自分の持っていない幸せだけが「幸せ?」

 「もっと○○だったら……」と思うことが、日常的になってしまうと、不満が蓄積してしまいます。
 毎日、「おかげさまで」で過ごしていると、毎日が楽に過ごせることでしょう。
 幼少の時期から、何となく人と比べられ、少しでも人より上にあることを求め続けられ、それが出来ないと、不満になるように躾けられていると、なかなか楽に生きる技術は身につかないことでしょうね。
 ネット社会で情報があふれてくると、どんどん人と比べるようになってしまいますね!

相手のことばかりに気持が向き過ぎてしまう!

 子供の時に「自分」というものを、どのように造っていくか。知識教育だけでは、「自分」というものを造ることは出来ないのでしょう。
 自然を五感で感じ、自分でどのようにその環境(自然)に対応するか、考える経験を積み重ねることが大切なようです。
 ただ、現在は子どもの事故を防ぐため、安全対策がされているため、本当の思考力は身につかないのでしょうが。そうかといって、危険な環境を放置することもできないので、難しいですね!

叱った後は、叱り終わった合図を!

 「叱る」とき、「叱り終わり」を考えてから叱っていますか?
 叱る目的は、叱る相手に何かしらの改善を要求し、そして、結果を出してほしいから叱っています。
 叱った結果は、どの程度改善が実現していますか?
 よく見かけるのは、叱る側のストレス解消のため叱っている、と感じてしまうことがあります。これでは、叱られた側もストレスが残り、双方とも何のメリットも生まれてきません。
 何かしらの改善が生まれる叱り方を、充分考えてから、叱りたいですね!

究極に到り着きそこに住(とど)まる重い病気!

 最近は、スペシャリストを目指す人が多い感じがします。しかし、専門知識のそばに、雑学を置いといてほしいです。
 専門知識一辺倒になると、思考の幅が狭くなっていきます。曖昧さが許せなくなります。
 日本の平和な時代は、「曖昧を許容する」ときです。思考の狭さは、社会から見ると、危険視されることもあります。
 その状態で年齢を重ねていくと、いっそう執着心が強いまま、思考が狭いまま、過ごすことになります。仕事をしているときは、まだ良いのですが、リタイヤすると、大きな弊害になることもあります!

子供の時からいろんな人との接触が必要!

 今は、子どもに声をかけにくい社会になっています。その結果、子供達は人を見抜く力がついていません。また、「このようなことをやると、他人(社会)からどのように見られるか」ということを、考えなくなってしまったようです。
 自分が置かれている状況の、「気配」とか「殺気」も感じることが出来にくくなっているようです。
 「人が絶滅しない社会」を考えたとき、どのようにすれば、どのような社会であったら、良いのでしょうか?

片づけのコツは「戻しやすさ」を優先!

 昔と比べると、豊かになっています。豊かさは、「片付けの力」を要求してきます。取り出しやすいと、どんどん取り出し、いつの間にか散らばってしまいます。取り出しにくい方が良いのでしょうか?
 また、環境でも変わるようです。仕事場ではキチンと片づいています。田舎に帰ったときも片づいています。
 自分の性格より、自分が置かれている環境で、片付けの感覚も違ってくるのでしょうか!

「ゆとり」を楽しむ時代に!

 対話型AIは、知識中心の教育を変える力があるのでしょうか。
 現段階で使ってみると、質問が具体的で、回答を匂わすものであれば、回答も正しいようですが。質問が曖昧だと、変な回答が返ってくることがあります。それもまことしやかな回答で返ってきます。
 ということは、質問をする前に、具体的な質問が出来る程度の知識は必要なようです。特に日本語は、同じ単語であっても、使い方が多用なので、質問するときは、どの単語を使って質問をするかも、関係してくるのかも知れません。
 やはり、「知識」と「感覚」をもとに、「考える力」を身につけることが、基本なのでしょうね!

目標に向かって努力をした人の脳!

 ChatGPT(相談型AI)サービスが開始されました。これは、結果的に「考える」ことが少なくなるようです。これは、認知症につながる心配はないのでのでしょうか?
 半世紀ほど前に「知的生産の技術」という本が発行されています。カードに情報を記入しておき、それをいろいろな視点から組み合わせ、「新たな知的発見」を行う方法です。
 その後、カード型データベースソフトが発売され、そしてSQL型のデータベースソフトになり、多くのデータを蓄積できるようになりました。その結果、多くの情報から「単語検索」が可能となり、いろいろな情報が見つけやすくなり、その見つけた情報を組み合わせ、新たな「気づき」が生まれやすくなりました。
 特に日本語は、同じ単語でも、使い方が多様なので、面白い気づきも生まれやすいですね。
 出来れば、自分でデータベースを作り、そして、単語検索をし、その情報を組み合わせて遊ぶと、歳をとっても、思考遊びを楽しむことが出来ますよ!

朝いちばんの気持ちいい「おはよう」を!

 現在、子どもに声をかけることが、はばかられる時代。この子供達が大人になると、人との付き合いがうまくいくのだろうか? と、心配ですね。
 子ども時代から、自分で人を見抜く力をつけていくことは、大切だと思うのですが。
 子どもに危険が無いようにすることも大事ですが、子どもが、危険を察知し、どのように対応するか、考える力をつけることも大事ですね。
 どちらを選択するか。あえて、危険に対応できる力をつけたほうが、その子にとっては、大人になってよい人生を送ることが出来るのでしょうね。難しいですね!

ノーと言うためには説得する力が必要!

 「No」は、それなりの理由が必要です。そして、説得力も必要です。この説得力がない場合、つい「Yes」と言ってしまうことがあります。
 きちんと「No]と言える説得力を身につけたいものです。理想は、Noと言わなくても、雰囲気でノーというオーラを発信できれば、最高なのですが!

視覚から得られる情報が圧倒的に多い!

 私たちは、眼の情報を頼りにしています。でも、よく考えてみると、初めて訪れる土地、知識・情報が先にあって、その部分だけしか見ていませんか?
 視覚情報がありながら、そのほとんどを見過ごしていませんか。
 最近は、初めて行く土地の場合、移動するための情報以外は、見ないようにしています。そして、その場所に行くと、五感で感じることが第一優先。ただし、その場所にはもう一度、いろいろ調べてから訪れます。
 話は変わりますが、クルマの自動運転技術が進んでいます。しかし、視覚に障害がある人用の、自動案内装置はどの程度進化しているのでしょうか?

無生物の進化も考えよう!

 無生物(石や水など)も環境と時間とともに変化しています。この変化は生物の変化のようには、見られていません。しかし、生物も何らかの原子の組み合わせで成り立っています。今回の新型コロナウイルスも、何らかの組み合わせで、できているのでしょう。
 もちろん人間も、またその生死も、何かしらの組み合わせの変化が起きてのことなのでしょうね。

ところで、対話型AIも無生物ですね!

いつのときにも選択をしているのかも!

 人間が、行動するとき、結論を出すとき、何らかの「判断」をしています。でも、その多くは、「無意識の判断」です。
 歩くとき、からだの判断を意識していますか? 道を歩くとき、どのように足を出し、体のバランスをどのようにするか、判断していますか? 普通は、手を振ってバランスをとりますが、両手に荷物を持っているときは、足の指からの信号で、足の右側に力を入れるか、左側に力を入れるか、判断しています。これは無意識で判断しています。
 人間のほとんどの判断は、他の生物と同じように、無意識の判断です。言葉による判断は、ほんのわずかなものなのでしょうね!

朝食抜きは、脳は午前中エネルギー不足に!

 朝食は活動のエネルギーのもとです。朝食を抜くと、だらだら活動になりかねないですね。ただ文字を見て、記憶するだけなら、それでもついて行けるのでしょうが、五感をフルに使って、その状況に対応して行くには、頭の働きも大切だと思います。
 最近の犯罪を見ていると、あまり考えないで行動しているようです。子ども時代に、自然の中で、どろんこになりながら、その状況の中で、どのように遊ぶか、考えながらあそぶ経験も大事です。そのような経験があると、大人になっても、もう少し考えて行動するのでしょうね!

プラスの言葉が大事!

 親切は、自分のためですね。自分の心が穏やかになります。
 ここ1年あまり、横断歩道での歩行者優先がマスコミに取り上げられていましたが、これを行うと、自分の心が穏やかになります。
 他の人があまり行わない親切を行うと、自分の心の穏やかさもレベルアップします。
 自分の五感をレベルアップし、他の人にプラスになる行いが多くできるようになると、毎日が穏やかな暮らしになりますね!

人づきあいがうまくいかない!

 人づきあいは、難しいと考える人が多いようです。特に何らかの評価をすると難しくなるようです。食べ物でもそうですが、「うまい」とか「まずい」とか、評価するのと同じように、「好き」か、「嫌い」か、で評価すると、人づきあいが難しくなります。
 食べ物の場合、これは「こんな味がするのか」で留めておくのと同じように、「この人はこうなのか」で留めておけば、人づきあいも少しは楽になるのでは、という気もするのですが!

高速化が深刻な弊害をもたらしている!

 交通や通信の技術が進歩すると同時に、人々の移動が激しくなりました。その結果、人や物に付着して、様々なものも移動するようになっています。たどり着いた土地の環境に合わせるため、様々な変化が起きているのでしょう。
 また、体力的にそれほど移動できなかった人達も、いろいろな交通機関を利用し、長距離の移動が出来ています。
 そして、移動中も、普段と同じように高速通信を使って、日常生活が送れるようになりました。
 高速通信で、多くの人がいろいろな情報に接するため、過去に学んだ知識も役に立たなくなってきています。何歳になっても、常に「学び」続けなければならない時代になりました。
 文字や画像データはこの恩恵を受けることが出来るのですが、五感で得る情報は少なくなりつつあるようです。感覚と文字・画像情報の接点を大事にしたいですね。そのためか、俳句が流行っているようですね!

「人間の教育」は自然界の摂理に学ぶ!

 子供達の多くは、自然の中で学ぶことが少なくなっています。自然の中での危険を体感することが少なくなっています。
 言葉や文字から学ぶことが多く、五感で感知し、自分で考える、ということが少ないからでしょうか。
 学童保育は、子どもの自由があるようですが、大人が見守っています。そのためか、どの程度までは安全か(危険か)は、大人の指導が入ります。
 安全は確保できますが、失敗の経験は少なくなります。
 五感の情報から考え、判断する、という力が弱くなっているようです。
 最近の犯罪を見ていると、本当に自分で充分考えて、行動の選択を行っているのか疑問を感じます。
 これは、人類の生き残りという視点が、不足しているのでは? SDGsは人類の生き残りを考えた活動だと思うのですが!

「得ること」にのみ価値を置く社会!

 植物は、動物たちをささえる大切な食料です。稲作が始まり、耕作者1人で2人分の食料を確保でき、しかも、1年間蓄えができるようになりました。安心して暮らせる食料が手に入るようになりました。
 イネが進化し、少し寒くても米が収穫できるようになりました。
 そして戦国時代には、田んぼがどんどん増え、戦が始まりました。
 イネが、その地域の人口を適正にするため、人間に戦わせるという戦略をとったのでしょうか?
 もしかすると、植物の進化は、ヒトが想像している以上に、戦略的なのかも知れません。
 幻想ですが!

なぜ自然界に知恵がないと思っているのか!

 人間は、生物の中で自分達が一番発達していると思っているようです。本当にそうでしょうか?
 例えば植物、動き回らなくても栄養分は確保できます。害虫が来れば、その害虫の敵の虫を、高周波の音を出し呼び寄せ退治させます。
 縄文杉などは数千年の命を持てています。水分も20m、30mも引き上げています(人間は手動では10m程度です)。
 生きるという視点で見てみると、「動かないでも生きていける」は、人間よりはるかに発達していると思いませんか! 人間は、生物の中で自分達が一番発達していると思っているようです。本当にそうでしょうか?
 例えば植物、動き回らなくても栄養分は確保できます。害虫が来れば、その害虫の敵の虫を、高周波の音を出し呼び寄せ退治させます。
 縄文杉などは数千年の命を持てています。水分も20m、30mも引き上げています(人間は手動では10m程度です)。
 生きるという視点で見てみると、「動かないでも生きていける」は、人間よりはるかに発達していると思いませんか!