健全な〈からだ〉とは!

 年齢を重ねると、やはり健康が一番。しかし、健康というものは、子供時代からの積み重ね。多くの人は、若い時代には気がつきませんよね。
 しかし、寝込んでいなくても、ときどき、からだのどこかに不調を感じている人は、少なからずおられるのでしょう。
 一時的であれ、不調を感じたとき、健康的な生活について、深く考え、健康的な生活を継続実践できる人は、歳を取っても健康を手に入れる可能性が高いのでしょう!

福山 鞆 福山藩との結びつきが強かった「明圓寺」

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
 浄土真宗の開祖、親鸞の人間洞察は、「どんな人聞にも、どこかに人殺しの血が流れている」というもの。
 人を殺すことはいけないと戒めていても、何かの契機で人殺しに走ることもあると、人間の奥深くにある「悪」を洞察しています。そして、そのような悪人が阿弥陀さんのおかげで救われるのだから、これはたいへんありがたい、と。

役割を誇示すること!

 オイルショックの頃、トヨタの「小集団活動」が製造業に広がりました。この活動は、「現状をありのまま」に把握する。それも出来るだけ数値化する(数値化で、より先入観を排除する)。しかも、現状把握に活動時間の9割以上を費やす。
 そして、改善策を検討するときは、役職に関係なく、どんな意見もリストアップする。他人の意見に分乗してのアイディア出しもOK。
 改善案が出た後は、それぞれの案を比較評価し、全員で個別の案を比較し採点する。その中から上位の2~3の案の具体化を検討しテストする、といった手法でした。
 それが製造業に普及し、高度成長の源になっていったのでしょう!
 

鎌倉 八幡太郎義家が白旗を立てた「源氏山公園」

 源氏山は、英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。

南蛮貿易でもたらされた多くの武器!

 武器輸出の背景をもっと意識する必要があるようです。少しでも危険が予想される国々では、最新の武器をそろえたいもの。
 そこで問題になるのが、古くなってしまった武器です。その処分は、お金だけでなく、危険も伴います。そこで手っ取り早く処分するには、戦争をやっている国に輸出することです。または、戦争を起こすことです。
 すると、高額な武器輸出代金か、低コストの処分費で済みます。
 昔は宣教師も武器商人でした。いまでも良いことをしているふりをして、古い武器を輸出、あるいは、武器援助している商人がいることでしょう!

尾道 生口島 1936年から建立が始まった「耕三寺」

 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
 お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
 仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
 そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。

聞き上手だからこそ耳寄りな情報が入る!

 ネット社会になり、情報発信力が注目されます。しかし「聞く力」にもっと注目したいですね。そのためには、多様な知識を持ち、しかも相手の立場で考える力が必要です。
 自分が情報を発信しているだけでは、多様な情報を、自分のものにする力はつきません。思い込みを助長していくだけです!

鎌倉 祖先をまつる神社「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

教育は学校だけでやるもの?

 教育は学校教育だけでは、片寄ってしまいます。そのためか一方的な考え方になり、いじめや異常な犯罪が起きている一因になっているのでしょうか?
 むかし、小学校の家庭科で「新鮮な魚の見分け方」を教わりました。私の体験と大きく異なっていました。私の体験では、「魚にさわって動くかどうか」、「タコやイカは吸盤が吸い付くかどうか」でした。
 知識というものは、「ある場面での正解」です。そのためには、現状を洩れなく観察した上で、どの知識を適用したら良いのか、あるいは、もっと調べなければ、ということになるのでしょう。
 固定観念を植えつけてしまう教育は、ほんとうの教育なのでしょうか?

尾道 駅を降りすぐ海が「尾道駅前海岸」

 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
 現在は、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。
 以前は駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。
 そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業する。
 「巷に来れば憩いあり人闘みな吾を慰さめて煩悩滅除を歌ふなり」林芙美子

言い分があると聞く力が弱くなる!

 自分に言い分があると、人の話が耳に入らなくなります。また、自分が興味を持っている話しは、その部分のみが頭に入ってきます。
 ということは、幅広い知識や情報を持つことが、いかに難しいかを物語っています。
 自分が一貫性を持ってしまうと、他の知識や情報を受け入れることができなくなり、それが極端になってしまうと、プーチンさんのようになってしまうかも知れませんね。
 やはり「いいかげん」、「曖昧」のほうが、多様な知識を受け入れやすいのでしょうね!

厚木 古くは牛頭天王社といった「厚木神社」

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょ)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
 正徳年中に、祭礼中誤って御神体を水中に落してしまいましたが、翌年、厚木村下町の告原伊兵衛の夢により神体のある所が分かり、祭礼前の5月相模川から探した神体を同家の庭に祭り6月の大祭に移し、盛大に祭が行われたといいます。

“ひと言多い”は命とり!

 自分を認めて貰いたいという思いが叶っていないと、「一言多い」ことになりやすいようです。世間は「そんなもんだ」と築けば、人の評価などはそれほど気にならなくなるのですが。
 また、他人の良さに目が行くようになると、一言が「ほめ言葉」になるのですが。
 しかし、どうしても他人の悪いところに目がいってしまいますね!

鎌倉 中興開基は足利尊氏の父・貞氏「浄妙寺」

 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。
 文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利尊氏の父・貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。

プラス思考で生きようといわれても!

 社会・世間に対して「前向きに生きる」こと。日本では、「世間」と「社会」はほぼ同様の意味ですが、「世間=一族」という国もあるようです。
 前向きに生きるには、笑顔を周りの人たちに見せることで、周りの人たちの力(世間の力)を借りて、自分を前向きにし、その結果として、世間に何かしらの貢献をすることになります。
 それがまた、自分に力を与えてくれます。笑顔は大事ですね!

尾道 生口島 日本画家・平山郁夫氏も遊んだ「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
 国宝の三重の塔は、1階の軒は2軒本繁垂木の扇垂木。つまり二重になっている繁垂木で、垂木が平行ではなく隅の部分で45度になるよう、扇が開いたようになっている。
 組み物は唐様の柱上の組み物が3段に積み上げている構造。和洋に唐様が取り入れられて形式で、各層に花頭窓があるほか、建物の装飾が見事。
 三重塔の周囲が日本画家・平山郁夫氏の幼少時代の遊び場だったとのこと。また、よくスケッチしたお寺でもあります。

財産より大切なものがある、理解出来るか!

 世間では「財産より大事なものがある」という意識は、少しはあるものの、現実としては、お金に頼ることが必要ですね。自給自足ができている人は、お金にそれほど頼らないのでしょうね。
 テレビ番組の「ポツンと一軒家」を見ていると、純粋に生活を楽しんでいるような印象を受けます。江戸時代のように、村人達が、協力し合い、余裕をつくり、その時間を楽しむ、といった生活は、人間にとって、平和で先進的な生活スタイルだったのでしょうね!

厚木 荻野山中藩陣屋跡に「山中稲荷神社」

 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、元禄11年(1698)、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。宝永3年(1706)駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に享保3年(1718)には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。
 天明3年(1783)頃、5代教翅(のりのぶ)は、陣屋をこの地に移し、以後、荻野山中藩と呼ばれるようになりました。

学校の宿題が気になって!

 夏休みの宿題は大変でしたね。いつも夏休み終わりの1週間くらい前から、残っていた半分くらいの宿題に取り組んでいました。全部は出来ませんでしたが、何も言われませんでした。
 長井休みには、やはり自分の好きなことをやっていたいですね。出来れば、広い意味で自然と関係するものを。
 好奇心を持つということは、現状をキチンと観察する力がつきます。その力は、生きていくためには、とても大切な能力だと思いますよ!

鎌倉 もとは瑠璃光寺ともいった「寶善院」

 もとは泰澄山(たいちょうざん)瑠璃光寺(るりこうじ)ともいったと伝えられています。奈良時代の天平神護(てんぴょうじんご)年間(765年~767年)に越後の国の僧で越(こし)の大徳(だいとく)といわれた泰澄(だいちょう)が、日ごろ信仰していた十一面観音をこの土地にまつったのが寺の起こりだと伝えられていますがはっきりしていません。泰澄は、加賀(今の石川県)の白山を開いたといわれる人です。越というのは、越前・越中・越後の三国をまとめた呼び名で、今の福井・富山・新潟の三県のことです。また大徳(だいとく)というのは、並ぶ者のないほど徳の高い僧であるということです。