尾道 海上交通の安全を願う「住吉神社」

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 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。
 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」
「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。

尾道 温羅(うら)なる鬼神を退治「吉備津彦神社」

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 吉備津彦と桃太郎にまつわるお話
「桃太郎」の話の原形は、ヤマト朝廷の吉備征伐という歴史とつながりがあるらしい。
 第十一代垂仁天皇の時代のこと、朝鮮半島の百済からやってきた温羅(うら)なる鬼神が吉備(美作・備前・備中・備後、現在の岡山県と広島県東部)にたどり着き、住みついた。温羅は瀬戸内海を航行する船に海賊行為を行い、婦女を掠奪するなど、乱暴狼藉をくり広げていた。人びとは恐れおののき、都に訴え出てきたので、朝廷は吉備津彦を遣わし、温羅を成敗したという。

尾道 威臨丸で渡米「土居咲吾の墓」

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 生垣のなかに海外留学の先覚者土居咲吾の墓がある。咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。勝海舟の卒いる威臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。

尾道 築庭は小堀遠州の可能性が「爽籟軒庭園」

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 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

尾道 御利益が顕著な日限地蔵の「大山寺」

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 愛宕山の南山麗に霊験あらたかな地蔵尊がおわす-。西国寺の前々の住職で京都・三宝院の門跡になられた多田実円師が、その御利益の顕著さを評して「日限地蔵」と名付けた。
 往昔、釈迦如来が在世のさい、地蔵菩薩を召して日く「われ入涅槃すれば弥勒菩薩出世の暁まで五十六億七千万年なり、この間娑婆世界に於いて諸々の悪業をつくり五濁濫漫の苦海に沈める薄福重障の衆生をば済度し、永く悪道を離れて仏道を成せらしめよ」と-。この時から地蔵は我が身を百千億にもわかち民衆救済のため路傍にたたれた。

尾道 かんざし灯籠の「八阪神社」

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 かんざし灯籠由来(説明看板より)
 江戸時代の末、ここから程近い芝居小屋に、それは美しい、しかしどこか寂しい影があってあまり客のつかないお茶子がいた。
 お茶子とは観客にお茶や座布団、時にはお酒の接待などもして心付けをもらう女性をいう。
 そのお茶子に浜問屋の若旦那が恋をした。内気な少女のそんな心もとなさがかえって、豪商の跡取りながら、ひとりの多感な若者の心に火をつけたのだったが、身を飾るかんざし一つとてないお茶子の姿を見た親は、こんなみすぼらしい娘を嫁に迎えるなどもってのほか、とその恋を許さない。
 お茶子は井戸に身を投げ、この大銀杏の木の下に「かんざしをください」と哀しい声で訴える幽霊が出るようになった。この灯籠はそのあわれを慰めようと心ある人々がお金を出し合って奉納したものという。

尾道 小説 姿三四郎のモデル「西郷四郎逝去の碑」

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 浄土寺から西郷寺に向かう途中に「西郷四郎逝去之地」があります。
 浄土寺道から筒湯小学校へ道がわかれる傍に海をみおろすように「西郷四郎逝去之地」と刻んだ碑が建っている(いまは、碑を10mほど東に移している)。西郷四郎と云うより富田常雄の柔道小説「姿三四郎」としたほうがよく知られ、説明する必要もなかろうが、西郷四郎は講道館草剣時代、嘉納治五郎師範の片腕として日本柔道を大成させた偉傑。

尾道 猿づくしの気配「山脇神社」

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 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配です。

尾道 浄土寺山鎖場下から(登山道経由)不動岩へ

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 鎖場の入り口の神社の前を過ぎ、狭い橋を渡り右に登ると、道は急になり、そのころから左右に点在する石の三十三槻音が稚拙ではあるが、ふと足をとどめさせ、単調な山道にうるおいをもたせひと息つかせる。
 明治初期につくられ、境内にあつたものを、昭和四十五年の春観音にさいし頂上の峯の薬師まで適当な間隔においたもので浄土寺の新所を「観音こみち」と名付けてはと。
「郷土の石ぶみ」(1973年 山陽日日新聞刊)より

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

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 外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。
 土居咲吾は長尾幸作と云い、開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父から洋学の優れていることを聞かされており、21才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学を、さらに25才、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。

尾道 墓地に猿の座像「福善寺」

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 守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ久保町に道場を開き布教に勤めた。1630年現在地丹花の丘陵に寺を移し、本願寺直参末寺「一家衆」に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。
猿の座像 — 高さ65cmばかりの桃をかかえた日本猿の座像。剽軽な顔、肩から腰に流れる美しい線、軽妙なタツチ、石の街ではならの逸品。

尾道 童歌で“かたい門は持光寺”の「持光寺」

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持光寺の石の門
 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。(「郷土の石ぶみ」 明治31年5月10日創刊 山陽日日新聞社 より)

尾道随一の名水が湧く「正念寺」

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 時宗 来迎山引接院 正念寺 縁起
 創建  天正二年(1574年)
 開山  遊行三十一代 遊行上人
 総本山 神奈川県藤沢市 遊行寺
 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。当山は第三十一代遊行上人によって闘かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発擢したといいます。

尾道 巨大なカラス天狗が住む「金剛院」

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 西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。
 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。
 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。

尾道 地元でも見知らぬ石仏の山「竜王山」

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 尾道には竜王山と名がつけられた山が5つあります。この日比崎中学校の上にある竜王山は、地元の人にもあまり知られていないようです。「蔵王権現」を中心とした修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。急な石段で、しかも、その幅が狭く、枯れ葉などがあると滑りやすく注意が必要な場所ですが、石仏をひとつひとつゆっくりと見たいものです。

尾道 供出した鐘、無傷で戻った「浄泉寺」

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 鐘撞堂は享保八年(1723)九月に建立され、文政十三年(1830)三月 八世順盛代に修復され明治二十四年(1891)山陽鉄道開通にともない現在地に移建されました。
 梵鐘は文政十年(1827)四月に鋳造され、口広三尺高さ六尺あります。
 昭和十七年(1942)第二次世界大戦の折、金属回収令によって供出されましたが、昭和二十年(1945)終職後、岡山玉野の精練所で発見、無傷で返還されたものです。

尾道 2019年2月地蔵堂が放火された「海龍寺」

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 2019年2月19日午前2時10分頃、尾道市の寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。
けが人はいませんでした。「寺の地蔵堂が燃えている」と住職から119番通報があり、消防車5台が出動し、火はおよそ40分後に消し止められましたが、この火事で寺の地蔵堂と倉庫合わせて35平方メートルが全焼しました。本堂への延焼はなく、けが人はいませんでした。
 本堂(ご本尊千手観世音菩薩)と阿弥陀堂(位牌堂)(ご本尊阿弥陀如来)は無事でした。
 2019年3月7日、地蔵堂から仏像を盗み、放火したとして送検されました。

尾道 林芙美子著「風琴と魚の町」ー尾道ー

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林芙美子著  「風琴と魚の町」より
 蜒々(えんえん)とした汀(なぎさ)を汽車は這(は)っている。動かない海と、屹立(きつりつ)した雲の景色は十四歳の私の眼に壁のように照り輝いて写った。その春の海を囲んで、たくさん、日の丸の旗をかかげた町があった。目蓋をとじていた父は、朱(あか)い日の丸の旗を見ると、せわしく立ちあがって汽車の窓から首を出した。
「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」
 母も経文を合財袋(がっさいぶくろ)にしまいながら、立ちあがった。………

尾道 新しくなった「尾道駅」

 今日(2019年3月10日)から、尾道駅が新たらしくなり、開業記念に「記念入場券」が9時より販売されました。せっかくでしたので列の後ろに並んでみましたが、二列の列が1時間たっても30~40mほど進んだだけでしたので、購入を諦めました。二列の列が1時間に40mほど進むというのは、かなりの好記録なのでしょうか? もしかしたら、世界記録かも、と思いながらひとつの思い出が出来ました。

尾道 天保の大飢饉、救済事業として本堂の改築「慈観寺」

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 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。