「だれが下手だと言いました?」

 「自分は○○だ」と思い込んでいませんか? その多くは、自分だけの思い込みで、なおかつ、自分の一人で思っていることが多いようです。
 むかしと違って、「多様さが求められない」、あるいは、「1つのだけ答え」を求めるようになっているようです。
 もっと、多様性を受け入れ、曖昧さを認める社会になれば、精神的にはもっと楽に暮らせるのに、と思ってしまいます。
 日本は、むかしから、神も仏も両立してきた社会です。答えというものは、1つではありませんでしたね!

福山 鞆 福島正則が埋め立て陸続きに「圓福寺」

 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。
 いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。

人はことばで傷つく、なかなか治りにくい!

 言葉の暴力、パワハラが社会問題になっています。現在は組織の問題として取り上げられていますが、家庭内でも取り上げられるのでしょうか。現在は家庭内での暴力が主体のようですが。
 むかしは大家族であり、近所に親戚も多く、たとえ親戚でなくとも近所と気合いは盛んでした。これが、監視の機能を果たしていたのです。しかし、この面倒さを嫌って核家族に移行してしまいました。
 結果としてパワハラが増えたのでしょうかね!

尾道 岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

呼吸は鼻を交互に孔を使ってしているのです!

 嗅覚は劣化しているのでしょうか?
 むかしは冷蔵庫などなく、食べられるかどうか、ニオイで判断していました。今は食品に貼ってあるシールの有効期限を見て判断しています。そのためか、ニオイに対する感覚が鈍くなってきているようです。
 そうゆう意味では、生物としての進化も、止まるか、劣化しているのでしょうね。
 そう言えば、昨今の熱中症の多発も、エアコンの普及で、汗をかいて体温を提げる機能が劣化したことが原因の一つなのでしょうか!

鎌倉 四季の花が楽しめる「長谷寺」

 鎌倉時代以前からある古寺。736年の創建、開山は徳道(奈良長谷寺の開祖でもある)。坂東33ヵ所観音霊場の四番札所であり、本尊の十一面観音は高さ9.18mある。
 寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。
 その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。
 むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。

アメとムチの使い分けに工夫を!

 上司が部下を使うとき、どのようにすべきか意識していますか?
 パワーハラスメントのニュースがよく流れます。上司の方も気を使う時代です。どの程度が良いのか、難しいですね。
 日本の教育は、答えが一つしかない教育を受けています。そのため、一つの言葉に、いろいろな意味が含まれていることをあまり考えません。ある意味、単純な解釈しかしないこともあります。
 愛情が隠されているきびしい言葉は、表面のきびしさだけで受け取ってしまうこともあります。難しいですね!

相模原市南西 庚申信仰の本尊を祀る「勝源寺」

 勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。
 青面金剛は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。

ウイルスとともに生きる、という戦略!

 新コロナウイルスも、そろそろ人間との共生を見つけつつあるのでしょうか?
 新コロナウイルスが存在しないことに越したことはないのですが、当面は新コロナウイルスと人間の共存が、できるレベルになってほしいですね。
 そう言えば、多くの動物は、メスがオスを選んでいます。その理由は、やはり動物としての生き残り作戦ですね。オスの免疫力を、外見や力の強さ、そしてニオイなどで選別しているのですね!

厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」

【石になったサト芋】
 今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。………

遊牧民の社会では少数の指導者がリード!

 遊牧民社会では、少数の指導者が集団をリードする社会という。
 日本では、そんな傾向は感じられないのですが、平安時代までは貴族とインテリが政治を行っていたようですから、日本もむかしは、少数の指導者がリードする社会だったのかも知れないですね。
 平安時代の終わり頃に、法然が庶民を対象に念仏宗教をはじめ、いろいろな宗派が生まれ、庶民が集団としての力を持ち始めました。
 その結果、徴税がうまくゆかなくなり、貴族達が武士に徴税を委託し、武士が力を持ち始め、武家社会が始まったのですが、庶民は集団の力に目覚めたまま、現代まで続いているのでしょう。
 遊牧民社会では、庶民がなかなか集団の力を育てることなく、現代まで来たのでしょうか?

鎌倉 龍口寺輪番でもっとも早く建てられた「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 本龍寺は龍口寺輪番八ヵ寺のうち、もっとも早い時期に建てられた寺である。1302年(乾元元年)日行によって開かれた。創建時には与蓮山(よれんざん)という山号であったが、輪番寺になり龍口山とあらためられた。

日本に稲作が伝来する以前はサトイモ重要な食料!

 日本では、稲作が始まる前まではクリ、クルミ、サトイモなどがデンプン源でした。米に比べれば、保存期間や収穫量にかなり差があります。
 そのためか、食べられるうちに、分け与える習慣が出来たのでしょうか?
 米や麦のように、収穫量が多く、長く貯えることができるようになると、人々は争うようになり、それも集団で争うようになったのですね。
 食べ物を分け与える習慣があると、少しは争いか少なくなるのでしょうね!

尾道 瑠璃山という別名を持つ「浄土寺山山頂」

 尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
 特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。

人間のもつ「108の煩悩」とは!

 日本では、宗教についてもある意味「曖昧」が許容されています。多くの人は、あるときは神社へ、あるときはお寺に行きます。観光の時は、神社も、お寺も見て回ります。
 この曖昧さが、思い込みの思想にとらわれることなく、たとえば、太平洋戦争後の世の中の変化が出来たのでしょう。
 大乗仏教は、僧侶にならなくても涅槃の世界に行くことが出来ます。僧侶にならなくても良いのです。これも小乗仏教から見れば「曖昧」と見えることでしょう。
 平安末期から始まった、お経を唱えれば極楽に行ける、という方法で、庶民の結団力が生まれ、それから庶民の力を評価する政治体制も、徐々に発達してきました。
 一神教のように、宗教で人民を支配するのではなく、庶民を見据えながら政治を行う状況が、発展したり、衰退したりしながら、進歩してきたのでしょう!

鎌倉 足利尊氏が後醍醐天皇への挙兵決意「浄光明寺」

 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

苦痛と喜びとを自分の味方につけるか!

 能力には、お金につながるものと、そうでないものがあります。また、その時の社会の状態によっても、違っていきます。
 そうであるならば、その時の社会の状態によって、周りに合わせて行かざるをえません。
 いま、社会が変化しているとき、むかしの成功体験や思い込みにとらわれていると、なかなか良い人生にはなっていかない可能性が高くなっているのでしょう。
 周りの状況をよく観察し、ひととのつながりを大切にし、ものの考え方を素直して暮らしていくことなのでしょうか!

福山 鞆 ふわりとした空気が流れる「慈徳院」

 慈徳院の山門は、寺伝によると昭和17年ごろに再建されたものだといいます。この山門は薬医門の形式をとっており、屋根には立派な鬼瓦が見られます。
 その山門をくぐると、ふわりとした空気が流れる静かなお庭が迎えてくれます。四季折々で表情を変えるお寺さんのお庭―、鞆っこにとっての癒しの空間です。

一度悪い先入観をもつと!

 一度先入観を持つと、すべてその先入観を前提にものを考えてしまう。現代のように、色々な地域の人達や、多彩な情報が溢れる世の中、思い込みは弊害を生みやすい。
 やはり、現状を洩れなく把握し、事実だけに基づいて、考える方法を身につける必要がある時代になっているのでしょう。
 記憶に頼ることは、思い込みに頼ることにもなってしまいます。いつもピュアな心で、物事に接するように努力しないといけないのでしょう。難しいことですが!

厚木 長野高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」

 清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があった。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
 高遠は長野県伊那市の高遠町で、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
 高遠の地は田畑が少なかったので、農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかく、高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励した。その背景があり、また職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったようです。