能力主義の社会になりました。スキルがないと安定した収入が得られません。
すると、どうしてもスペシャリストを目指してしまいます。
専門性は高まるのですが、思考の幅は狭くなってしまいます。
学校教育で、「記憶力」中心で脳を育ててきたため、もともと思考能力はそれほど育っていないようです。
そのような社会では、専門性を重視するスペシャリスト優先になって行くようです。
ただ、年を取り、退職すると、思考範囲が狭い人達は、どのようになっていくのでしょうか?
10月 2024のアーカイブ
福山 鞆 最澄による創建「静観寺」
創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となっりました。
おせちは、神前に料理を供え、お下がりを食べたのが始まり!
おせち料理の予約時期になっています。一方で、忘れられていく年中行事もあります。
地域によって違いますが、お正月だけでも、三が日、七草がゆ、山の神、蔵開き、せいの神、えびすさまなどに、お供えしたり、お祈りしたり、いろいろな行事を行っていたようです。
お雑煮でも、地域によって、各家によって、それぞれの作り方がありますね。
それぞれに、意味づけし、その継続に腐心していたようです。
そのようなことが、日本の風土をつくり、それぞれの地域での暮らし方を工夫してきたのですね!
鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」
仏殿前から奥に進むと、高野槙(こうやまき)や沙羅双樹(さらそうじゅ)といわれている白雲木(はくうんぼく)などの樹木がおいしげり、墓地の脇を通って境内を一巡できるようになっています。また、境内の一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つの布袋尊(ほていそん)もまつられています。
鎌倉・江の島七福神とは、鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)の弁財天(べんざいてん)、浄智寺の布袋尊、妙隆寺(みょうりゅうじ)の寿老人(じゅろうじん)、本覚寺(ほんかくじ)の恵比寿(えびす)、宝戒寺(ほうかいじ)の毘沙門天(びしゃもんてん)、長谷寺(はせでら)の大黒天(だいこくてん)、御霊神社(ごりょうじじゃ)の福禄寿(ふくろくじ)と、弁財天は重なりますが、江島(えのしま)神社の弁財天です。
本当に歴史を動かしているのは、お金、経済なのだ!
歴史を見ると、貯蓄(米や麦などの穀物、そしてお金)できるものができると、戦いが始まっています。
いまでも、お金目当ての戦いは、社会では当たり前です。
人々の中で「このくらいでよい」という人は、まあ良いのですが、その「たが」が外れ人は、お金・権力・名誉を手に入れるため、良い悪いとは関係なく、なんでもやってしまいます。
また、その人達に協力する人・支援する人・従う人と、どんどん増えていくことになります。
また、社会的・歴史的に、評価されてしきます。
人類の生存にとって、プラスなのでしょうか?
尾道 千光寺山山頂に変わった展望台が!
2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
設計は、建築設計事務所「AS」です。
転んでもただで起きるな!
失敗は、誰でも当然あります。自分に原因がある場合もあり、まったく自分に責任がない場合もあります。
自然災害などの多くは、自分に責任がないものです。
それらの失敗を、「財産」にできる人と、そうでない人がいます。
放送されている中では、災害ボランティアは、災害の整理の手伝いがほとんどです。
なかなか難しいでしょうが、もっと違った視点でアイデアが出せると良いのですが、難しいですね!
厚木 信玄が出陣したとき兵火にあった「妻田薬師院」
薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良弁(ろうべん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。
邪心をもたぬこと!
「生きていること」は、「死を迎えること」です。この考え方から「地獄・極楽」の考え方が生まれ、生きいるときは、「極楽」を目指す生き方が生まれたのでしょうね。
地獄とか極楽とか、現代はそれほど意識しなくなったようですが、その意識が、充実した生き方につながっていたのでしょうね。
「充実した生き方」をささえる思想は、過激な宗教でしか残っていないのでしょうか?
厚木 小野小町の生誕地か?「小野神社」
この神社は、延長(えんちょう)五年(1194年)の「延喜式(えんぎしき)」巻九に「相模国式内社(しきないしゃ)の内愛甲郡(あいこうこおり)一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺(ぶき)屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守(ちんじゅ)なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊(ぞく)の征伐(せいばつ)に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記(こじき)」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
生まれた時には清浄無垢な存在ですね!
最近の異常犯罪、子供時代に、何を学んでいるのか、疑問を持ってしまいます。
これは、核家族も影響しているのでしょうか?
子供の安全のため、知らない大人とは接しないように指導されています。これは反面、「正しさ」を学ぶ機会を奪っていることにもなります。
学校へも、集団登校している地域が多いようです。これも学ぶ機会を奪っているのでしょうね。
社会の悪さが影響し、より安全な方法を選んでいるのでしょうが、やっかいな問題ですね。
ただ、子供が知らない大人にも「あいさつ」する地域も、少ないながらあります。この地域の子供達のほいが、学びは多いのでしょうね!
鎌倉 子育て観音の聖観音を祀る「来迎寺」
1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。
本尊には義明の守護仏とされる阿弥陀三尊立像のほか、子育て観音と親しまれる聖観音が祀られている。墓地の奥には義明の墓や、平家方の畠山軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔もある。
表情は伝染します。いつも笑顔で!
ここ何年かは、初めて行った土地で、挨拶されることがあります。
いつでも、あいさつを返せる準備をしていないと、と心掛けています。
それほど「笑顔」を心掛けてはいないのですが?
笑顔の人を見ると、なんとなく心が和みます。笑顔を心掛けていないといけないですね。
笑顔には、やはり体験で学んだ「暗黙知」があるのでしょうね!
尾道 天保大飢聾に本堂立替で人を救った「慈観寺」
1348年に慈観上人が開いた時宗寺院。1622年に栗原(尾道西部)の世計橋付近より現在地に移ったとされている。本尊は、阿弥陀如来で、宗派は時宗一遍上人、本山は神奈川県藤沢遊行寺である。
江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
(参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)
ガキ大将がいない今、縦社会のマネジメントを学べるか!
女性の経営者を増やしていこうという社会になっています。この背景には、子供時代に、男の子達が「ガキ大将」のもとで、「タテ社会」の基本を学ぶことが出来なくなったことも一因なのでしょう。
子供時代、男女平等の生活スタイルのため、社会に出ても、当然に男女平等になります。
ただ、心配なのは、ガキ大将は、下の子供達の能力を見て、下の子にあった遊び方を工夫していました。また、下の子達は、ガキ大将の配慮を学んでいました。
そいゆう子供社会が、現在の「いじめ」といわれるものが、少なかった理由の一つかも知れません!
相模原南 縄文の住居を再現した「勝坂遺跡」
遺跡は、大正15年(1926年)の夏、当時の新磯村字勝坂で「石器時代土器が甚だ多く出土する」畑地があり、そこから縄文土器が発見されたことに端を発している。
発見された土器は、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取って)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされるようになった。
また、同時に発見された多くの打製石斧(だせいせきふ)を、土を掘る道具と考えて縄文時代の農耕の存在も指摘された。
縄文土器土は、こねて器の形にして焼き固め、食物の保存容器として、また、煮炊きの容器として使われました。土器は、最初の「工業製品」といえる。
煮炊きすることで、肉などやわらかくうま味が出て消化しやすくなり、キノコや堅果・根茎などの渋みやあくが抜けたり、やわらかくなりました。
もっとも重要なことは病原菌を殺菌できたことです。煮炊きすることで、病原菌を殺すことができました。
旧暦の10月10日(新暦では11月頃)の出雲大社の「神在祭」
今までは、神さま・仏さまの「願い事」をしていましたが、これからの願い事は「生成AI」になってしまうのでしょうか?
「神頼み」は、実現しなくても、「しょうがない、自分の責任だ!」で済ますことが出来ますが、生成AIでは、どのようになるのでしょうか?
生成AIでも、自分の責任と考えることが出来るのでしょうか、異常な犯罪が増えている現在、心配ですね!
鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」
1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。
光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
考えることを放棄して一人の人間に依存すると!
“ 日本は多神教の国ですが、明治時代になるとき、「廃仏稀釈」を実施し、天皇をただ一人の神とする一神教になると、戦争に突き進みました。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の国々では、一神教のためか、絶対権力を持つ独りのリーダーを選びがちです。
その危険性は、いま特に激しいのですが、一神教の危険性を改革する必要性を考えているのでしょうか?
危険性は感じているのでしょうが!”
尾道 石段に職人の思いが込められた「御袖天満宮」
長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。
上から二段目の1段のみわざと継いでいます。「完璧は災いの元」と思った石工の心遣いでしょうか。それとも、「完璧なものは神様しか造れない」ということでしょうか。
5mもの1本石が54段(ただし、現在は一番上の段が割れてしまいました。)、それに、二本継ぎが1段(上から二段目)。
大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)