鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」

 佐助稲荷神社の下社と社務所があります。
 さらに行くと、奉納された鳥居やのぼりが立ち並ぶ参道の両側にたくさんの狐の置物がありその突き当たりに急な石段があります。その石段を上ると杉木立の中に拝殿が建っています。その裏手の石段を上がると本殿があります。
 境内は巨木が空をおおい、昼なお暗く静まりかえり、人里離れたかくれ里のふんいきがただよっています。
 祭神は、宇迦御魂神(うかのみたま)のほかに、大己貴神(大国主命の別称)、佐田彦命、大宮主命、事代主命の四神。
 鶴岡八幡宮の境外末社で、鶴岡八幡宮が非常の際の御旅所(神輿が本宮から渡御して仮に鎮座するところ)であったようです。

福山 鞆の浦 江戸時代創建の客殿「福善寺対潮楼」

 海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
 彼らは、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。

尾道 海上3分の航海を体験しませんか「福本渡船」

今年(2025年)3月末で、135年の歴史を閉じることになりました。


 【概要】 尾道駅前広場の東端付近から少し東に行くと、向島の小歌島(おかじま)とを結ぶ航路があります。3つある航路の中で最も運賃が安い渡船でもあります。尾道側桟橋入口の赤く塗られたゲートが特徴です。
【運賃】 ・旅客運賃:大人60円,小児30円
     ・自転車(手荷物扱い)  +10円
   ※大人のサイクリスト1人  →  旅客運賃60円+自転車代10円=70円
【支払い方法・場所】
・歩行者、自転車の方の支払いは向島側桟橋入口にある料金所で行います。
・原付・バイク・自動車の方は船上で集金係りの人が集めます。
【ダイヤ】・月曜日~土曜日:6:30~20:00 運航(約10分間隔)
     ・日曜日:終日運航休止
     になっているようです。(変更されますので、注意!)

鎌倉 福の神が住でいる「銭洗弁天宇賀福神社」

 弁天様は宇賀神(うがじん)と同一視されることもある。宇賀神はよく色々な神と同一視される神で、もともと仏教では、すべての人々に福徳を授け、菩提に導く福神とされるが、日本では音が似ているところから豊穣・食物の神・宇迦之御魂命と同一視されている。他に、白蛇神などともいわれるが、蛇は水にかかわりが深く、水の象徴ともされるので、水神である弁天様と結びついたようだ。弁天像の頭に、人の顔をした蛇がとぐろを巻いて乗っかっているが、これが宇賀神である。
 そして、地方によっては宇賀神と弁天様は夫婦として信仰されることもあるらしい。
   真言は「オン ソラソバテイエイ ソワカ」で、この真言を唱えれば、技芸が上手くなり、弁舌が立つようになるという。

座間 崖下に湧く清水悪疫を止めた「座間神社」

 「相模の飯綱さま」と親しまれている当神社の創祀は神代と云われています。
 一つは欽明天皇の御代(539~571)に、坐摩郷(座間の古名)に悪疫が流行した折に飯綱権現の化身である白衣の老人が現われ、崖下の森の中に湧く清水を使うようにすすめたので、村人がそのすすめに従ったところ、悪疫はやみました。そこで飯綱権現を祀ったという。
  別の説(明治十二年編成皇国地誌)では、約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もあります。

「かわいい子には旅をさせろ」とは!

 昔の旅はまず、自分の足で歩いていくのが基本。地図などない時代、山道のような道、食べるものも、寝るところも、自分で工夫していた時代に、「かわいい子には旅をさせろ」と言っていたのでしょう。
 子どもを、本当に自立させていかないと、子孫は絶えてしまう、といった意識があったのでしょうか?
 現在、各地での戦争はありますが、まだ、昔に比べると生きやすいのでしょうか!

尾道 応神天皇休息の地「亀山(久保)八幡神社」

 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬(あがめうやまう)したとされている。

 神社としての創建は貞観年間(859年~877年)と伝わる。当地は京都から宇佐八幡に勅使を派遣する際のご参詣及び宿泊の地となり、当地を亀山八幡宮として祀ったという。

 境内には一対の灯篭「軍配灯篭」や手水の水盤の牡丹の彫刻が見事とされている。

鎌倉  もとは鶴岡八幡宮寺だった「鶴岡八幡宮」

 1063年 源頼義(よりよし)が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝は、1180年鎌倉に入り、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉にはしかるべき大工がいないので、1181年 武蔵国浅草から大工(戦争時の宮大工ら)を呼び、八幡宮の造営が開始されました。
 もとは鶴岡八幡宮寺であり、神祇・仏教信仰の両面から祀って護持する宗廟としての役割をになうものでした。
 1191年3月4日、小町大路あたりで発生した火事で全焼、そこで頼朝は、一段高いところに本宮を、下に下宮の二段構えの境内を構築した。当たりのには鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心にしました。

相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

鎌倉 天神七柱、地神五柱を祀る「十二所神社」

 1278年、鎌倉時代に創建。熊野大社を勧請して創建された。500mほど南側にある光触寺の鎮守社で、熊野信仰が武士や庶民に広まりを見せていた時期であった。

 光触寺の境内にあった熊野十二所権現の社を1838年に現在地に移転し、明治の神仏分離策の推進により社名を十二所神社と改めました。

大草鞋の大男がいるよ、悪いことはダメ「西国寺山門」

 この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
 京からお連れした仁王さん。尾道がたいそうお気に入りで、夜な夜な町を散歩する。どすんどすんの大音に、町の人々眠れない。和尚に頼んで経あげて、やっと門におさまった。仁王さんの健脚にあやかりたいと、信者が奉納した大草履。
 「この先には、この大きな草鞋サイズの足を持つ大男がいるよ、悪いことして入ったら返り討ちに遭うよ」と。

海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)

厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」

 弁財天は、七福神のなかで唯一の女性は、美と才能、財宝を生み出す女神です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
 弁財天は古代のインドにおける川の神(女神)で、水の神と農耕の神として信仰されていました。
 日本には中国と朝鮮を経由して、初めは仏教の守護神として伝わったといわれています。その当初の姿は守護神らしく宝珠・剣・弓矢などを持つ像でしたが、鎌倉時代になってから琵琶を弾く姿に変わり一般化し、芸能の神とも呼ばれるようになりまた。
 さらに江戸時代に入ると学問・音楽・除災・至福を与える神として、広く一般庶民に信仰されるようになりました。

鎌倉 一幡の母が井戸に身投げ「蛇苫止堂」

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。

尾道 瀬戸田 1936年に建立が始められた「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔」、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。

 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。

鎌倉 竜巻や火災にあったりした「補陀洛寺」

 誰のものかもわからぬ髑髏(どくろ)を頼朝に見せて闘争心をあおり、平家討伐の挙兵を勧めた人物としてその名が語り継がれている文覚上人ゆかりの補陀洛寺。
 その姿は変わってしまったが、現在でも材木座海岸近くに存在している。
 その補陀洛寺の本堂には、かつて平家を呪い殺すために彫られたと伝えられる不動明王像が安置されており、当時の空気を肌で感じさせてくれる。(「古都鎌倉 ミステリー旅」吉田憲右著より)

鎌倉 北条時宗公産湯の井がある「甘縄神明宮」

 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。
 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。(「鎌倉事典」白井永二 編より)

尾道 日比崎中学校の裏山に「竜王山の石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。
 竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りです。他の明王は船型の半肉彫りです。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負うています。細部まで丁寧に彫られた明王像で、大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれています。

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。