尾道 尾道一の絶景「浄土寺山山頂」

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 瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
東西南北のすべて見渡すことができ、特に瀬戸内の島々の遠望がよい。ここまで登ってくる観光客はまづいない。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は“尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。条件が良ければ四国山脈最高峰の石鎚山が一望できます。

尾道 清楚で風格のある「西郷寺」

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 1353年の開基。本堂・山門ともに国重文で、時宗の本堂形式としては他に比類のない名建築です。鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
 本堂は文和2年(1353年)に発願され、時宗最古式の本堂として貴重なものです。堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音が帰ってきます。


尾道 足利義光が宿泊した「天寧寺」

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 1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。


尾道 石段に職人の思いが込められた「御袖天満宮」

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 映画好きの若者ならみんな知っている大林監督の「転校生」で、一夫と一美が転げ落ちる石段。長さ5mもの1本石が54段も連なると実に美しい。残り1本をわざと継いだのは、石工の心遣い。さて、両側の石垣の勾配も、これは芸術的。
 石段を上がった右手には、天神さんのお使いの牛が鎮座し、拝殿左の池の向こう、大きな石の筆が立つ。右隣の一文銭の碑は、泥棒の疑いをかけられた若者が、天神さんに願を掛け、濡衣晴らしたそのお礼に建てたもの。


尾道 江戸時代尾道石工のノミ跡「済法寺磨崖仏」

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 済法寺の裏山斜面に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。


尾道 日比崎にある石仏の山「竜王山」

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 天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

尾道 伝説:小僧さんと天狗さま「持光寺」

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 いつのころかずっとむかしのこと、持光寺に一人の可愛い小僧さんが京都の本山から修行にきていました。小僧さんは、毎日一生懸命修行にはげんでいましたが、遠くはなれた本山に早く帰りたいなといつも思っていました。しかし修行の道はきびしく、小僧さんが本山に帰れる日はなかなか来ません。小僧さんは修行で疲れたときは、お寺の山にある天狗岩に上がりました。そしてそばの大きな松の木に話しました。

尾道 瀬戸田「耕三寺 千仏洞地獄峡」

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 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。

尾道 鐘楼の横を入って行くと「正授院」

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 中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。  鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。

尾道 信長を呪い殺す“調伏”が行われた「西国寺」

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 西国一の大寺。今、徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあるとのこと。
 パワハラ信長は、部下から将軍としての能力に疑問を持たれ、また、覇権を競う他の武将からも、将軍にふさわしくないと考えられていたのだろうか。

尾道 処刑された盗賊の首を祀った「海福寺」

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 「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。
 同じような伝説に、鼠小僧の義賊伝説があるが、鼠小僧は、江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる。現在の定説は、「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」となっている。


尾道 ゆかりのある作家たち「文学記念室」

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 庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されています。
 1912年~1928年かけて増改築され現在の形となっています。
 福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。


尾道 長い入り江であった頃の伝説「磯の辨天神社」

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 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
【伝説 ひなじの仇討ち】】
 尾道の港が千石船の出入りでたいそうにぎわっていたころ、町にはたくさんの遊女がおりました。遊女は疲れた旅人や船乗りたちを慰めるためにいたのです。多くの遊女は、貧しい親を助けるために働いていました。そのなかに、芸事にすぐれ小太刀をも習った「ひなじ」とういう遊女がいました。……



尾道 観音さまを盗む民話がある..「光明寺」

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【民話 光明寺の観音様】
 むかしむかしのことよ、この尾道にの、わりい(悪い)男がおってのう。光明寺の観音さまは小まい(小さい)けど、金ぴかに光っとりなさると聞いて、男はいっぺん観音さまを拝みに行こうと思うたんよ。ほんまはその男、金ぴかが気になったんじゃけどの。
 ある日、男は光明寺にでかけたんじゃ。お寺参りの人にまじって、本堂に上がったんよ。ありがたい観音さまの前にゃあ、お供えがえっと(たくさん)してあった。
「ほんまこりゃあ、きれえな観音さまじゃ、それに小まいのう。これならわしのふところに入れられるじゃろう」………



尾道 「五重塔から三重塔へ」珍しい「天寧寺塔」

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 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。


尾道 林芙美子の母校「尾道東校」

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【林芙美子 高等女学校時代】
 ほんの腰掛のつもりで足を止めたこの尾道という海岸町に、私は両親と三人で七年ばかり住んでいました。この町ではたった一つしかない市立の女学校に入りました。女学校は小さい図書室を持っていて、………ホワイトファングだの、鈴木三重吉の「瓦」などを読みました。



尾道 二年ほど住んだ「志賀直哉旧居」

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 志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
 志賀直哉は、夕方になると八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
 長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか?
 そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。



尾道 むかし北前船が寄港、今は「海の駅」

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[尾道町の政治体制」
 戦国時代、尾道は毛利氏の支配下にありましたが、その支配方法は、自分の家臣を尾道に配置したのではなく、地元の豪商と主従関係を結ぶことで間接的に行われました。なぜそのような方法をとったのでしょうか。それは新たに家臣を配置し、一から支配体制を作り上げるよりも、もとよりその地で活動していた商人と手を結ぶほうが容易に支配できたからです。しかし一番の理由は、当時から経済活動が盛んだったこの地を治めるためには、その中心であった商人たちと手を組むことで彼らが持っている流通ルートを掌握することもでき、軍事物資や、中国や朝鮮の高価な品物を入手しやすかったという利点がありました。