福山 鞆 たくさんのお地蔵様が「正法寺」

 正法寺(しょうぼうじ)は広島県福山市鞆の浦にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。

成功者に共通する要素の一つ、「ストレスに強い」こと!

 同僚は、横並びでいるときは良いのですが、上下関係ができると関係が難しくなります。
 むかしは、子供時代から「ガキ大将」がいて、上下関係の中での対応方法を、上も下も学んでいました(男の子だけですが)。
 現在は、男性も女性も学ぶチャンスがないので、変なリーダーが増えてきたようです(会社だけでなく、市や県、官庁(警察や検察庁なども)もあるようです。ストレスに強い上司が増えてきたのでしょう。
 ガキ大将は、上は、下の安全を考え、守っていましたが!

鎌倉 頼朝の娘大姫の守本尊を安置する「岩舟地蔵」

 木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものでした。
 翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
 最愛の義高を失った大姫の嘆きは深く、こののち義高を偲びしばしば病床につくことが多く、二十歳ほどで亡くなりました。

トヨタ式改善では「機械に人間の知恵をつける」こと!

 随分むかしになりますが、トヨタの改善手法に取り組んだことがあります。今では通信技術が進化したので随分変わったことと思います。
 ただ大きな災害などで、現在の通信技術が使えなくなったとき、避難所への補給物質の補充をどのようにするか、使える方式があります。
 それは「カンバン方式」です。パレット1個に対しカードを1枚用意します。パレット内の品物を使い始めるごとに、カードを抜き、補充担当のクルマが来た時に運転手にカードを渡します。運転手は倉庫や工場に帰ると、カードの枚数だけ補給品の入ったパレットを積み込み、補給先に運ぶのです。
 カードの枚数は、避難所内の人数・運送にかかる時間などを考慮し枚数を計算します。
 この方式では、クルマが何とか通行できれば可能です。これからはドローンになるかもしれませんが!

尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ

 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。

 写真は 2013年~2014年の落石対策工事前です。
 鎖場が1番から3番あり、1番が一番長く、3番は“腕の力”だけで登る箇所もあります。
 ほぼ斜面を真っ直ぐ登りますので、かなり急斜面を登ることになります。
 各鎖場は、横に迂回もできますが、山道として整備されてはいません。

生命の維持に欠かせない酸素、本来は猛毒のガスだ!

 酸素はあらゆるものを酸化させて錆びつかせてしまう。人間でも、活性酸素が多いと老化が進む、と言われています。
 過度な運動は、体内で活性酸素をつくり過ぎ、を酸化(錆びた状態)させてしまうとか。
 最近外国でも緑茶が飲まれています。
 緑茶に含まれるカテキンとβカロチン、ビタミンC、ビタミンEは、お互いに助け合って活性酸素のはたらきを抑えてくれます。
 日本人は、緑茶を飲む人が減っているようです。アメリカの関税が高くなるので、日本人も緑茶をもっと飲みましょう!

座間 日蓮が立ち寄り休息をされた「圓教寺」

円教寺に伝わる話

 鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知の本間屋敷に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」(さんじゅうばんじん)をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。

東京の夏、地面40℃以上、アスファルト60℃にも!

 以前は、台風などの被害は西日本が多かったのですが、現在は東日本(関ヶ原より東)が多くなっているようです。
 太平洋という大きな海があり、水温は陸地より変動が少ないため、気候の変化は少ないと思っていましたが、現在の温暖化は、以前の考えでは追いつかないようですね!

鎌倉 八幡太郎義家が白旗を立てた「源氏山公園」

 英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。
 今は公園として整備され、上天気の日曜などは大賑わいの葛原岡、源氏山一帯も有史以前の一時期は狩猟・漁携を生活手段とする放浪性原始人たちが出没したらしく、縄文式土器や石斧や黒曜石の石鉱などが葛原岡神社の鳥居の傍から出土していることが鎌倉市史考古編に見えている。
 将棋の升田九段を思わせる髭面の男が怪しげな鹿皮服で丸木弓か梶棒か何か持って、この辺個していたらしい。陸地は今より低く、入江はすぐ足元の笹目や扇ケ谷まで入り込んでいたから、海の幸にも恵まれた、絶好の野営地だったわけである。

ひとり遊びを続ける体験が重なると、自発性が発達!

 本屋さんが少なくなりつつあります。
 知識教育中心の本も多いですが、童話や絵本、小説なども大事にしたいですね。
 このような本は、想像力を生み、感情移入も起こります。いわゆる五感を刺激します。
 体験と想像力が重なる経験が深いと、いろいろな場面での対応力が良くなるようです。
 五感からの刺激と、それに対する対応力が脳の発達に関係しているようです。
 知識教育は効率的ですが、自分で考える能力とは別のようです。AIもそうなのでしょうね!

尾道 お墓に算盤が刻んである「福善寺」

和算家善介の墓

 高名な和算家関孝和の十哲のひとりの墓がある。墓前の花立香炉石に算盤を大きく浮き彫りし「関流算術門弟中」と刻まれたている。
 墓石には「善兵衛の伜仙田善介」とあり、花立は明治二十一年にたてられたことから、その弟子である十哲のひとりから教えをうけた善兵衛もしくは善介が、この地で門弟をとり算盤塾を開いたのでしょう。商都として大きく発展した尾道にとって欠くことのできない人材だったのでしょう。

動物は、命がけでわが子を守るが、人間は?

 なぜ人間の世界にだけ、子どもの虐待が起きているのでしょうか?
 知的な進化のためなのでしょうか?
 最近人間は、五感(視・聴・嗅・味・触の五つの感覚)のうち、視(映像)・聴(言葉)に多く頼るようになっています。料理ですら自分の味覚ではなく、専門家の評価や料理本などにより、判断しているような状態になっています。
 知識重点の教育が長く続いてきたので、視・聴に頼ってしまうのでしょうね!

厚木 小野小町の生誕地か?「小野神社」

 現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺(ぶき)屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守(ちんじゅ)なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
 明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊(ぞく)の征伐(せいばつ)に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記(こじき)」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。

鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」

 最近のイスラムの行動を見ていると、なんとなく「ヒトラーがユダヤ人に対し異常な人種的偏見を抱いた」のが、分からないでもないような気がしてきました。
 ユダヤの格言『一度に海を作ろうと思ってはならない。まず小川からつくらねければならない』は、そうでないため格言になっているのだろうか、と思ってしまいます。
 一神教の国々は過激になりやすいようですね。多神教の国でも戦争の歴史はありますが、一神教の国よりは少ないのでしょうか!

鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」

 北条時頼の子(三男)宗政の死後、その夫人が1281年に建立した。開基は、夫人や一族のはからいで亡父宗政とその子師時(第十代執権)となっています。
 開山については複雑で、日本僧の南海宏海が招かれたが、大任だとして辞退、師である宋僧の大休正念を購じ、入仏供養を行い、亡くなっていた宋僧で高名の兀庵普寧(ごつあんふねい)を開山としました。
 1356年の火災で創建時の伽藍は消失、1386年には既に復興していたため、足利義満が定めた鎌倉五山のうち四位に入りました。
 また、関東大震災で諸堂は潰滅し、現在は山門や仏殿が点在しているだけになった。そのためか、深山幽谷の山寺といった風情があります。

尾道 加藤清正を祀る清正公堂がある「妙宣寺」

 後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。
 本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。
 本堂の後ろには加藤清正を祀る清正公堂があり、熊本の本妙寺のと同作の清正等身大の肖像が安置されている。
 豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した際には、尾道は拠点港になり、大勢の兵士や物資が集積しました。その縁で秀吉の重臣、加藤清正の等身大の木像が妙宣寺に祀られています。

「アフター5」より、「ビフォアー9」!

 昔の人は、日の出と共に起き、日が沈むと早めに寝ていたのでしょうね。それが、いつ頃から夜遅くまで起きているようになったのでしょうか?
 戦後の早い時期は、それほど電灯は普及しておらず、暗くなる前に家に帰り、早めに寝ていたように思います。
 テレビが普及し、インターネットが普及し、携帯をみんなが持つようになり、寝る時間を惜しむ人も出てきているようです。
 当然、いつかは健康問題に波及するのでしょうが、体調が悪くなると夜遅くまで、インターネットで調べるようになりつつありますね!

福山 鞆 福山藩との結びつきが強かった「明圓寺」

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
 鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。 「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。
 石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。

防ごうとしても防げないこと、それは「老い」とか「死」!

 「世間は意外に冷たいもの」という感覚は、都会では常識になっています。
 都会の豊かさがそうさせているのでそうか。
 確かに自己責任で生きていくようになれば、人に頼ることも、人に親切にすることも、それほど重要にはなってきません。
 しかし、人生100年時代、老後もそのスタイルで生活できますか?
 ところで、犬などのペットは言葉でのコミュニケーションができません(音としてのコミュニケーションはできますが)。言葉ではないコミュニケ-ションは、脳には良いようです!