開基は鎌倉時代の一遍上人と伝わる由緒ある時宗寺院です。元は沖見堂(沖御堂)と称して鞆港に近い西町にありました。「沖見堂」の名称から、航海の安全を保つ灯台の役割を果たしていたのではないかという説もあります。
寺領も広く、境内に五坊を有する大伽藍でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収され、その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで町の北の端にあたる現在地に移転しました。江戸時代を通して、朝鮮通信使の定宿でもありました。
2020年のアーカイブ
求めたいものは一つに絞る!
社会が変化せざるを得ないとき、やはりお金のことを考えてしまいます。昔の人はどうだったのでしょうか? 生きて行くには「食べ物」だったのでしょう。食べ物を求めて、アフリカから全世界に移動していったのでしょうから。今の日本は、過疎化が進み、休耕田や昔は畑だったところがあちこちにあります。テレワークと組合せ、昔の半農半漁のように、半テレ半農の生活様式は広がっては行かないのでしょうか?
鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」
勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまつられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。
正直者が損をする世の中と考えていませんか?
社会の中では、実態はともかく「正直者がバカを見る」と思われているようです。しかし、気がつかないようですが、全体的には正直者は信用を得られ、よい人生を送ることができているのでしょう。ウソをついたり・正直であったり、都合よく生きている人達が、たまたま正直のなときに被害に合うと、「正直者がバカを見る」と思ってしまうのでしょう!
厚木 花の寺百ヶ寺神奈川6番札所「長谷寺」
「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音)は厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、白山の中腹に位置している。
神奈川景勝五十選、花の名所百選にもなっており、参道、境内、桜の広場には約二千二百本もの桜の木があり、春にはお花見客でも賑わう。
また、本堂裏側より登る白山森林公園ハイキングコース頂上展望台からは関東平野を一望でき、正面に横浜、左手に東京新宿を見ることができる。
「性根が腐っている」と言わなくなりました!
最近は「性根(しょうね)(行動・言葉などのもとになる、根本的な心の持ち方)」という言葉を聞かなくなりました。「性根が腐っている人(ばからしきほどあどけない人)」が、目立つようになってしまったようです。SNSの普及で、批判的な書き込みを見た人が、オレも、と、余り考えないで書き込んでしまい、拡散するのでしょうか? 書き込みをした人が分かれば、それなりの批判を受け、世間的な制裁になるのでしょうが、現在は厚い壁があるようです。しかし、他人に害をおよぼすようですと、やはり対策が必要なのでしょうね!
尾道 昔の人が愛した景色の「文学記念室」
庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されています。
1912年~1928年かけて増改築され現在の形となっています。
福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。
日本人は縄文の昔から寄生虫と共生していたが?
寄生虫は、科学万能になった現在、悪いものとしか認識されていません。この所見直しされているのは「腸内細菌」です。「細菌」と言われると、悪いものと思ってしまう人が多かったと思います。まだ、寄生虫と腸内細菌との関係はわかりませんが、なにかしらあるのでしょうか? 大昔から、腸内最近と寄生虫は同居していたのですから、人類の生き残りになんらかの関係はしていたのでしょう!
鎌倉 日蓮宗最古の三寺院の内の一つ「妙本寺」
身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院。創建は1260年。
この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。
すぐに耐性菌が出現してくる!
病気の遺伝子と人間の遺伝子は相性があるのですね。人類の長い歴史の中で、細菌やウイルスの遺伝子と、人間の遺伝子の相性で、生き残ることができた人達が現代人なのでしょう。また、最近は「DNAのスイッチが運命を変える」言われており、病気にかからないような行動するスイッチが、ONになる人が生き残っていくのでしょうか。日本人は、このスイッチがONになる人が多いのでしょうか?
尾道 旧市街がよく見える「海徳寺」
1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。
言い訳は疫病神なのです!
「現状をキチンと、モレなく把握する」ための能力は、どのようにして身につけるのでしょうか。子ども時代は、自然の中で遊び回って、観察し、発見し、また、この程度を越えるとケガをするとか、などの体験を重ねることなのでしょうね。これは、テストで良い点を取っていても身につきません。大人になってからは、現場改善などでトヨタがやっていた活動のやり方も一つの方法なのでしょう。「現状把握」といって、徹底的に現状の情報を、これでもか、これでもか、というほど集めることに9割以上の時間を使えば、結論は、残りの数パーデントの時間で出てしまう、という、徹底的に現状を把握する方法です。言い訳や悩んでいる時間があれば、徹底的に現状を把握することが良い方法なのでしょう。社会の混乱期には、現状把握は重要で、知識は最後の最後に参考にすればよいのでしょう。そうすれば「言い訳」はいらなくなります!
座間 星の谷観音堂として建立された「星谷寺」
行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたも。
星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中ののことと思われます。
この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。
「意味記憶」と「エピソード記憶」!
やはり同じニュースを見てしまうことがあります。「なにかしら不足情報があるのでは?」と思ってしまいます。とくに新コロナに関する情報は、専門家と言われている人達から発信される情報に、疑問を感じてしまうからでしょうか。しかし、ずっと前の情報はともかく、ここ数日間に発信される情報には、それほどの違いはありません。自分に不安があることに関しては、何回もニュースを見てしまうのでしょうか?
福山 鞆 見事な石造物が 「阿弥陀寺」
永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。
男の子のポカポカケンカはいつの間にか解消する!
男の子のケンカ防止のため、イジメにシフトしてしまったのでしょうか?
その延長で、マナーを守らないイヤなメール発信につながっているのでしょうか?
その結果、男の子のケンカのやり方の、しつけ(指導)の方法が忘れられてしまったようです。むかし母から指導されたことは、「首から上を殴ってはいけない」、「飛び道具(弓矢、ぱちんこ(ゴム銃・スリングショット)、人に石を投げる、など)は禁止」、「チャンバラは新聞紙を丸めたものでやれ」とかと、しつけられました。特に、”間違っても目にケガをさせてはならない”という原則がありました!
海老名 この辺の伝説[彦六ダブ]の「龍昌院」
「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。
人をイラつかせる人がいる!
人をイラつかせる人がいます。が、以前は顔が見えていました。しかし、SNSの時代になり、顔も名前も見えなくなりました。その結果、過激な情報発信でありながら、社会からの、発信者に対する避難もできなくなり、情報発信者は自制もなく、社会からの非難も届かず、ますます過激になりました。むかしは、「村八分」という制度があり、「火災」と「葬式」以外のつきあいを断絶していました。そのおかげで災害の多い日本で、集団として生き残ってきたのでしょう。なんらかの新しいしくみが必要なのでしょう!
鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」
この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。
農耕を始めたののは人類の歴史の約0.1%程度(約1万年前)!
糖質は脂質およびタンパク質に対してよばれる。主要なエネルギー源の一つなのですが、日本では多くの人達が、50年ほど前から食糧事情が良くなってきました。すると、大人になってからも、食べ過ぎることが(食べ過ぎているとは思っていないが)普通になってきました。ホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけて進化したようですが、長い間、多くの人達は飢餓の時代を過ごしてきました。ほんの50年前までは、多くの人達は腹一杯食べられることはなかったのでしょう。100年ほど前に生まれ母親になった女性は、子供達にできるだけたくさん食べさせ、自分は少し食べるのを我慢していたように感じました。しかし、飽食の時代になったのは良かったのでしょうが、歳を取り病気と共存する人達が増えてきました!