ガキ大将がいない今、縦社会のマネジメントを学べるか!

 女性の経営者を増やしていこうという社会になっています。この背景には、子供時代に、男の子達が「ガキ大将」のもとで、「タテ社会」の基本を学ぶことが出来なくなったことも一因なのでしょう。
 子供時代、男女平等の生活スタイルのため、社会に出ても、当然に男女平等になります。
 ただ、心配なのは、ガキ大将は、下の子供達の能力を見て、下の子にあった遊び方を工夫していました。また、下の子達は、ガキ大将の配慮を学んでいました。
 そいゆう子供社会が、現在の「いじめ」といわれるものが、少なかった理由の一つかも知れません!

相模原南 縄文の住居を再現した「勝坂遺跡」

 遺跡は、大正15年(1926年)の夏、当時の新磯村字勝坂で「石器時代土器が甚だ多く出土する」畑地があり、そこから縄文土器が発見されたことに端を発している。
  発見された土器は、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取って)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされるようになった。
  また、同時に発見された多くの打製石斧(だせいせきふ)を、土を掘る道具と考えて縄文時代の農耕の存在も指摘された。

 縄文土器土は、こねて器の形にして焼き固め、食物の保存容器として、また、煮炊きの容器として使われました。土器は、最初の「工業製品」といえる。
 煮炊きすることで、肉などやわらかくうま味が出て消化しやすくなり、キノコや堅果・根茎などの渋みやあくが抜けたり、やわらかくなりました。
 もっとも重要なことは病原菌を殺菌できたことです。煮炊きすることで、病原菌を殺すことができました。

旧暦の10月10日(新暦では11月頃)の出雲大社の「神在祭」

 今までは、神さま・仏さまの「願い事」をしていましたが、これからの願い事は「生成AI」になってしまうのでしょうか?
 「神頼み」は、実現しなくても、「しょうがない、自分の責任だ!」で済ますことが出来ますが、生成AIでは、どのようになるのでしょうか?
 生成AIでも、自分の責任と考えることが出来るのでしょうか、異常な犯罪が増えている現在、心配ですね!

鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
 時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。
 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。

考えることを放棄して一人の人間に依存すると!

“ 日本は多神教の国ですが、明治時代になるとき、「廃仏稀釈」を実施し、天皇をただ一人の神とする一神教になると、戦争に突き進みました。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の国々では、一神教のためか、絶対権力を持つ独りのリーダーを選びがちです。
 その危険性は、いま特に激しいのですが、一神教の危険性を改革する必要性を考えているのでしょうか?
 危険性は感じているのでしょうが!”

尾道 石段に職人の思いが込められた「御袖天満宮」

 長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。
 上から二段目の1段のみわざと継いでいます。「完璧は災いの元」と思った石工の心遣いでしょうか。それとも、「完璧なものは神様しか造れない」ということでしょうか。
 5mもの1本石が54段(ただし、現在は一番上の段が割れてしまいました。)、それに、二本継ぎが1段(上から二段目)。
 大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)

“知”は、たくさんの言語知と、たくさんの暗黙知から!

 「暗黙知」という知識があります。体験から学んだものです。
 知識教育の記憶によってだけで、脳を働かせている人が主流になったのが、現代のリーダーたちなのでしょうか?
 政治を含めて、現代の異常な犯罪は、どこか知識主体の教育の結果のような気もします。
 田舎で、自然の中での経験は、組織のリーダーには向かないかも知れないですが、人間としての一生を考えると、こちらのほうが、幸せな一生になるのでしょう。
 人類800万年の歴史の主体は、「暗黙知」がメインですから!

厚木 多くの石仏が隠れる「金剛寺」

 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。 天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。

 多くの古い石仏があり、その状態も比較的良好(畑に埋まっていたため??)のため、洞窟などがあればそこに並べて展示するとすばらしいのですが、残念!

天は二物を与えずというのは誤解?

 「天は二物を与えない」というが、ある1つの分野しか努力しようとしないことが原因なのでしょうか。
 確かに、最近はスペシャリスト指向なので、「天は二物を与えない」ということになってしまいますね。
 しかし、他の分野の情報が受け入れ出来なくなると、脳の老化現象の始まりとも云われています。
 平均年齢が短かった時代は、「天は二物を与えない」で良かったのでしょうが、出来るだけ色々な分野の情報に触れ、多彩な考え方が出来るようにしたほうが、老化対策には良いようですね!

福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。
 正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられています。
 自分を見つめ直すことができる癒しのお寺として、「観心行」を行っています。観心行は、日蓮宗の修行ですけど、ここではオリジナルが行われています。
  特に宣伝はしていないようです。
 観心行は、文字通り「心を観る行」。日常の中で自分が行なった良いことや悪いことを思い出し、それらを見つめ直し、手放していく修行。ここでは10分程度のシンプルなものでになっています。

無断で相手の領域に立ち入らないほうがよい!

 日本では、「相手を尊重する」ことが大事とされてきました。しかし、クレーマーが増え、SNSでNET上での批判投稿が増え、相手を尊重する文化は厳しくなってきています。
 一部の人達でしかないのでしょうが、日本の文化が消えていくのは残念です。
 むかしは、生前の行いが、極楽へ行くか、地獄へ行くか、閻魔大王を筆頭とする十王の裁きで決まると、人々を抑制していました。
 閻魔大王も、今の時代に合わしていかないと、忘れてられてしまいますね!

鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」

 不動明王の信仰が広まるきっかけの一つは、平安時代初期の平将門の乱でした。
 朱雀(すじゃく)天皇は、平将門の乱を鎮めるために、寛朝大僧正に命じて、京都の高雄山神護寺(じんごじ)から不動明王像を借りて関東に持って行き、成田の地で日夜調伏の法を行った。
 乱が鎮まると、像を京都に連れて帰ろうとしたが、不動明王は動かなかった。
 やがて寛朝大僧正の夢枕に不動明王が現れ、自分はこの地に留まって関東の守護者になると告げたのが、不動明王信仰のキッカケの一つ、とのことです。

スタイリストなどの間で、「色を3つに絞れ」は鉄則!

 三色のボールペン、使っている人も多いようです。色分けは、国や文化によってちがうようです。虹の色も、日本では7於呂ですが、5食の国もあれば、三色の国もあります。
 日本の「青」は2色あります。ブルーとグリーンです。これは「海の色」を現しているのでしょうか? 瀬戸内の海は「グリーン」です。太平洋は「ブルー」ですね!

尾道 昔は入江で渡しがあった「磯の辨天神社」

 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 現在の神社はあまりにも小さもく、昔からこの狭さであったとは思えません。

 横のお店の裏側に名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

天神信仰は、江戸時代に寺子屋が隆盛してからのこと!

 江戸の寺子屋のなかの子供はまったくマイペース。
 さぼる子、暴れる子もいて、無法地帯であったが、体を動かしながら学ぶ子供の顔は生き生きしていたようです。
 江戸時代、女の先生が結構いました。大都市の寺子屋では〈女師匠の数が多かった〉ようです。実際、江戸における「女師匠の比率」は35.5%であったといいます。
 ちなみに現在、女性教員の比率は高校で28%、中学校で41%、小学校で63%(「学校基本調査」2004年度)。江戸の寺子屋のほうが、現代の高校よりも、女性教員が多かったようです。

厚木 創建当時は昼なお暗い地だった「宝泉寺」

 境内にフォークダンスの銅像があります。
 かつては「おしくら饅頭」や「馬とび」といった遊びで、子どものころからいろんな人と身体を接触させる遊びを頻繁にやることで、自然に身体感覚は研ぎ澄まされていた。身体が接触することにタフにもなった。
 身体ごとふれ合う関係では当然、身体知や暗黙知を共有していることが多く、それが「言葉にしなくてもお互いにわかり合える」関係をつくっていた。ところがいまは身体を接触させる遊びは極端に少なくなり、学校のフォークダンスでさえ、「気持ち悪い」と嫌がることが増えているという。

筋トレは「すばやく動くほうが筋肉が付く」、しかし!

 筋トレを簡単にする施設が、増えてきているようです。
 住んでいる地域によって、からだを動かす量が違うのでしょうが、なかなか具体的なデータに触れることは少ないですね。
 クルマを使う人と、そうでない人と、どれほど筋肉を使う量に違いがあるのでしょうか?
 また、クルマを使う人でも、マニュアル者とオートマ車との差は、どの程度の差があるのでしょうか?
 マニュアル者からオートマ車に変えたとき、長時間の運転では、眠くなるのはオートマ車でした。
 生活スタイルで、筋肉や脳になにかしらの影響があるのは確かですね!