人前では、誰でも外向きの顔をつくる!

 社会の中で生きていくため、「仮面(自分の本音を言わない)」をつけて生きています。
 ただし、その程度は国によって大きく違います。これは歴史風土の影響もあるのですが、政治の体制と大きく関わっています。
 中国、ロシア、北朝鮮……などは、歴史風土とともに政治体制もホンネを出して生活するにはやっかいなようです。
 日本も太平洋戦争の時はホンネを出すことは出来ませんでした。
 戦争で1人で千人の力を発揮するように、「千人針」というものを戦争に行く男性に持たせました。しかし、その中に、お金の5銭と10銭をお守りとして、「5銭というのは死線を超える」、「10銭というのは苦線を超える」という、そういう意味で縫い付けていたんです。この時代ですから、「生きて帰ってこいよ」とは、言えなかったのです。
 近所の人に、「あれは非国民だ」と言われるから、内緒で、要するに「何しろ生きて帰ってきてよ」と、願いを込めて持たせたのです!

愛川 「私は半僧です」と答えた「勝楽寺 半僧坊」

 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。
 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。

これからは「分散力の時代」に!

 商業の国際化拡大の進展で、大きな国、いわゆる帝国というものの必要性が薄れてきました。むしろ、大きな国では、国内中心となり、また、政治中心となるため、経済の浮き沈みが激しくなるようです。
 商売のやりやすい国に商売の基点をもうけ、そこを起点にし、世界に向けて商売をするほうが、発展に大きく貢献する時代になってきたようです。
 帝国主義では、厖大な軍事費が必要になり、その資金を獲得する政治が行われ、また、古くなり不要になって武器を処分するため、どこかの国に戦争や内乱を起こさせ、古い武器を売りさばき、古い武器の処分費を節約するか、あるいは、武器商人に売りさばき、資金を獲得するか、しなくてはいけませんね!

鎌倉 八幡太郎義家が出陣時に白旗を立てた「源氏山公園」

 源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。
 白旗山または旗立山とよばれたこともあるようです。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあります。

「八幡太郎義家」
 九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。
 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。

八方に気をくばるは、さしたる効果はない!

 情報化社会は、「気配り」が重要になるのでしょうか。SNSなどでは、自己主張も簡単にできます。「気配りなどどうでも良い」ということも成り立ちます。偽名も使えますので、より気配りなど考えなくなってしまいます。
 そうであるからこそ、「気配り」が重要なのでしょう。これは、見る側が進化するしかないのでしょうか?

尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」

 1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。

 本堂前の羅漢堂には、江戸中期から明治期にかけて檀信徒から寄進された五百羅漢像があり、本堂西側には古の山門の礎石という巨石を残している。

インドやタイなど暑い国では「唐辛子」

 暑い日が続いています。疲れも溜まってきています。年齢とともに、からだの疲れに鈍感になるので、要注意ですね。
 暑い国では、食べ物で暑さを乗り切っているようです。エアコンで暑さを乗り切ると、来年はもっと暑くなるのでしょうか。電気を使うので炭酸ガスが増えるのですから。
 生物としては、からだを馴れさせるか、食べ物を工夫し乗り切るか、そのほうが生物として進化するのでしょうね!

鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」

 第十五世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。本尊:千手観音菩薩。
 円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。

 中国から日本へ渡来した無学祖元は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。
「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」と。
 現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めた。

赤ちゃんの「新生児微笑」

 笑顔、特に子供の笑顔は素敵ですね。この子供時代の笑顔を、大人になっても持ち続けたいものです。
 大人になるにつれ、自己主張が強くなり、自分の価値観でしか判断できなくなる人が多いのですが、その結果、トラブルあるいはストレスの中での暮らしになってしまいます。
 いつまでも子供時代の微笑みを持ち続けることができれば、穏やかな暮らしを続けていけるのでしょうね!

厚木 念仏を唱えれば極楽浄土へ「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。

気候の変わり目、一日中寝ていたっていいぐらい!

 夏の疲れが溜まってきています。
 この夏、あまりエアコンは使いませんでした。その代わり、朝・晩に風呂に入っていました。これが夏の気温に馴れることに貢献したのでしょうか? 疑問ですが。
 夜だけは、そろそろ涼しくなってきそうですが、そうなると、出来るだけ長く眠りましょう。ラジオを「聞きながら寝」でもいいです。とにかく、無理は避けましょう!

尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。

熱帯低気圧や台風では、雨の強さは規定していない!

 雨による災害が増えています。洪水とともに土砂崩れが起きています。洪水は平野で起きますが、土砂崩れは、大規模開発で住宅地を造った所にも起きます。
 山を削り、低いところを埋め、車を通すため、沢筋を埋めたりしています。
 一方で、雨が降らず、水不足が起きている所もあります。水道が断水すると、水を運ばなければならないのですが、断水時に停電が起きてしまうと、5・6階以上の人は大変です。おそらく他の地域に避難することになるのでしょうか!

鎌倉 もとは市役所の駐車場にあった「諏訪神社」

 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。

 諏訪神社は現在、商工会議所西側の御成トンネル右手前に移され、社殿も鳥居も再建されています。この神社は、誠訪盛澄(すわもりずみ)・盛重(もりしげ)の邸内の守護神としてまつられたものということです。
 現在諏訪神社がおかれている場所には、以前簡易裁判所がありましたが、現在は由比ガ浜に移されています。

どんな国もみな「国益」を守ろうとするもの!

 「領地(支配している土地)=国家」という考え方自体が、傲慢(思い上がって横柄なこと)を生む。
 その結果、国益を守り、増やそうとする。そして、タイミングを見計らって実行する。そうすると、英雄として、権力・財力・名誉を一手に手に入れる。死んだ後も、名誉は続く。
 地球の生物の歴史では、「弱いものが生き残る」という原則があるが、そんなものはどうでも良いと考えるのでしょう。
 ロシアの弱体化のタイミングを見ながら、資源を狙い、国益を増やそうとする国や地域も、きっと存在するのでしょうね!

福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」

 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。

日本人は水害が発生しやすいところに住でいる!

 日本は約半分の人が、洪水の氾濫区域に住んでいます。住宅の建築基準に、道路幅の制限があるため、どうしても平野での建築が増えてしまいます。その結果、氾濫危険区域に家を建てる結果になったのでしょう。
 古くからある神社(特に本殿)の多くは、地形的には安全なところに建ててあるようです。なによりも安全を優先したのでしょう。
 古くからある農家も、田んぼのところより、3mから5mほど高いところに家を建てているところがあります。多少の坂道を歩いて登るため。健康にも良いのでしょう。
 歴史的な智慧が、建築の基準に組み込まれると良いのですが!

鎌倉 昔、極楽寺の境内でした「熊野神社」

 もとは新宮社と名乗っていました、1269年(文永六年)忍性が熊野本宮から勧請したと伝えられ、鎌倉時代、極楽寺全盛時より熊野新宮と名付け、極楽寺の鎮守社として広く神域を領して鎌倉幕府の崇敬を受けていました。
 祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、素斐鳴命(すさのうのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)です。
 極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の二社があったのですが、関東大震災で倒壊したため、昭和三年に当社に合祀されました。

ほめるときはすぐほめる!

 ビックモーターの事件で、叱り方が問題になっています。子供時代に叱られた経験からなのでしょうか?
 叱るという場面は、(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて,強い態度で責める、ということですが、叱ったその先を考えて叱るのが理想なのでしょう。
 自分の子供時代の経験から叱るのか、塾考して叱るのか、その人の器が出ますね。
 叱ることを考えるより、ほめることを考えた方が、気持ちは楽なのですが、難しいですね!

尾道 瀬戸田 現代に生きる「耕三寺」

 このお寺さんは、見慣れたお寺さんとはかなり印象が違います。日本に仏教の布教を始めた当時の様子を、想像できると思います。仏教を普及するにあたっては、ディズニーランドのような手法が必要だったのでしょう。当時の庶民の住居は掘っ立て小屋のようなもので、今と比べれば、圧倒的に貧しい生活でした。そこに、このお寺さんのような夢の国をつくり、人々を引きつけ、仏教を普及拡大し、なおかつ、人々を精神面で救おうと考えれば、このような派手さは当然だったと思います。