子供の時から自然の中で育つと、観察する力・感覚が育ちます。人に会ったときにも、この感覚は有効です。また、まわりの環境変化にも敏感になります。後から自転車が来ても、見えていないにもかかわらず、危ないと感じスッーとよけられることもあります。自然災害が異常化しているとき、このような感覚を鍛えることは大事ですね!
2018年のアーカイブ
鎌倉 諏訪一族の屋敷跡と伝える場所「諏訪神社」
現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。
マイナスをひた隠しにすると!
「謙遜」ということを、対人関係の一つの手法と考えれば、理解しやすいようです。と同時に、状況にあった正しい使い方が、できるようになるのでしょう。もちろん、状況によっては不適切な使い方もできますが!
尾道 観音さまを盗む民話がある..「光明寺」
【民話 光明寺の観音様】
むかしむかしのことよ、この尾道にの、わりい(悪い)男がおってのう。光明寺の観音さまは小まい(小さい)けど、金ぴかに光っとりなさると聞いて、男はいっぺん観音さまを拝みに行こうと思うたんよ。ほんまはその男、金ぴかが気になったんじゃけどの。
ある日、男は光明寺にでかけたんじゃ。お寺参りの人にまじって、本堂に上がったんよ。ありがたい観音さまの前にゃあ、お供えがえっと(たくさん)してあった。
「ほんまこりゃあ、きれえな観音さまじゃ、それに小まいのう。これならわしのふところに入れられるじゃろう」………
確かに子育てはたいへんです!
ゴリラやチンパンジーなどの子育てのやり方、情報が少ないように思います。また、人間の100年前の子育ての情報も、少ないように思います。人類が生き残っていくためには、どのような子育てが良いのか、ほとんど意識されていないようです。100年ほど前までは、子供が成人する確立はそれほど高くなかったのでしょう。昆虫の命が短いのは、短期間に自然環境の変化に適合した個体を残すため、その生き残り作戦が成功していたのでしょう!
鎌倉 もとは新居の閻魔堂というお堂「円応寺」
新居の閻魔堂は、知覚禅師が1250年(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明神社の近くの「由井郷見越岩」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。材木庵の九品寺の近くに「新井閻魔堂址」の史跡案内の石碑があります 。
新居の閻魔堂はその後、1703年 (元禄16年)に地震や津波でお堂が壊れたので、まもなく現在の場所に移されました。
約束を反古にすると!
本来、家族とは「同じ家」に暮らす人々であり、必ずしも血縁が必須というわけではないようです。核家族では大人が少ないため子育てが大変です。最近、シェアハウスでの子育てがテレビで紹介されていました。新しい形の家族が出来はじめています。小さな時から、多くの大人と接することが出来れば、自立した大人になることができるのでしょう!
座間 伊勢の神輿が漂着し社を創立した「鈴鹿明神社」
欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
本番になると「いつもの力」がでない!
緊張する場面、いろいろな対策が言われていますが、緊張をほぐすことは難しいですね。それなら、緊張したままで(相手に緊張していることが分かっても)、適切な対応ができるといいですね。それが訓練なのでしょうか!
鎌倉 北条政子の法名が寺名になった「安養院」
安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺がありましたが焼失しました。北条政子が亡き夫源頼朝の冥福を祈って、笹目(ささめ)に建てたともいわれる長楽寺が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。
リスクを消化できる人!
「自己責任」が強調される最近の世の中、一方では「子供のことは学校にお任せ」、なにかあればみな学校が悪い、という世の中。そのなかで大人になった人たちに困難が訪れると、過去にはなかった異常な対応が起きてしまうことがある。ストーカー、自殺、自殺の補助や集団自殺といったことも起きている。半世紀も続くとこんな世の中になってしまうのですね!
尾道 「五重塔から三重塔へ」珍しい「天寧寺塔」
ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
自然に適応して生きる!
とうとう環境破壊のつけが来たようです。江戸時代の人口が三千万人位、自給自足が可能だった。技術の進歩でどれほど増やすことが出来るのでしょうか? 自然エネルギーでどの程度の人口を養えるか、という問題になるのでしょう。それと、平野は食料生産の場所に、山の麓が住宅地に、といった発想も必要なのでしょう!
鎌倉 鎌倉で最も古い天台宗の寺『杉本寺』
731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。
その後、光明皇后は夢の中で、
「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。
瀬戸内海沿岸は!
瀬戸内観沿岸は、歴史的には日本での商売・情報・外交の中心地域。しかし、いまは東京が中心になっていす。東日本の風土は、我慢強く、トップの施策を忠実に実行する風土があるため、多くの大企業は、組織運営が楽なため、東京に本社を移してきた。大量生産時代はそれで成功してきたが、バブルがはじけた以後も、同じ発想で組織を運営してきたため、長い停滞がつづき、大会社が大事故を起こしたり、品質をごまかしたり、そんな現象がおきている。トップが苦労しないと、下の者がうごかない大阪などの西日本では、いろいろな視点の持ち主が共存しているので、そこに目を向けるトップがいれば、変化に対応できるのでしょう!
尾道 林芙美子の母校「尾道東校」
【林芙美子 高等女学校時代】
ほんの腰掛のつもりで足を止めたこの尾道という海岸町に、私は両親と三人で七年ばかり住んでいました。この町ではたった一つしかない市立の女学校に入りました。女学校は小さい図書室を持っていて、………ホワイトファングだの、鈴木三重吉の「瓦」などを読みました。
原因不明の病気だった「脚気」!
いまは「脚気(かっけ)」と聴いても、何か分からない人が多くなっていることでしょう。親から聞いたことがある世代は、もう高齢の世代が中心で、病気にかかった人は、もうほとんどいない時代なのでしょう。しかし、忘れ去るということは、注意を払わなくなるということ。危険の認識ができないということなのでしょう!
鎌倉 横須賀線施設で廃寺となった「辻薬師堂」
もとはJR横須賀線の名越のトンネルの西の谷にありましたが、後にこの地に移されました。横須賀線が敷かれたとき、その線路が境内を横切ることになり、本堂が取り壊されて廃寺になり、薬師堂だけが残ったということです。
また、一説によると、長善寺は江戸時代に焼失し、薬師堂だけを残して廃寺になったともいわれています。
余裕がなくなるとまわりが見えなくなる!
「主観的な欲望が強い」、「思い込みがひどい」、「専門バカ」など、自己愛が強い人もいます。「周りが見えない人」ということになります。都会で暮らすのなら、それでもよいのでしょう。しかし、自然災害が増加する昨今、周囲の人がよく見えるようになっておかないと、助けてもらえず、災害死の危険率が高くなってしまいます!
尾道 二年ほど住んだ「志賀直哉旧居」
志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
志賀直哉は、夕方になると八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか?
そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。