厚木 巨石が掌を合わせた「大釜大弁財天尊」

191003a_ookamabenzaiten.jpg

 広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。その2つの巨石に前面には渓流が勢いよく流れ、直径1m50cmの一の滝壺、3m40cmの二の滝壷で渦となり次の1m50cmの滝壷、2m80cmの滝壷、2m50cmの滝壷へと巨岩を縫って落下しています。昔は7つの滝壷があり荘厳な眺めであったということです。

厚木 信玄出陣の際お堂が兵火に「妻田薬師院」

190913a_tumadayakusi.jpg

 睦合地区妻田の北端に、楠を交えた森があります。小字を白根といい、薬師堂が建てられています。この薬師堂は、妻田薬師と呼ばれ、もともと古義真言宗の白根山東光寺遍照院という別当寺が管理する仏堂で、古くから近隣の人々の厚い信仰を受けていました。
 目の病に効く薬師堂として、妻田地区など近郊の人たちの信仰を集めています。この薬師堂がいつ頃建立されたのかはっきりしないのですが、一説によると奈良時代ではないかと言われています。江戸時代に書かれた「妻田薬師縁起」によりますと、伝説と史実を織り交ぜる面白い話が数多く残っています。

厚木 相模観音霊場二十七番札所だった「聖眼寺」

190901_seiganji.jpg

寺院の由来と歴史」
 聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
 江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。

厚木 多くの古い石仏がある「金剛寺」

190824a_kongoji.jpg

 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。 天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。

厚木 本殿は最古で最大の「荻野神社」

190814a_ogino.jpg

 荻野神社は、かっては石神社と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」によれば、自然石を御神体とし、牛頭天王(ごずてんのう)を合紀し、荻野三村の鎮守で社領三石の御朱印は天正19年(1591)に附されたとあります。また銀杏樹(いちょう)は神木であると記されています。
 厚木市内ではもっとも古く、かっ規模の大きい社殿です。桁行(間口)9尺、梁行(奥行)6.7尺で内部は前後二室に分かれ、前室は板敷、後室は土間のままです。

厚木 六斎市(門前市)が栄えた「法界寺」

190801a_hokaiji.jpg

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
 (北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)
 その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。

愛川 田代の半僧坊と呼ばれている「勝楽寺」

190710a_shorakuji.jpg

 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。

厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」

190708a_koutakuji.jpg

 ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡が付いていた。「こんなに朝早く来た人もいるもんだ」と足跡をたどって行くと、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。
 その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払ってやる」村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。

厚木 社殿の前の白山池に棲む白龍「白山神社」

190628a_hakusan.jpg

 白山神社は、飯山観音背後の白山(標高284メートル)の山頂付近の尾根道ある。
 社殿の前には、池(白山池)があって、古くから雨乞いの霊地とされてきた。
 飯山観音(長谷寺)を開いたとされる行基は、この山を登り、霊水が湧き出している池を発見し、加賀国白山妙理大権現を勧請したと伝えられている。
 そして、クスノキで彫られた十一面観音が祀られたという。
 この十一面観音が現在の飯山観音(長谷寺)の本尊といわれている。
 明治初年頃に火災に遭い、龍蔵神社に合祀されていたが、昭和55年に現在の社が再建されている。

厚木 小野小町がかくまわれた地に「小町神社」

190622a_komati.jpg

 この小町神社は、その昔鎌倉時代丹後の局という世にもまれな美人がおり、ひそかに源頼朝のご寵愛を受け終に局は身ごもりました。これを知った婦人政子は大変ねたみ、畠山重忠に局を由比ヶ浜で首をはねよと命じました。重忠は家臣の本多次郎に命じ局を浜へ伴い殺そうとしましたが、局の身を哀れみ身代わりを立てその場をつくろい、乳兄弟で小野の住人川上酒匂の屋敷にかくまい局を助けました。然しいつとはなくその事が政子の耳に入りその怒りは骨髄に徹する程厳しく、局は俄かに白髪の姿になってしまいました。

厚木 明治初年、町内の神社を合紀した「厚木神社」

190421a_atugi.jpg

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょ)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。

厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」

190411a_tumadayakusi.jpg

 妻田薬師は、もともと古義真言宗の白根山東光寺遍照院という別当寺が管理する仏堂で、古くから近隣の人々の厚い信仰を受けていました。
薬師堂(市指定有形文化財)
 この薬師堂は、薬師如来を安置するための仏堂で、「新編相模巨t記稿」には、永禄12年(1569)、三増(愛川町)で武田信玄と北条氏との戦いがあり、その前に武田信玄によって焼かれたと記されています。 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より

厚木 奈良時代後期の創設「七沢観音寺」

190407a_kannonji.jpg

 観音寺は奈良時代後期、元正天皇の頃の創設と伝えられています。
 元正天皇の時代、着物の着方を右前に統一する衣服令が出されています。衣服令は、遣唐使が唐から授けられた朝服を持ち帰り、717年正月10日に、その朝服を着て参内したのですが、それが右前でした。その直後、百姓の衣服は右前にするようにとの衣服令が出されたのです。参考までに、元正天皇は独身を通した女帝です。

厚木 日本三体地蔵尊の一体「子合地蔵尊」

190304a_koaijizouson.jpg

 保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利主計(かずえ)のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。

厚木 岡津古久にある「子安神社」

190226a_koyasu.jpg

 子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立であります。
 祭神は木花咲耶姫命が祀られておりますが、配祀祭神として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。 古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
 祭神木花咲耶姫命は古来から子宝・安産の命として崇められ、人々の信仰も厚く、天正十九年(1591)には神領壱石の御朱印を賜りました。

厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」

181120a_seigenin.jpg

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。
 天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。


厚木 鎌倉時代頃の創立「光福寺」

181106a_kouhukuji.jpg

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。


愛川町 関東の山岳修験の道場だった「八菅神社」

181102a_yasuge.jpg

 八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
 明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。


厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」

181007a_tyokokuji.jpg

飯山の隠し鐘(小鮎地区)
 飯山の観音様の釣り鐘は、昔、霊験あらたかなお坊さんが造ったもので、板東でいちばんありがたい鐘であるといわれています。この鐘の音を開く者は、みな心を洗われる気がします。病人もこれを聞いて一生懸命信心すれば、病はたちどころによくなりました。


厚木 元は真言宗の乗碩寺だった曹洞宗「松石寺」

181001a_shosekiji.jpg

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。
「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)