ロシアの楽しみは、現在ではなく未来にある!

 ロシアで「睡眠学習法」という実権が行われていたそうです。良いほうに解釈すれば、自分を肯定的にする、という実権なのですが………。
 録音テープに、自分を肯定する言葉を録音し、そのテープを睡眠の始めに流し洗脳する実権です。
 ロシアの風土を考えると、反政府的な人を生み出さないためでは、と思ってしまいます。
 ロシアは、帝国の段階から、反国家の人達をシベリア送りにしていました。また、『シベリア抑留記』(原田道之助の手記)から感じるロシアの風土からも、良いほうには受けとれません。
 そのような風土だからこそ「反戦争」や「未来に夢を持つ」といった内容の小説が書かれているのでは、と思ってしまいます!

尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」

 昔の船着場です。

 このあたりは大潮だと3mを越える干満のさがあります。人力で荷揚げするため、船と岸の段差を少なくするために階段状になっています。
 このような船着場があると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。
 秋の大潮近くに台風が来ると、このあたりの道路は、下水道を逆流した海水で覆われるそうです。

世界のどこにもそれなりの特殊性がある!

 国や地域には。それぞれに特性があります。しかし、情報化社会では、情報発信力の強い地域が、世間の常識としてとらえられます。
 すると、それぞれの地域の特性に、気がつかなかったり、無視されます。
 日本では、西日本と東日本では、地域の特性に関する気づきが違うようです。例えば、関西の大阪・京都・神戸・奈良など、それぞれの街の特性に違いがあると思っています。関東はどうでしょうか。東京・川崎・横浜・千葉・埼玉など、違いをどの程度意識していますか?
 外国を見る場合、日本の感覚で見ていると、思いがけない勘違いをしてしまうことが、あるのでしょうね。
 ロシアを見る場合はどうなのでしょうか? 日本の戦国時代のように、領土を拡大した者が英雄だった時代の感覚で、見た方が良いのでしょうか?

鎌倉 神仏分離で名を改めた「小動神社」

 小動神社は、明治以前は八王子宮と呼ばれていて、明治の神仏分離政策によって、「建御名方命」を奉ることになり、以来、地元の氏神として町民たちに親しまれている。境内の奥には展望台と、かたわらには海防のため、幕末に砲台が構えられた跡があり、腰越砲台として知られる。
 小動神社の例祭は、かつて江ノ島から小動神社まで神輿をかついだまま海の中を渡るというものであったとか。

質の高い質問で進化!

 情報化社会になり、生成AIというものが出てきて、自分で考えることが少なくなるのでは、と心配です。
 人間を、生物という視点から見ると、生存の確率が少なくなるのでは、と思ってしまいます。
 日本語は、ある程度の曖昧さを許容しているので、日常の会話でも、頭を使うことが比較的あります。
 生成AIが、質問のやり方で、いいかげんな回答をしている内はよいのですが、これが進化してくると、人間は考える機会がどんどん少なくなってしまいそうです。
 認知症の心配もあるのですが、それ以上の危険がなければ良いのですが!

福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」

 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
 坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こ鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。
 文政9年(1826年)に、鞆に寄港したオランダの医師のシーボルトも、植物観察のために医王寺を訪れており、この景観を楽しんだでしょう。

自分を楽しませることを大事にしましょう!

 やはり、現代は生活に余裕が出てきたためか、自分の苦しみに目が行ってしまいがちになるようです。
 脳が大人になるのが25歳だとすると、それまでは未発達の脳で、いろいろ考えていると思えば、結論を出すのは25歳を過ぎてからにしたほうが良いのでしょう。
 25歳までは、自分が正しいと考えて事でも、まだまだ変化する余地があるようです。
 ただ、25歳を過ぎても、大人脳でも考えが変化するので、他人の生(なま)の話をよく聞きながら、自分が楽しいと思う方向に変化していけると良いですね!

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 岩船地蔵堂(海蔵寺)の地蔵尊。奥に石造地蔵尊を安置している。頼朝・政子の娘・大姫の守本尊と伝えられています。
 分かれ道の角に海蔵寺が管理する岩船地蔵(いわふねじそう)があります。地蔵の床下には、さらに約130cmの船形の背をもっ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたといわれています。
 鎌倉時代は、地蔵信仰が開花したとも言われている。もともと奈良時代に中国から伝えられた自動信号だったが鎌倉にその信仰が伝わると名高い人が競って優れた地蔵を製作するようになり庶民に浸透していったのです。

堂々と相手の目を見て話す!

 「目を見て話す」時間の長さが、親密度に影響しているのでしょうか?
 それとも、話す内容に興味があるかどうかの度合いが、影響しているのでしょうか?
 経験上は、ただ一緒に居る時間が長い方が、多くの場合親密度が高いようです。一緒に暮らしている家族がそうですね。ただし、干渉しすぎないこと。
 目を見て話せる相手は、比較的接触の時間が少なくても、気楽にいることが出来るようです!

尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ

 浄土寺山の鎖場です。一番鎖、二番鎖、三番鎖と、山頂に向かって三ヶ所の鎖場があります。
 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
 真言宗の開祖空海は、「自分が学ぶ上代の俗典は、俗事のことばかりであり、人の一生が終わってしまえば何の役に立つものではない。
 この際、俗典の勉学はやめて、真実の教えの源を尋ねることに越したことはない」と、山岳修行者になられて、吉野の金峯山、四国は石鎚山、阿波国の大滝嶽、土佐国の室戸崎などで山岳修行に励まれました。
 室戸崎では、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星が身中に飛び込んで一体となるという神秘体験を得て、虚空蔵求聞持法を成就したという。

不幸は感染する!

 不幸(恵まれていないこと)は感染する。ただ、その基準をどこに置くかで、代わってきます。
 幸せ基準の高い人が、周りにたくさんいると、不幸ウイルスはどんどん広がります。
 首都直下で地震が起きると、基準が高い人が多いため、精神的な被害はすごく大きくなってしまうのでしょうか?

鎌倉 神の霊水が岩の間から湧き出ている「銭洗弁天」

 源頼朝(みなもとのよりとも)は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳(み)の年の1185年(文治元年)巳(み)の月の巳の日の夜中、夢にひとりの老人が現われ、
「お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者達はいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。」
と言って姿を消しました。

お地蔵さんのそばを通りすぎるときに!

 古くからの街では、お地蔵さんをお寺の入口や道端でよく見掛けます。
 六地蔵もお寺ではよく見掛けます。六地蔵は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六道を能化する有難い佛様として昔から信仰されています。
 また、多くの罪人たちが首を斬られた処刑場であった場所に、その供養のために、六体の地蔵が建てられたのが、六地蔵のはじまりであるとの伝えもあるようです。
 お地蔵様は、天国に対する地獄の存在が強く意識されはじめると、一般民衆にもそれが浸透し、人々は、
「死んで地獄に落ちたら、どうすればいいのだろう……」
「地獄での苦しみから救ってくれるものがあるのならば……」
 と、いう想いで、お地蔵さまに救いを求めるようになっていったとか。

厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。
 このお寺の裏山(華厳山)には四国八十八ヵ所を模した石仏群がある。この造立に当たり、江戸、武州各郡、駿州まで寄進を集め、また、近くに七沢石を産し、七沢、煤ヶ谷に多くの石工がいたためつくることができた。しかし、現在(1972年)では風雨、地震なのにより倒壊、損壊したものが多く、その順序もよく判らない。

ウイルスは単体で移動することができない!

 人の移動が増えてきました。すると、やはりウイルスも一緒に移動するのでしょうね。
 やはりマスクに頼るしかないのでしょう。
 昨年の終わりごろから鳥インフルエンザのニュースが流れています。こ鳥インフルエンザの菌は、もとはどこにいたのでしょうか? ニュースでは流れないですね。
 ベトナム、タイでは死者も出ているようですが、突然変異で人への伝染が常態化しなければ良いのですが。気を緩めないで行きたいですね!

尾道 日限(ひぎり)地蔵尊「大山寺」

 心願成就の日限(ひぎり)地蔵尊として日を限って日参し、一心にお願いすれば願い事がかなえられます。特に受験シーズンになると合格祈願のため大勢のお参りがあります。

 鎌倉にある安養院にも石造地蔵菩薩の像が安置されていて、「日限地蔵」の別名で信仰されている地蔵様があり、こちらでは「定めた日数内に願い事をかなえてくれる」とされています。

被災地の方々が極めて冷静で!

 地震災害が増えてきています。それも冬の季節に起きています。温暖化で地球の温度が上がると、冬場に起きるのでしょうか??
 日本においては、災害時は盗難などの犯罪はあまり起きなかったのですが、最近は少しずつ増えてきているようです。
 子供が育つ環境が影響しているのでしょうか。
 昔は、ガキ大将がいて、安全対策がされていない自然の中で遊ぶことが多く、ガキ大将が年下の子供達の安全を守っていました。
 下の子は、そのような行動を見て、いろいろと学んでいました。当事は4、5歳から12、15歳くらいまで一緒に遊ぶこともあり、体力差がかなりある中で、安全を守って遊ぶノウハウがあったようです。
 このような環境で育っていたので、災害で弱っている人達にも、いろいろな配慮が充分に出来ていたのでしょうね!

福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

★おっぱいがいっぱい

 階段を上りきると、観音堂に到着。外側の欄干へと顔を出してみると、瀬戸内の海が間近に眺められます。その際、ちょっとひやり、床板が傾いているのでご注意を!
 一方、観音堂の中を眺めると、そこには、壁一面に、奉納された“おっぱい絵馬”が飾られています。安産や子宝を願う女性たちの想いには、胸を打たれますね。

効果的なコミュニケーションが大きなカギ!

 いろいろな経験を、どのようにするか。近年は難しくなってきています。
 子供時代は、街中で暮らす人が増え、多彩な自然の中でいろいろな経験をすることが出来なくなってきています。
 また、社会に出てからも、専門指向が強くなってきており、同じ分野の仕事ばかりを経験することになっています。
 しかも、生成AIが普及すると、より経験が少なくなってしまいます。頭をそれほど使わなくなってきます。
 少ない頭の働きで、高収入を得ることを目標にすることになります。
 老後の認知症も、若年齢化するのでしょうか? そして、その拡大も心配ですね!

鎌倉  もとは鶴岡八幡宮寺だった「鶴岡八幡宮」

 源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。

 1191年3月4日、小町大路あたりで発生した火事で全焼、そこで頼朝は、一段高いところに本宮を、下に下宮の二段構えの境内を構築した。当たりのには鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心にしました。
 その後も、たびたび火災や地震、津波で被害を受けてきたが、そのたびに再建の努力がされてきました。