尾道 昔も今も、海も街も近い「尾道駅」

 1891年(明治24年)11月3日 – 山陽鉄道が福山駅から延伸し、その暫定的な終着として開業。旅客・貨物の取扱を開始。
 1906年(明治39年)12月1日 – 山陽鉄道の国有化により国有鉄道の駅となる。
 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
 2019年3月10日 新しく建てられ変えられ改行した。駅のデザインは1937年ころの駅舎に似たデザインとなった。

《尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市》
 尾道三山と対岸の島に囲まれた尾道は、町の中心を通る「海の川」とも言うべき尾道水道の恵みによって、中世の開港以来,瀬戸内随一の良港として繁栄し,人・もの・財が集積した。
 その結果,尾道三山と尾道水道の問の限られた生活空間に多くの寺社や庭園,住宅が造られ、それらを結ぶ入り組んだ路地・坂道とともに中世から近代の趣を今に残す箱庭的都市が生み出された。迷路に迷い込んだかのような路地や、坂道を抜けた先に突如として広がる風景は,限られた空間ながら実に様々な顔を見せ、今も昔も多くの人を惹きつけてやまない。
(「日本遺産認定の認定結果」文化庁 より)

自分の人生は幸せなものだった?

 子供の成長には、「期待」が大きく影響するという。ただし、過剰な期待は厳禁。
 状況を、ありのまま、正確に把握し、その状況に応じた期待をすることが大事ですね。
 入試が終わった今、改めて、冷静に考えてみましょう。
 大人になっても、「ちょうど良い期待」がどんなものか、冷静に考えなくてはならないですね!

鎌倉 石仏「百観音」を安置 「円覚寺 大方丈」

 百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
 昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。

好奇心いっぱいでいましょう!

 年を重ねていっても、好奇心は持ち続けたいものです。知識の分野でも、その土地の成り立ちや、神社やお寺、お城などの歴史など、好奇心を持って調べれば飽きないものです。
 その場所を調べるには、その場所の位置だけを調べ、歴史などの情報は調べないで行きましょう。調べていくと、その情報に支配され、他のものを見逃してしまうこともあります。
 知らないまま、好奇心を高めて見尽くしましょう。後で調べて、見逃したところがあれば、もう一度、行ってみましょう!

福山 鞆 瀬戸内の要港にある古刹「小松寺」

有髪薬師地蔵尊の拝み方

   どこのどんな仏様でもお加護をうけるには一心に拝むことが大切です。
  1.必ずお加護があると信じて
  2.身の心も清浄に雑念を去って
  3.真前に立って合掌し地蔵真言
  「オン.カ.カ.カ.ビ.サン.マ.エ.ソワカ」
  と唱えながら三回薬壷を手でなぜて自分の躰の悪いところをなぜる。
  ボケ封じは頭の頂を抑える。
  4.毎日参詣するのが一番良いが週詣り・月詣りなど回数多くお参りし、
  5.受けたお加護は他の人にも施すこと。

マイナスの思いを抱えていると!

 マイナスの気持ちが続くと、マイナスの気持ちを増幅してしまいます。どこかで、吹っ切ることができる人はよいのですが、マイナスを引き摺ってしまうと、どんどん増幅しながら、つらい日々が続いてしまいます。
 でも、マイナスの気持ちを吹っ切れる人もいます。マイナスの事実に正面から向き合うと、かなりつらいのですが、どこかで吹っ切ることが出来ます。
 事実を事実として、きちんと向き合いましょう。事実に向き合うことが中途半端だと、つらい日々が続いてしまいます!

座間 家康と関係の深い寺「宗仲寺」

 宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
 家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。

大人だったら将来を見通して!

 「思い上がり」という言葉があります。これは自分ではなかなか気づけないですね。また、友人ですら注意することは難しいですね。やはり、本人が気づくしかないのでしょう。
 ただ、あまり慎重になりすぎても、自分が伸びる余地を失ってしまいます。バランスが大事なようです。
 「夢」をいうものをあまり意識せず、現状をありのまま洩れなく見ていれば、いつの間にか自分が伸びていることがあります。
 なにが良いのでしょうかね?

鎌倉 由比若宮、由比八幡宮ともいう「元鶴岡八幡宮」

 1063年、陸奥守に任じられていた源頼義(頼朝の5代前)は、陸奥の豪族阿部氏を討つため、勝利を源氏の氏神である山城(京都)の石清水八幡宮に祈願した。その戦いの勝利に感謝するため、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請した。それが鶴岡八幡宮(元鶴岡八幡宮)です。 その後、1081年、源義家(頼朝の4代前)修復した。
 源頼朝が鎌倉に入り、先祖を崇めるため、1180年、鶴岡八幡宮を小林郷松ヶ丘に遷した。それが現在の鶴岡八幡宮です。

「この前はどうも」という言い方!

 「ありがとう」と言うべきところ、「どうも」や「すみません」のように言ってしまいます。
 日本語は「曖昧さ」が特徴です。単に、単語としての意味だけでなく、その時の状況、過去の出来事、その土地の風土など考えて、言葉の意味をつかむ必要があります。
 日本で英語教育が拡大する中で、日本語の単語も単純な使い方になって行くのでしょうか?
 言葉が単純になると、思考も単純になっていくのでしょう。
 アメリカの大統領選挙のトランプ氏のように、単純な思考の方が支持者が増えやすいようで、日本の英語教育の拡大は、同じような現象が、将来起きてしまうのでしょうか?

尾道 千光寺山頂から千光寺へ「文学の小路」

 千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。

都会に行けば何とかなるだろう!

 人々は都会に集まります。都会に行けば何とかなる、と思って都会に来る人もいます。
 でも、人類が生まれ、進化してきたのは、大自然の中です。
 多くの人が都会に住むようになると、「世の中がどうあるべきか」を考えるとき、都会の論理で考えてしまうようになってしまいます。
 大自然の中で進化してきた人類が、その環境から離れ、都会の考え方で判断すると、どうなってしまうのでしょうか?
 昔の風土を残しながら、新しいものを取り込んで、融合させる日本文化は、大事にして行きたいですね。

愛川 八菅の七社権現とも呼ばれた「八菅神社」

 八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
 明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。
 かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
 八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
 また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
 しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。

良質なたんぱく質で心のバランスを!

 ビールのつまみには、枝豆が良いそうです。大豆は2000年前頃には大陸から日本に伝えられたそうです。枝豆はいつごろから食べられるようになったのかは、はっきりしていないようです。
 その枝豆がビールのつまみに普及したのは、ビールが庶民に広がった昭和30年代(1960年頃)のようです。
 当初は健康面よりも、価格面で普及したのですが、人々は本能的に健康に良いものを選んでいたのですね。
 枝豆には、アルコールの分解を助け、解毒作用もあり、ビールのつまみには最適ですね!

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 東漸寺(とうぜんじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。
 この寺の近くには妙典寺(みょうてんじ)、勧行寺(かんぎょうじ)、本成寺(ほんじょうじ)、本龍寺(ほんりゅうじ)があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

食べたくても食べられない!

 むかしは、ヨーロッパは食糧不足問題から戦争が当たり前になり、その風土がいまも続いているのでしょうか?
 我々から見ると、戦いに寛容のように見えます。
 またアフリカも、人類発祥の地でありながら、アフリカに残った人達も食糧事情が悪いのか、争いが絶えないですね。
 今は地球の人口が増加傾向にあり、ますます争いが増える傾向にあるのでしょうか?

尾道 信行寺から 天寧寺へ「幸神社跡」

【伝説 幸の前の尻つめり】

 天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
 むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
 塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。
 ある夜のこと、氏子の孫右衛門が寝ていると
「孫右衛門よ、孫右衛門よ」
と呼ぶ声がして白髪の老人が現れ、
「私は幸の前の塞之神である。いたんだ社の修理をたのむ。修理して祭りをしてくれれば、幸の前の氏子たちに末長く福をさずけるであろう」
と告げました。・・・・・・

不溶性食物繊維と水溶性食物繊維がある!

 人間は食物繊維を消化できません。しかし、健康には大切とされています。
 ちょっとむかしまでは、そんなことはあまり聞きませんでした。
 測定具などが発達し、証明ができるようになると、その部分が強調された情報が、大量に流れます。
 以前、日焼けについてもそうです。しかし、一定の時間は日に当たることも必要だと、最近は言われた始めています。
 やはり、生命体として、情報には注意をしながらも、自分の身体の状態には、自分で敏感になっておく方が良さそうですね!

鎌倉 昔、ここに律宗の多宝寺があった「妙傳寺」

 道路拡張によって東京都文京区白山にあったお寺を1974年2月に移転
 紀州徳川頼房の祈願所として創建、戦災によって本尊、寺宝、寺史などを消失している。
 ここにはかって室町時代まで、律宗の多宝寺があった。裏山には石の造形物があるが、道が整備されていないようです。
 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことです。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられます。

現在の情況をありのまま見ること!

 「事実をありのままに見る」、先入観を持って見ていませんか?
 最近は、いろいろな情報の入手が、簡単に行えるようになっています。しかも、情報を検索している人の傾向にそった情報が提供されるようになってきました。
 すると、自分の思考がどんどん狭くなってしまいます。そうなると、事実をありのままではなく、狭くなった自分の思考から見てしまいます。
 自分が重苦しい思考状態になってしまうと、その思考をどんどん強めて行ってしまいます。
 自分の思考から事実を見るのではなく。事実は事実として、洩れなくつかみたいものです。そして、その後に考えるようにしたいものです。まず、事実を把握すること!