2020年に閉館となった志賀直哉旧居(三観長屋)ですが、文化交流施設として復活させる企画が始動したようです。
志賀直哉は父との確執で東京を離れ尾道に来ました。その理由は推測ですが、足尾銅山の鉱毒事件が関係していると思います。
尾道では、別子銅山(愛媛県新居浜)の鉱毒対策の話し合いが、大阪の住友と愛媛の関係村長が、交通的には真ん中である尾道で行われたことが理由なのでは、と思われます。これが、日本での最初の公害対策であったようです。
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尾道 巨大カラス天狗が住む「金毘羅大権現の社」でしたが!
西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。
金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。
永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物がありました。
金剛院は新しく建て替えられたのですが、「金毘羅大権現の社」は一昨年には危険な状態になっていました。今はどうなっているのでしょうか?
尾道 温羅(うら)なる鬼神を退治「吉備津彦神社」
寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月1日から3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。
尾道 幼少時代尾道で過ごした「林芙美子像」
“『放浪記』(林 芙美子 著)の一節
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海にさしかかると、慎煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、
左の放浪記の一節を見たとき、この写真の光景が浮かんできます。”
尾道 度々の災害に遭った西国寺塔頭「持善院」
仁王門をくぐり、ちょっと行った左側にあります。西國寺の再興傑僧・慶ばんの開基と伝えられています。
1829年大旦那灰屋茂助の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建された。
1976年9月、集中豪雨により裏山が崩壊し全壊したが、ただちに住職・檀信徒一体となって再建にあたった。
1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられた。
尾道 市立美術館から 千光寺への途中に「鼓岩」
鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
【鼓岩とお姫様】という民話があります。
戦国の世、千光寺山には木梨山城主(木ノ庄町)杉原氏の出城「権現山城」がありました。
城にすぐ近い南の山道にある大岩は、お姫さまや、若君のこの上ない遊び場でした。
大岩は、優しい奥方さまやお姫さまが大好きで、お城から聞こえてくる琴や鼓の音に、うっとりと聞きほれていました。
コロコロ コロコロ コロリンシャン、
ポン ポンポン ポン ポンポン
大岩は毎日が宴のように楽しい気分でした。…………
尾道 巨岩に不動明王が住む「不動岩」
“ この岩の垂直面に尾道で最大の磨崖仏、不動明王が刻まれています。
この岩上からの眺めは、多くのカメラマンが訪れるフォトジェニックな場所です。小津安二郎(おずやすじろう)監督(尾道を舞台にした「東京物語」の監督)のファンであるドイツのヴィム・ヴェンダース監督もここを訪れ、カメラマンである婦人の見事な景色の写真が、原宿で行われた展覧会に出品されていたのが2006年でした。
ここには岩を切り取ろうとした跡があります。あいている穴のことを矢穴(やあな)といいますが、ここに矢穴の数だけ襖(くさび)を打ち込んで、順番にたたいて徐々に岩を裂くように割る、昔からの手法の跡が尾道の岩には数多く残されています。”
尾道 生口島 ここはイタリア?「耕三寺 未来心の丘」
尾道 駅前に海に続く公園「尾道駅前」
駅前にこんなに広い空間を公園にするという発想が、どこから生まれて来るのでしょうか。古くから尾道に住んでいる人にとっては違和感がないのでしょう。
しかし、他の都市はバスやタクシー乗り場以外は商業スペースになっています。
古くからの商業都市の尾道、駅前にしては広大とも言っていい公園スペースを許す文化があるのですね。
尾道 裏山の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」
済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちている(残っている)シーズンは、滑りやすいので注意してください。
尾道 1935年より建立した瀬戸田「耕三寺」
“ 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。”
尾道 尾道で最初にできた神社「艮(うしとら)神社」
艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
艮神社は大宝山(千光寺山)を背にして建てられています。参拝者はちょうど大宝山を拝する格好になります。艮神社と千光寺は何か関連があるのでしょう。
尾道 幕末芸州藩が派兵し、この寺を本陣にした「妙宣寺」
“ 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。
慶応三年(1867)十五代将軍徳川慶喜は内外の情勢を察し大政奉還を断行。このとき芸州藩は尾道の重要性を認め、片岡大記を隊長として一箇大隊の兵を海路尾道に送り、また意気たからに長州藩の鉄砲隊もくりこみ寺院に分宿、目と鼻の先の福山に徳川の譜代衆阿部氏と対峙した。尾道には官・幕双方の密使やスパイが入り乱れ一触即発の危機をはらんでいた。そのような緊迫状態のなかで芸州藩の支隊が西国寺にも駐屯した。また、血気はやる地元民などで結成された隊士らが、乱暴をはたらき刑に問われたものもある。
(尾道は、大半が芸州藩、東の外れ側が福山藩(井伊直弼の一つ前の老中首座が阿部正弘で、福山藩の藩主。) ”
尾道 「おどり念仏」を今に伝える「正念寺」
“ 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。”
尾道 元は天台宗でしたが浄土宗へと改宗「光明寺」
834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
海上鎮圧令(海賊取締令・海賊停止令)とは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が倭寇に対し
①豊臣氏に従い、大名となる
②豊臣政権の大名の家臣となる
③武装を放棄し、百姓になる」。
この3つを迫った政策です。
尾道 昔も今も、海も街も近い「尾道駅」
1891年(明治24年)11月3日 – 山陽鉄道が福山駅から延伸し、その暫定的な終着として開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1906年(明治39年)12月1日 – 山陽鉄道の国有化により国有鉄道の駅となる。
1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
2019年3月10日 新しく建てられ変えられ改行した。駅のデザインは1937年ころの駅舎に似たデザインとなった。
《尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市》
尾道三山と対岸の島に囲まれた尾道は、町の中心を通る「海の川」とも言うべき尾道水道の恵みによって、中世の開港以来,瀬戸内随一の良港として繁栄し,人・もの・財が集積した。
その結果,尾道三山と尾道水道の問の限られた生活空間に多くの寺社や庭園,住宅が造られ、それらを結ぶ入り組んだ路地・坂道とともに中世から近代の趣を今に残す箱庭的都市が生み出された。迷路に迷い込んだかのような路地や、坂道を抜けた先に突如として広がる風景は,限られた空間ながら実に様々な顔を見せ、今も昔も多くの人を惹きつけてやまない。
(「日本遺産認定の認定結果」文化庁 より)
尾道 千光寺山頂から千光寺へ「文学の小路」
千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。
尾道 信行寺から 天寧寺へ「幸神社跡」
【伝説 幸の前の尻つめり】
天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。
ある夜のこと、氏子の孫右衛門が寝ていると
「孫右衛門よ、孫右衛門よ」
と呼ぶ声がして白髪の老人が現れ、
「私は幸の前の塞之神である。いたんだ社の修理をたのむ。修理して祭りをしてくれれば、幸の前の氏子たちに末長く福をさずけるであろう」
と告げました。・・・・・・
尾道 艮神社から天寧寺塔「猫の細道」
尾道には「猫の細道」と名づけられた小道があります。
生きている猫の他に、猫を書いた石が所々にあります。作家の園山春二先生によって生み出されものです。
福石猫の作り方は、日本海の荒波に長い年月もまれ、丸くなった石を拾ってきて、約半年間塩抜きをし、その後、特殊な絵の具で三度塗り重ね、作り上げていくそうで、福石猫が完成されるまでには、約1年もかるそうです。
ひとつひとつ丹念に作られていき、最後に艮神社でお祓いをうけ、晴れて福石猫となって、尾道に住んでいるのです。
縁起物の中の横綱といえば、それは招き猫。招き猫の置きものは江戸時代、江戸で誕生したようですが、どのようにして生まれたのかははっきりしていません。
天明年間(1781~89年)、江戸両国の二つの妓楼(ぎろう)(本所回向院(ほんじょえこういん)前、一つ目弁天前)で、大きな招き猫を店頭に飾りました。それが評判になり、妓楼は大いに繁盛したといいます。一説に、これが招き猫の起こりとされているのです。
尾道 古寺巡りコース「持光寺 → 光明寺へ」
「古寺巡礼コース」になっています。少し遠回りになりますが、も少し上を回って行くこともできます。
尾道の山裾巡りは、坂や石段が多いのですが、景色の変化と住まいの変化(生活感)が感じられ、楽しむことが出来ます。
また、石垣が多いので、どんな石積をしているのか、注意してみることもできます(そんな人はあまりいないですけど)。