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だった。こうした惨状を見かねて、山本宮司が現職を拝命(1980年5月)し、整備した。

騎馬遊牧民が最初にあらわれたのは、紀元前1000年頃!

 移動しながら食料を入手していく、という生活スタイルと、一定の場所に定着し生活するスタイルとでは、戦にどのような違いが生まれたのでしょうか?
 いわゆる遊牧民と農耕民の生活スタイルの違いなのですが。
 戦いの武器については遊牧民が圧倒的に有利ですが、戦いを続けるための補給体制では、農耕民続報が有利と思われます。
 人類の長い歴史を見ると、どちらも生き残っているので、同等なのでしょうね!

鎌倉 夢窓国師が瑞泉院を建立、その後「瑞泉寺」

 北条高時らの帰依を受けた夢窓疎石(むそうそせき)によって開かれ、鎌倉公方の菩提寺ともなりました。発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。
 開山は夢窓国師(むそうこくし)(疎石(そせき))で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊(どううん)がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏(あしかがもとうじ)は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬(ほうむ)られました。
 以後鎌倉公方代々の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、関東十刹(じゅっさつ)に名をつらねました。
 関東十刹とは、室町時代に定められた、幕府が関東地方で保護する臨済宗のお寺の格のことで、五山の次に位置づけられたものです。塔頭(たっちゅう)も十余を数え、義堂周信(ぎどうしゅうしん)のような高僧も住職となり、また訪れる高僧も多く、五山文学の中心の一つともなりました。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

「やり方が悪いのかもしれないから工夫してみよう」と!

 「工夫できる」性格は、どのようにして身につくのでしょうか?
 知識教育では、既存の情報をもとに工夫するということになります。AIはこれをサポートすることになるのでしょう。
 しかし、工夫には既存の情報に基づかないものもあります。
 これは「感覚」から見つかるものなのでしょうか?
 職人達の仕事は、やはり感覚を重視しなければ成り立ちません。
 AIは、この感覚(測定器がなく、測定情報がないもの)は、反映できそうにないですね!

近代国家がかくも悪くなったのは、集団と競争のせい?

 生命体としての人間は、「みんな対等」となぜ思えないのでしょうか?
 最近「差別」という言葉をよく耳にします。なぜ「違い」という言葉が使えないのでしょうか?
 「差別」という言葉には、上下関係を感じます。「違い」という言葉では上下関係をあまり感じません。
 ただ、言葉で受ける印象は地域によって異なることもあるので、一概には言えませんが。
 自然の中で生活していると、「違い」には気がつくのですが、「差別」は感じません。しかし、野菜や果物を商品として出荷できるかどうかは、「差別」があるようですね!

厚木 奈良時代後期のころ創建「七沢観音寺」

 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
 本尊に動物霊から守ってくれる馬頭観音菩薩を安置したのは、上杉定正の愛馬日影を祭ったことによると伝えられています。いずれにしても山村ゆえ諸運搬のため多くの馬を飼っていた先人達が、馬の安全とその供養を兼ねたものであり、像は頭上に馬頭を載くところから畜生道の尊と云い、3月18日には盛んな仏事を挙行しました。古くは境内で草競馬が開催されたこともあるほか、堂内に絵馬数点が奉納され、馬頭観音碑も建立されています。また堂内には数少ない宇賀神の石像(蛇形)も祭ってあります。
 「厚木の観光ボケットブック」(厚木市観光政策課発行)より

日常的に心がけることとしては、食事が大切!

 漢方では、食べ物と健康との関係を長年調べ、場合によっては、占領した地域の住人を人体実験に使い、開発してきたようです。
 いろいろな測定器などがなかった時代、健康に暮らすにはそうするしか無かったのでしょう。
 その結果、食べ物について蓄積された情報は、厖大な情報があるのでしょうが、学ぶチャンスはコマーシャル中心で、漢方に興味のある人達以外は、食べ物の人体に対する影響を、あまり知らないですね!

福山 鞆 法華経こそ仏の真の教えと日蓮宗「妙蓮寺」

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
 福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
 本堂は、主として浄財を募り建立。上京し、本山から山号・寺号を請受した。
 福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。
 承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て、境内門前を広げ、四代・日義、元文四(1739)年に鐘を鋳造した。
 妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建された。

関税は、国の経済を発展させるが戦争も起こす!

 アメリカの南北戦争の原因は、関税政策に対する南北の意見の違いにあった。
 現在の大統領のトランプ氏は、国内の関税に対する意見の違いを、どの程度把握しているのでしょうか?
 関税についての、アメリカ国内の情報はあまり報道されないので分かりません。
 国内の意見の違いよりは、関税からの収入を期待しているのでしょうね。 これは、アメリアか国民が負担することになるのですが!

鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」

 八雲神社の境内には、「晴明石」という石がまつられています。「晴明石」は、もとは十王堂橋(じゅうおうどうばし)の近くの道路の真ん中に埋まっていました。この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めば足が悪くなったり病気になったりするといわれていました。また足が悪くなった人は、石を清水で洗い塩やお線香をあげて拝むと、治るとももいわれていました。この石を村の人達が大事にしているので山ノ内には、大火事がないのだと、人々は信じていました。

チャレンジと失敗を繰り返すことで、うまくいくようになる!

 トヨタの改善手法に「小集団活動」というのがあり、地位に関係なく、思いついた改善方法を出し合い、それらの案をみんな優劣を評価し、試してみる、というのがありました。
 その時、評価するに当たっても、上下関係は無く、みんな平等に評価することで、よりふさわしい改善案を見つけていました。
 今の米国の大統領トランプ氏のような、気に入った意見のみ採用するやり方で、米国は成長できるのでしょうか?

尾道最大の磨崖仏、浄土寺山「不動岩」

 江戸末期の木版画にはすでに描かれており、年号作者らと岩のまわりをみまわしたものの発見できず。
(岩の向きと背景は、現実には一致しません)
 浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。浄土寺山8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。
 この巨石の上部が展望台になっています。上から岩を見ると、大阪城築城のため岩を割ろうとしたのか、彫ったくぼみがいくつかあります。

お金に重きを置くと、お金はあっても人々が飢えてしまう!

 物価の上昇が続いています。都会暮らしでは、お金に頼っているので、安売りをしている店を探し歩くしか方法はありません。
 田舎暮らしだと、家庭菜園ができるところが多くあります。
 太平洋戦争後では、危機的な食糧不足が起きました。その対策として、庭であったところを畑に切換、食糧をなんとか確保していました。
 現在はそこまで困ってはいないようですが、オンラインで仕事ができれば、物価上昇対策として、田舎で家庭菜園をやることも一案ですね!

厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」

 この小町神社は、その昔鎌倉時代「丹後の局」という世にもまれな美人がおり、ひそかに源頼朝のご寵愛を受け終に局は身ごもりました。これを知った婦人政子は大変ねたみ、畠山重忠に局を由比ヶ浜で首をはねよと命じました。重忠は家臣の本多次郎に命じ局を浜へ伴い殺そうとしましたが、局の身を哀れみ身代わりを立てその場をつくろい、乳兄弟で小野の住人川上酒匂の屋敷にかくまい局を助けました。然しいつとはなくその事が政子の耳に入りその怒りは骨髄に徹する程厳しく、局は俄かに白髪の姿になってしまいました。局は心を静め考えた末、俤(おもかげ)のかわらで年の積れかし、たとえ命に限りあるとも」という古歌を短冊に書き心身を清め十七日間一心に小町姫を祈った処、満願の日に元の黒髪に戻りました。局は霊験の尊さを感じ小野の林中に小町神社を建てました。それ以後三十歳以下の男女で白髪の人が心厚く小町神社へ祈ると黒髪に変わり、遠方の人々も参詣に来る様になりました。その後局は泉州住吉で玉の様な男子を生みました。その子が後の薩摩の島津家の祖先だと人々は伝えています。
   伝者 別当 小野山宮野院  (表示板より)