鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」

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 1334年(建武元年)、足利尊氏の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼が建てたという説もあります。
 開山は、仏乗(ぶつじょう)禅師ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。
 報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏の子義久が永享の乱で自殺したのはこの寺です。

同情するものは強者だ!

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 他人を支援するとき、昔は「同情」が基本になっていたのではないでしょうか。財力があるひとなどが、才能があるが貧乏な人を支援する、といった場面が多かったのではないでしょうか。別宅に泊まれらせ絵を描いてもらう、学費を支援する、楽しませてくれた芸人の引退後の生活を支える、といった立場が上の人が、下の人を援助することが基本だったのでしょう。ボランティアが始まった以降は、同じような立場の人が、被災した人達を支援する、といった傾向に変わっているのでしょう!

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

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 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

聖徳太子の願掛けで勝利!

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 仏教の伝来は、政治の権力闘争の材料でした。仏教の教えが権力闘争に有効だったのか? 寺院や仏像が有効だったのか? どうも、寺院や仏像が有効のだったような気がします。教えという抽象的な概念は、ある程度仏教が理解されていないと、有効にはならないでしょう。しかし、寺院や仏像は見せ方で、有効な権力の象徴になります。古びたお寺が修理され、朱色に塗り直されると、圧倒されるようになりますね!

福山鞆 「こがらっさん」と親しまれる「小烏神社」

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 小烏神社は、地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれている神社。福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造りました。その中心にあるのが小烏神社です。創建の年代はよくわかっていませんが、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれています。

ずっと着物で過ごしてみると!

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 歴史を大切にすることが、安全と平和につながっているのでしょう。着物の着方も中国がもとになっているのですが、中国の文化は政権が変わると、前政権の文化を全否定する文化なので、平和が長続きしないのでしょう。ところで、「右前」とは、「右側を先にからだに着ける」ということなので、外側から見ると、左が前(上}になっているのですね!

鎌倉 夢窓国師が瑞泉院を建立、その後「瑞泉寺」

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 開山は夢窓国師(疎石)で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬られました。以後鎌倉公方代々の菩提として栄え、関東十刹に名をつらねました。
 発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。

雨による災害が増えている!

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 自然災害が増えてきました。クルマで動いていると、地形やその地域で暮らしてきた智慧を学ぶことはできません。伝説や言い伝え、歴史などと、それが関わる場所や地形の結びつきを思い浮かべながら歩いき、また、昔からある神社やお寺をたずねていると、その土地の安全性や水の確保など、昔の人々の智慧が見え始めてきます。知識からの学びでは、なかなか感じられなかったものが、感覚的に「そうなのかな……」と、感じ取れるようになるようです!

尾道 むかしは入江だった「磯の辨天神社」

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 磯の辨天神社尾道市久保一丁目  標高:7.6mウォーキング地図へ 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。

知っているだけでは役に立たない!

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 知識中心で学ぶと、体験、経験のないまた、知識と知識を組み合わせ、未来のことを考えてしまいます。その時、マイナス思考になることもあります。経験がないので、より悪く考えてしまいます。楽天家は、先のことはあまり考えません。いま現在に生きています。子供時代から自然の中で遊び回っていると、多彩な自然に適応することが優先するため、いま現在の状況でどうするか、これを身につけていきます。考えすぎる人が、座禅で「無」の状態になることで、現状認識ができるようになることと、似ているのでしょう!

鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」

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1274年の創建。開基は北条氏の家臣・宿谷光則(やどやみつのり)、開山日朗上人。
 開基の宿谷光則は、日蓮が佐渡に流罪になったとき、ともに捕らえられた日蓮の高弟日朗を幽閉し監視する任についたが、日朗は自らの不運を嘆くことなく、弟子の案ずる姿に心打たれた光則は、後に日蓮宗に帰依し、屋敷を寺にしたといわれる。
 1650年建立の本堂の中には非公開ではあるが、日蓮、日朗の坐像が安置され、境内の後山には日朗が幽閉されたという土牢跡が残っている。

完壁な人を助ける人はいない!

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 一生懸命やっているが、なかなかうまくいかない人を見ると、何か手伝いたいと思います。人類の歴史の中で、1人、あるいは、数人では、なかなか生き残っていくことが難しかったからでしょう。いま生き残っているホモサピエンスより、脳が発達していた人類も、集団の形成がうまくできなかったため、滅亡にいたっています。自然災害が増えている時代、ホモサピエンスが生き残って行くには、助け合いが必須なのでしょう!

尾道 応神天皇が海から上がった「亀山八幡神社」

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 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬したとされている。
 神社としての創建は貞観年間(859年~877年)と伝わる。当地は京都から宇佐八幡に勅使を派遣する際のご参詣及び宿泊の地となり、当地を亀山八幡宮として祀ったという。
 境内には一対の灯篭「軍配灯篭」や手水の水盤の牡丹の彫刻が見事とされている。

自分が思っている世界しか見えないもの!

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 多くの人は、自分が見たいものしか見えてはおらず、その見えている世界がすべてです。その見える世界をどのようにして広げていくか、を工夫するしかないですね。工夫していかないと、歳とともに、どんどん見える世界が狭くなってしまいます。悟ることができれば別ですが、それは、もっと難しいことなのでしょう!

鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」

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 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

こんなところに家を建てちゃいけませんよ!

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 神社の本殿の多くは、地形的に安全なところにあります。むかしの人達の智慧ですね。「風水=風と水」からの災害に備えていたのでしょう。古くからある家も、数メートル高いところにあるところが多いようです。クルマ社会になり、平地や大規模開発の土地に家を建ててきました。法律も4m幅の道路を強制し、そのため、斜面を大幅に削り埋め立ててきました。土木機械の発達もあり、「便利」を優先させました。学校の地理の教育も、土地の安全性に関することは教えませんでした。田舎で、雨が続き崩れた斜面を見たとき、地表から2m程下に30cm程の粘土層があり、そこに手を拳にして押し込むと、ズブッと入っていきました。乾いているときは金槌で叩いてもびくともしないのに。こんなことは誰も教えてくれません!

生口島 島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願「向上寺」

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 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。
 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

ランドマーク的なタワーが見える!

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 タワーや建物の高いところからの眺めは、気持ちが良いですね。ただし、高いところが苦手な人は、山から眺める方がいいですね。地上から50m~100mほどの山からでも、町並みや夕やけなどを見れば、気持ちがゆったりとしてきます。それに、自然にも浸り、よりリラックスできますね。健康にもいいですし!

鎌倉 祇園天王社と呼ばれていた「八雲神社」

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 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

人と話をしなければならないとき!

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 初めて合った人や、顔は知っているがあまり付き合いのない人と話すとき、話題が豊富であれば気楽ですが、そうでないときは、やっかいですね。基本は聞き手に回ることですが、できれば年齢とともに知識・情報の範囲を広げておき、対応力をアップしておくことも大事なことなのでしょう!