塩竈の滝は、八菅山修験の第五番目の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属したことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性をみとめ、滝が御神体であり、本尊であり本地仏であった。この社は、大日孁尊(おおひるめのみこと)となっているが、系列を同じうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(おおなむじのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))とし、本地仏に千手観音を祀っており、神仏習合のすがたを整えていた。そして「滝篭り」による厳重な修行が行われていた。(案内板より:愛川町商工観光課)
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鎌倉 吾妻鏡にも載っている「岩窟不動尊(窟不動)」
尾道 天保の大飢饉の慈善事業で本堂を建築「慈観寺」
本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた:柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
(参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)
厚木 水の神と農耕の神「大釜大弁財天尊」
広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。
大釜弁財天では、かつて日照りが続いた時、村中はもとより近郷近在の農家の人々が相寄り、お坊さんを頼み、大釜の内部に入ってお経をあげてもらった後、お坊さんが出てくるところを人々がバケツや手桶で水を掛けたり、滝壷の水をかい出したりするとともに、雨を降らせる一心から宇賀神を怒らせる素朴な願いで身に付けている六尺揮(ふんどし)をはずし、その褌で蛇を洗って雨乞いが行われていました。
鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」
勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
1303年(嘉元元年)、但馬阿闍梨日実が創建。
1683年(天和3年)、火災で伽藍を焼失する。その後復興する。
1791年(寛政3年)、暴風雨で被害を受ける。その後復興する。
1923年(大正12年)、関東大震災で被害を受ける。その後復興する。
境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまっられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」
今から三百年以上も前のこと、西国寺ではこの近辺の寺にはないような大きな仁王門を建てました。院家さんや檀家の人たちは、由緒ある西国寺にふさわしい立派な仁王さんをお迎えしようと、四方八方手を尽くして探しておりました。
そんなところへ、京都に有名な仏師が彫った素晴らしい仁王さんがあるという話が伝えられ、院家さんはさっそく京へ上りました。
道を訪ねながら探し当てた店の前にデンと構えた仁王さんの出来栄えの見事なこと。院家さんは大そうのお気に入りで、たくさんの大判、小判を出してそれを譲ってもらいました。
仁王さんがあまり大きいので、陸路尾道へお連れすることはできそうもありません。船で淀川を下り、京から大阪へ、そして海路尾道まで運ぶことにしました。院家さんが船で待っていると、店の主人が仁王さんをお連れしてきました。見ると、さっき店で買った仁王さんと違って、ひどく出来の悪いものでした。(続く)
福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」
鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」
厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」
尾道瀬戸田 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」
元祖大師法然上人 御遺跡
安芸国 瀬戸田 浄土宗 法然寺
法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に法然上人の御遺跡が荒廃していることを惜しんだ美作涅槃寺(ねはんじ)の一道和尚(紫田勝家公の弟と伝えられています)によって再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。
愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」
鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」
尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」
鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」
福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」
相模原南 鎌倉仏師作の地蔵菩薩立像が残る「常福寺」
鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」
尾道 本堂内に「泣き龍天井」がある「西郷寺」
厚木 大江広元の四男毛利季光と係わりが「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
なお、成覚坊幸西は壱岐国(阿波で入滅)へ、空阿弥陀仏は薩摩国(出発前日入滅)へ流国となった。
季光は、戦国時代に中国地方で勢力を誇った毛利氏の祖で、大江広元の四男。父大江広元も法然上人の教えに帰依し覚呵と号した。



















