この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。
竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。
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座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中のことと思われます。
この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
戦国時代には北條氏の保護を受け、小田原から府中へ人至る街道上の宿泊所としても利用されましたが、徳川氏はあまり重要視せず、朱印地(非課税の領地)も三石しか与えませんでしたが、正保国図(元年・1644年)などには北相模で唯一(随一)の社寺として観音堂が書かれており、民衆の間には相当重視されていたものと思われます。
江戸時代に入り、天下が太平になると、民衆の間にも百ヵ所観音、あるいは、坂東三十三ヶ所参りが流行しました。市内で最古の百ヵ所参りの記念物は、星の谷観音堂にある貞四年(1687年)の額です。
(「座間むかしむかし 第二十六集」 座間市教育委員会 2004/3/30 発行 より)
尾道を代表する景勝の地「千光寺山頂」
厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」
鎌倉 かつては七堂伽藍を有した「浄妙寺」
臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。
文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。全域史跡指定。
東京堂出版発行「鎌倉事典」 白井永二編 より
尾道 天保大飢聾に本堂建替で人を救った「慈観寺」
本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。
入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。
竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
(参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)
座間 崖下に湧く清水、悪疫を止めた「座間神社」
鎌倉 汚れを洗い落とし、銭を清める「銭洗弁天」
泉の水で銭を洗うということは、いつごろから始まったのか。伝説によれば、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼がそこに参詣して、湧水で銭を洗って福銭にしたのがその起こりだという。
だが幕府の執権たる者が、銭を洗って福銭にするなどといったことを行なうであろうか。そんなことをするとはとても思えないので、伝えられている話は作り話に違いないと見る人もいる。近所の誰かが銭を洗ってみた。案外それが銭洗いの始まりであるのかもしれない。
由来はともかく、銭を洗うと銭が増えるという。洗えばなぜ増えるのか。人から人へと渡るうちに、銭には汚れがついてしまう。その汚れを水で洗い落とし、銭を清める。そして銭の力を再生させれば、増えていくということなのだろう。
尾道には時宗寺院が六ヶ寺、その一つ「海福寺」
厚木 馬頭観音菩薩を安置した「七沢観音寺」

七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
元正天皇(独身を通した女帝)の時代、着物の着方を右前に統一する衣服令が出されています。衣服令は、遣唐使が唐から授けられた朝服を持ち帰り、717年正月10日に、その朝服を着て参内したのですが、それが右前でした。その直後、百姓の衣服は右前にするようにとの衣服令が出されたのです。
鎌倉 熊のような猫が住みついたという「報国寺」
尾道 生口島 1936年から建立が始まった「耕三寺」
座間 崖下に湧く清水悪疫を止めた「座間神社」
「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。<
一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
飯綱権現は、江戸時代には防火の神として信仰されていて(本来は伊勢の豊受大神と同じ食物の神様)、長野県の飯綱権現社が本社でした。座間神社と改めたのは、明治九年で日本武尊が野火で攻撃された時、剱で草を刈って防いで勝ったという神話にもとづき、後世防火の神様ともされていたので、明治時代になって村社とされるとき、同じくご利益のある日本武尊に祭神が改められました。
福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」
座間 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀「鈴鹿明神社」
鎌倉 由比ヶ浜辺の八幡宮をここに遷した「鶴岡八幡宮」
源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。
鶴岡八幡宮は参道の若宮大路(国史跡)と共に、政権都市・鎌倉の中心となりました。若宮大路にある大鳥居(ーの鳥居)も国重文です。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
本宮(上宮)の楼門の額の「八」の字は、「ハト」が向かい合って書かれています。尾道の古寺浄土寺で聞いた話しですが「平家は伝書鳩が使えなかった。源氏は伝書鳩を使うことができた……」とお聞きしました。伝書鳩は時速60~100kmで飛ぶことができるそうです。伝書鳩は通信手段として、古代エジプト時代から使われていたとのことです!
尾道 応神天皇休息の地「亀山(久保)八幡神社」
鎌倉 鎌倉幕府ができる前からあった「御霊神社」
厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」

最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。
が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
なお、成覚坊幸西は壱岐国(阿波で入滅)へ、空阿弥陀仏は薩摩国(出発前日入滅)へ流国となった。
















