ほんのひとにぎりの人ですが、「自分だけが正しい」と思い込んでいる人がいます。これは、おそらく動物の中で、ヒト属だけの特徴なのでしょう。というより、4~5千年以降の人類からなのでしょうか。
これは農業が広く普及しはじめたことと関係があるのでしょうか?
みんなで分け与え生き延びる作戦から、農業が広まり、生き延びることが比較的可能になった結果、より豊かな生活を望む機能が発達した人が出てきて、その結果、芸術家も出てきたのでしょうが、独裁者も出てきたのでしょうね!
2023年のアーカイブ
鎌倉 花散歩、心おだやかに「長谷寺」
寺の花だよりには、
春の桜・藤・躑躅(つつじ)・牡丹・山吹・海棠(かいどう)。
夏の紫陽花(あじさい)・花菖蒲・百日紅(さるすべり)・凌霄花(のうぜんかずら)・木槿(むくげ)。
秋の萩・桔梗・彼岸花・石蕗(つわぶき)・秋明菊・紅葉。
冬の臘梅(ろうばい)・水仙・万作・椿・木瓜(ぼけ)・福寿草・梅。
など、数々列記されています。
話すことは書くよりも難しい技術!
話す技術は、書く技術より、はるかに難しい、と言われる。書く技術は、自分が一方的に構成し、自分流の話の盛り上げをすれば、それで済む。
しかし、話す場合は、必ず相手がおり、相手は何かしらの反応を、その都度行う。その反応に対応しながら、話を構成しなくてはならない。そのため難しい。
ネットの普及は、この話すことの難しさから逃れることが出来る。ネットへの掲載は、自分流で一方的に書き、掲載すれば済む。このページもそうですが、そのため続けていけるのでしょうね!
厚木 二十七番札所だった「聖眼寺」
聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。
相手のことをよく観察し「ほめる」!
最近ネットの普及で、人を直接観察し、人同士が直接コミュニケーションをとる経験が少なくなりつつあるようです。
ネットでつながっていることと、直接人同士がつながっていることが、同じと思っている人もいるようです。
人同士が直接つながりをもつ場合は、相手を「良い」「悪い」で評価せず、「ああ、そうなのか」で止め、評価をしないことが大事だと思います。
学校教育で、「良い」「悪い」の評価の延長で大人になっているためか、何でも評価してしまうようです。
しかし、事実は、ありのまま「そうなんだ」で止め、点数づけはしたくないですね。料理もそうですが!
尾道 天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」
あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。(「郷土の石ぶみ」より)
何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。
さまざまな電化製品生活を便利にはしたが!
1960年代以降、家庭用に様々な電化製品が普及しました。便利になり、時間にも余裕ができるようになりました。
最近は、様々なメニュー化、あるいは自動化で、人が考えてすることが、どんどん少なくなっています。
料理にたとえると、人間はただ食べるだけ、といっても良いほどです。
その結果、考えることが減り、手を使わなくなり、味わいも、ただこの味か、というだけになりました。
もちろん、機械に助けられているため、人同士の協力も少なくなりました。
ということは、先進国ほど、ヒトの進化が止まっている、あるいは、退化が始まっているのでしょうか?
鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」
元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。
意志をあまりにも強調する人!
むかしは、自然や周りをを観察し解決策と考えました。それでも解決できない困難に出会うと、しかたなく神仏に頼っていました。
現在は、言葉でネット検索し、あるいは「ChatGPT」に質問したりします。その結果、「観察し、考える」ことが激減してしまいそうです。
人類の生き残りのための進化は、周囲を観察し、考えることが出来るように進化することで、生き残ってきました。
考えることが不要なほど便利になることは、人類の生き残るという視点から見ると、どのような結果に導くのでしょうか?
福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」
対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に造られた福禅寺の客殿。
座敷から一望できる仙酔島や弁天島が浮かぶ鞆の浦の眺めは素晴らしく、江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場となっていました。
正徳元年(1711)、朝鮮通信使の李邦彦がここを訪問した際、対潮楼から見た景色を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛しました。
幕末に坂本絵龍馬の海援隊が運用する「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(880トン)が衝突する日本初の蒸気船海難事故「いろは丸事件」の際、坂本龍馬(武器商人か?)ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行なった場所にもなっています(本来は「いろは丸」側に非があったものの、坂本龍馬は紀州藩側の、本来積んではいないと思われる積載物の損害賠償を求めています)。
カフェインは毒性物質の一種、注意も!
国内では日本茶の需要が少し減っているようです。ましたて急須でお茶を入れることはかなり減ってきているようです。
急須で入れると、お茶の種類やお湯の温度の違いで、お茶の味が微妙に変化するのですが、ペットボトルのお茶になれてしまうと、急須で入れるのが面倒になります。
微妙な味の変化は感じる力、それを歳をとっても維持していくことは、きっと感覚の維持につなかり、老化予防に良いのだと思うのですが、ついつい、楽な方向に行ってしまいますね!
厚木 高遠藩の石工達が出稼ぎで石仏を「広沢寺」
清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままでした。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
高遠は長野県伊那市の高遠町のことで、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励したのであった。
自分の持っていない幸せだけが「幸せ?」
「もっと○○だったら……」と思うことが、日常的になってしまうと、不満が蓄積してしまいます。
毎日、「おかげさまで」で過ごしていると、毎日が楽に過ごせることでしょう。
幼少の時期から、何となく人と比べられ、少しでも人より上にあることを求め続けられ、それが出来ないと、不満になるように躾けられていると、なかなか楽に生きる技術は身につかないことでしょうね。
ネット社会で情報があふれてくると、どんどん人と比べるようになってしまいますね!
鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」
鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
相手のことばかりに気持が向き過ぎてしまう!
子供の時に「自分」というものを、どのように造っていくか。知識教育だけでは、「自分」というものを造ることは出来ないのでしょう。
自然を五感で感じ、自分でどのようにその環境(自然)に対応するか、考える経験を積み重ねることが大切なようです。
ただ、現在は子どもの事故を防ぐため、安全対策がされているため、本当の思考力は身につかないのでしょうが。そうかといって、危険な環境を放置することもできないので、難しいですね!
2022年3月新しい展望台が「千光寺山 山頂」
2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
設計は、建築設計事務所「AS」です。
叱った後は、叱り終わった合図を!
「叱る」とき、「叱り終わり」を考えてから叱っていますか?
叱る目的は、叱る相手に何かしらの改善を要求し、そして、結果を出してほしいから叱っています。
叱った結果は、どの程度改善が実現していますか?
よく見かけるのは、叱る側のストレス解消のため叱っている、と感じてしまうことがあります。これでは、叱られた側もストレスが残り、双方とも何のメリットも生まれてきません。
何かしらの改善が生まれる叱り方を、充分考えてから、叱りたいですね!
福山 鞆の大仏とも、阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」
木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏) 光背までの高さ約4m 。元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったといいます。
「お釈迦になる」という言葉があります。なぜお釈迦になったらいけないのか。これは、仏師の人が阿弥陀さんや観音さんなど、他の仏さんの注文を受けてこしらえたはずなのに、お釈迦さんができてしまった。これでは商売にならない。だから「お釈迦になった」といわれるようになったとか。
究極に到り着きそこに住(とど)まる重い病気!
最近は、スペシャリストを目指す人が多い感じがします。しかし、専門知識のそばに、雑学を置いといてほしいです。
専門知識一辺倒になると、思考の幅が狭くなっていきます。曖昧さが許せなくなります。
日本の平和な時代は、「曖昧を許容する」ときです。思考の狭さは、社会から見ると、危険視されることもあります。
その状態で年齢を重ねていくと、いっそう執着心が強いまま、思考が狭いまま、過ごすことになります。仕事をしているときは、まだ良いのですが、リタイヤすると、大きな弊害になることもあります!
鎌倉 明治維新、南朝の復活か「日野俊基朝臣の墓」
俊基の墓は国指定の史跡となっており、1887年(明治20年)に俊基の霊を祀る葛原岡神社が建てられています。
日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
南朝の忠臣としてその功ならず、元弘二年(1332)悲憤の最後を偲んで、別格官幣社に昇格ずる運動があったが、実現しなかった。戦後単立法人となった。
現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。