欧米には「バイオリズム」や「十三日の金曜日」というものがあります。 日本にも「七五三」や「七夕」、そして「石の上にも三年」「三度目の正直」「早起きは三文の得」」など数字に関係した行事や言葉がたくさんありますね。そのような区切りがあると気持ちの整理がつき、スッキリするという効果があるのでしょう。「区切り…物事の切れ目」は、自分一人では切り替えられない気持ちを、世間の力をかりて、切り替える方法として生まれてきたのでしょう。 このような、ある意味「曖昧なしくみ」の多くを取り入れてきたのが日本の風土です。日本では、この「曖昧さ」が許容されている時代は平和な時代でしたね。現在の新コロナのときですら、日本は、ある意味政策は曖昧ですが、ほとんどの人は、守るべきことは守っています。強権政策による反発と、曖昧政策の遵守度と、どちらが効果的なのか、答えは結果でしかわからないのでしょうね! |
2021年のアーカイブ
尾道 「かたい門は持光寺」童歌に唄われた「持光寺」
持光寺の石の門(延命門) 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高さ2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。 |
自然に起きる山火事は樹木の世代交代を可能に!
気候変動のためか、大きな山火事が外国で起きています。人間が手を加えたほうがよいのか、自然に任せたほうがよいのか、迷いますね。 山里での生活が引き継がれているところでも、生活スタイルは70年くらい前とは異なっており、迷ってしまうことでしょう。 焚き木や落ち葉か燃料として使われなくなり、うっそうとした山々が増えているので、山の植生も変わってしまいました。むかしから引き継がれてきた智慧も、そのまま適応できるのか、慎重にならざるを得ないですね! |
鎌倉 新田義貞が本陣を構えたところ「九品寺」
開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。 北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。 |
記憶力アップのテクニック!
脳は、基本的には「楽をしたい」性質があるのでしょうか? 頭脳を駆使している専門家ですら、自分の思い込みから、なかなか抜け出しにくいようです。 例えば、最近問題にされている資源の再利用の考え方も、不要になったものをリサイクルして資源に戻せば良い、という考え方です。 しかし、昭和30年代までの電化製品は、修理が比較的簡単にできる設計になっており、機能しなくなった部品のみ交換すれば、再利用が出来ました。 いま行われているWindows11へのバージョンアップに対応できないノートパソコンは、ほとんどは部品交換で対応することができず、液晶も含め使えなくなります。しかし、リサイクル法があるからそれで良いとされています。年配者はそれでも「もったいない」と思います。 日本の1960年前後の設計思想や生活スタイルの基本は、「もったいない」だったように思います。近未来、単に部品交換だけでなく、性能アップの部品交換ができるようになるとよいのですが(自作のパソコンは、いろいろ対応できるようですが)。 記憶にしても、自分が溜め込んだ情報記憶も、新部品交換のようにして、情報を多彩に追加・入替、新しい発想ができるようにしたいものですね! |
相模原 西部 鎌倉幕府や北条氏の保護が「無量光寺」
1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。 一遍は、伊予国の豪族・河野通広の子。河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。 十三歳で九州におもむき大宰府の寺に入る。岩窟に日を過ごすこと六カ月、おもむろに山を下りた一遍は、家を捨て、妻子を捨て遍歴の旅に出た。 そして、五十一歳で他界するまで、その旅をつづけることになった。 |
言葉の発達こそ感受性世界の入り口!
むかしは「環境に適応する能力」が、最も重要な能力だったのでしょう。しかし、現在は言語による知識になっています。それも記憶力が重視されていました。 最近は、言語による知識には変わりありませんが、ネット検索やデータベースによる知識になってきました。 その結果、情報を組み合わせながら、より深い知識、固定観念を打ち破る知識などにシフトしつつあるようです。 しかし、情報を組み合わせ活用するために必要とされる能力は、言葉と同時に、環境に適応するために養った経験なのでしょう。子供時代に多くの大人と接した体験、自然の中で遊んだ経験などが大切になるのでしょう。 ところで日本語は抽象的な能力を身につけることに適しているのでしょう。似たような言葉がたくさんあり、また、同じ言葉でも、意味が異なっていたり、また、例えば「ニオイ」でデータベースを検索すると、「……において……」などが出てきて、もとの「臭い」とはまったく違った発想にたどり着いたりします! |
福山 鞆 鞆城二ノ丸の跡地に再建された「地蔵院」
鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。 1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。 |
苦手な相手とうまくやる方法!
苦手な相手は、やはりいるものです。このような人にうまく対応するには、子供のときから慣れておく必要があります。というより、子供のときに、出来るだけ多くの大人と接する経験が大事です。小学生くらいの子供時代は、自分の思っているとおりに大人を動かすことは難しいことです。そうすると、自分が工夫して、その大人とうまく付き合うしかないのです。その経験が大事です。 違った視点で捉えると「いいかげん」に付き合うことです。出来ればそれを「良いかげん」に切り変えられれば最高です。この能力を身につけるには、子供時代からの長い経験が必要です。 人類始まって以来の「核家族化」、子供時代に多彩な大人達と接する機会が少なくなっている今、なかなか難しい問題ですね! |
江の島 台湾近代化の尽力者児玉源太郎を祀る「児玉神社」
明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、児玉が生前、江の島を非常に愛していたことから、この地に神社が創建された。 児玉公は江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により1917(大正6)年官許を得て神社創建を決し、後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立され、1921(大正10)年主要な社殿が建立され、7月御鎮座を了えた。1940(昭和15)年県社に列し、公の遺徳を慕う人々の奉賽が多かった。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。 |
ジャガイモと大航海時代!
大航海時代は、南米で「じゃがいも」を見つけることができたので、壊血病にならず、健康で航海ができるようになったのですね。 ヒトの繁栄の原点に「料理」があります。いろいろな食材を加工し、ヒトの口や消化器官に、適応させる料理ができるようになり、ヒトが生きていくことが出来るエリアが圧倒的に広がりました。そしていつの間にか「うまい」とか「まずい」とかしか考えなくなりました。 しかし、半世紀で地球人口が二倍になり、温暖化がはじまり、食糧問題が浮き上がってきています。大昔、ヒト族が亡びるかどうかに直面していますが、また、真剣に対応しなければならない状態に、近づいてきているようですね! |
1936年に建立が始められた「耕三
耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。 |
海底で活動する火山の噴火はわかりにくい!
いま沖縄に軽石が流れ着いています。海底で活動する火山については、ほとんど関心がありませんでした。でも、よく考えると陸上より多くの火山が、海底で活動していてもおかしくないですね。 海底火山は海水で覆われているので、噴火があってもわかりにくい。そのため関心を持ちません。しかし、縄文時代に100m海面が上昇する前は、火山島がたくさんあったのでしょうね。そういえば、数千年前に海面が100m上昇していたのですね。すると、いま海面上昇で大騒ぎしていますが、縄文時代の人達は、どのように考えていたのでしょうか? |
鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ
白旗神社手前の道を右に入ります。 途中の法華堂跡は、三浦市一族が宝治合戦(1247年)で、自害、討ち死にしたところ。毛利氏や島津氏は三浦氏に加わり、多くが死んだ。 一族の最後の場面では、「自害した人の顔を削いで、誰の死体か分からなくしよう」という提案もあったとか(そうはしなかったが)。 当時の武士の、過激な生き様がしのばれますね。 |
体温が1度下がると免疫力は約30%低下!
新コロナのため、体温測定を頻繁に行うようになりました。体温の変化がどのようになっているのか、いままで自覚していなかったのですが、体温は免疫にも関係しているようです。体温は2度の変化でも、人間にとっては大きな影響があります。 地球の温度変化は、「パリ協定」で「工業化以前(1850~1900年)とくらべた世界全体の平均気温の上昇を2℃より十分低く保つこと」となっています。これは、人間の体温で考えると、許容の範囲外ですね! |
尾道 浄土寺山、鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ
この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。 写真は 2013年~2014年の落石対策工事前です。 鎖場が1番から3番あり、1番が一番長く、3番は“腕の力”だけで登る箇所もあります。 ほぼ斜面を真っ直ぐ登りますので、かなり急斜面を登ることになります。 各鎖場は、横に迂回もできますが、山道として整備されてはいません。 |
だらしなく聞こえやすい音!
人に会う機会が少なくなり、話す機会も少なくなっていますね。現在はNET検索が音声入力ができるようになっており、発声練習に使っても良いのですが、単語入力が主力ですので、あまり発声の練習にはなりません。あとは、音声での文字おこしもあり、こちらは長文でも大丈夫です。何らかの工夫が必要ですね! |
厚木 反乱の鎮圧などに霊験、各地へ「八幡神社」
八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。 本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。 八幡神は、もとは九州の航海系民族の神さまで海神でした。「八幡」は船に立てるたくさんの旗を表わす言葉でしたが、その後、大分県の宇佐八幡宮を本宮として、八幡神(応神天皇の神霊とされる)を祭神とするようになったのです。 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。その後、源氏の勢力拡大にともなって、八幡信仰も各地へと広がっていきました。 |
「思いやり」は自分に戻ってくるもの!
自然に自分の中から出てくる思いやりと、世渡りのための思いやりが混在するのが世の中です。オレオレ詐欺には「やさしさ」を利用するものもあるようです。この二つを見分けながら、世渡りをすることが必要です。同じ人でも、この二つを使い分けている場合もあるのでしょう。どちらにせよ対応ができる準備をした上で、「自然に自分の中から出てくる思いやり」として、付き合いができる心構えができると良いのでしょうね。 |
福山 鞆 加藤清正公を祀るお堂があった「法宣寺」
1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が、この地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。 |