温暖化と言いながら、極端な寒さも起こりました。
平均気温では温暖なのでしょうが、気温の上下の幅が増えています。その対処を考えなければいけないようですね。
生物も気温の上下の幅が激しい中で、生きていかなければならないので、今までの捉え方ではダメな場合もあるのでしょうね。
冬場の熊の出没も何かしら関連があるのでしょうか?
常識も、変化する時代になってきたのでしょうか?
2025年のアーカイブ
鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」
「時間がないから」「忙しいから」やりたいことが出来ない!
福山 鞆 足利尊氏が九州から東上の途中宿陣、軍義した「小松寺」
あまり歩かず脳に伝わる刺激が乏しいと、脳は活発に動かない!
座間 伊勢鈴鹿郷の神輿が流れ着いた「鈴鹿明神社」

欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
欽明天皇二十八年(567)に、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していた。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かった。そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したという。このときから、水を司る竜神として、恵みの雨を降らし、また水害をもたらす雷神が注目されました。
雷神は人びとを恐怖のどん底に突き落とす崇り神の象徴となったのですが、逆に、雷が落ちなければ豊作は望めないという信仰がありました。
最近、科学的にも雷は稲の実りを良くすると言われています。
プライベートに深入りするな!

テレビ番組で、ウソについての実験。3歳~6歳位までの子供に対し、ウソをつくかどうか実験した。すると年齢が上がると、ウソをつく確率が上がっていた。
また、「目はウソをつかない」と思っている人が多いが、これも事実と異なっているそうで、平気で相手を真っ直ぐ見ながら、ウソをついていることもかなりあるとのこと。
どうも人間は社会で生きていくために、ウソをつく習性を当然としているようです。
言っている本人も、ウソと自覚しないままウソをついているようです。
鎌倉 腰越 比企高家の屋敷跡に「本龍寺」
どう生きていくかを、自分の心で考えて!
尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。
多くの仏の中で、特に阿弥陀仏に依るのは、まさに阿弥陀仏が私たちのような凡夫を救おうとされているからといえます。阿弥陀仏は、どこにいる人にも届く救いの光明を常に発し続けておられます、と。
日本の文化の礎は稲作にある!
厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」
日本では昔から「湯治」が行われてきた!
鎌倉 タブの木が枝を広げる「八坂神社」
感情によって同じものが違うものに見える!
福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」
ここは第十四代仲哀天皇の時代に始まりましたが、ちなみに初代の天皇は神武(じんむ)天皇が即位したんが紀元前660年。 この神武天皇が即位した年を「神武天皇即位紀元」とした「皇紀(こうき)」という年号が戦前まで使われていました。
西暦2020年は皇紀2680年となり、日本という国は2680年の歴史があるということで、これは世界で一番長く続いている国ということです。
現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。
人の足を引っぱると、自分もまた同じ運命に見舞われる!
尾道 瀬戸田 地下の巡礼「耕三寺 千仏洞地獄峡」
五十代からは、肩に力を入れない生活が大事!
鎌倉 義経が頼朝に心情を訴える書状を書いた「満福寺」
開山は行基(668~749)と伝えられ、本尊は薬師如来です。源義経(1159~1189)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。
元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。
石段を上ると、「龍護山」という額が掲げられた山門があり、柱には「義経腰越状旧跡満福寺、と書かれた看板があります。山門をくぐると、正面に本堂、左横に盧婁があります。