上手に感情表現できない!

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 「負の気分」のとき、その負の気分を“悪い状態”と、とらえるようになったのでしょうか? やはり、人間の“生き残りに作戦”の影響があるのでしょうか? それとも、人間が“集団”で生きるようになって、その集団の中で、より有利に生きるために生じた機能なのでしょうか? どこかに研究した報告があるのでしょう!


厚木 樹齢約500年のクスノキ「妻田薬師院」

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 伝承によれば、本尊薬師如来座像は聖徳太子自身が彫刻されたもの、また脇侍仏の日光、月光両菩薩は運慶の作といわれています。しかし、この仏像も永禄12年(1569)、武田信玄が関東地方に出陣したときお堂が兵火にあった際焼失してしまったようです。現在の薬師堂は、18世紀中期に再建されたもので、本尊の薬師如来座像は天正7年(1579)武蔵国の住人・長野伊像之祐という人が寄進したものです。その後、お堂は数回にわたって修復されています。


努めて聞き役に徹する!

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 テレビで見かけるアナウンサーの方、特に女性のアナウンサーの方の表情や動作は、素晴らしいですね。でもなかなかアナウンサーのレベルにはなりません。日本人は、昔ながらの「以心伝心」から抜け出せないのでしょうか。ただ、昨今は外人の方々を見かけることが多くなったので、そろそろ表情や手の動作などがゆたかになっていくのでしょうか!


厚木 平家の落ち武者が祀った「春日神社」

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 コノシロを食べない村(南毛利地区


 温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。


ほめられて効果が高まる言葉を!

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 核家族が一般化しています。そのため、日頃の生活で、子どもが大人と接するのは、両親と先生だけとなりました。この両者は子どもに対する実務的、といったような話が中心です。無駄話がほとんどありません。その結果、その地域の方言や風土といったものに対する会話が激減しています。子どもの視野が、子どもにとっての実務的なものだけになっています。都会においては特にそうでしょう!


尾道 「天神坊」とも呼ばれた「大山寺」

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 古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐の頃には既に開かれていたと伝えている。
 901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。


古代、氷と水晶は同じものと!

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 クオーツ時計は、セイコーが1964年の東京オリンピックに壁掛け時計並のサイズまでになんとか小型化し、その時計を大会公式時計として提供、実用に耐える技術水準を達成したのでした。1967年、世界初のアナログ回路を用いたクォーツ腕時計のプロトタイプが登場。世界初の市販クォーツ腕時計は1969年のセイコーによって提供されました。ただし、価格は小型自動車並みだったようです。


鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

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 もとは真言宗の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(なかよし)。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
 その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(うじみつ)の命により、上杉氏定(うじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺に属し、現在に至っています。

最後に富士山が噴火したのは!

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 災害時の防災用品の準備が叫ばれていますが、「現金」の準備については、あまり言われていないですね。噴火災害の時は、電子機器がまったく使用できないため、カード類は一切使えません。もちろん仮想通貨も使えません。噴火以外の災害でも、多くの場所で停電になるため、「現金」の備えは必要ですね!

厚木 鋳物師が活動に因んでいる「鐘鋳神社」

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 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)
 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。
 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」
としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。

多くの男の子たちは大人になりたくない!

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 核家族での子育ては、子供の成長に関する問題で手一杯です。その中で育つ子供は、いろいろな刺激や体験、情報が少なくなります。祖父や祖母からの情報がとぎれ、地域の風土や方言なども失われていきます。視野が狭くなると、何かに悩んだときに、相談する相手も、視野が狭い同年代の子ということになり、当然、それから抜け出す手立ても、見つけにくくなります。また、共働きになると、子供に手が回らないため、少子化になってしまいます。厄介ですね!

厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」

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 1603年、八王子滝山大善寺出身の専蓮社念譽存貞上人のもと、神奈 川県座間市新田宿の地に創建された。寺号「専念寺」はその開山上人の法名から名 付けられたと言われている。
  本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音菩薩・勢至菩薩。境内には聖観世音菩薩、六地蔵等がある。境内入口右手には瘡守稲荷社があり、江戸時代から大正時代にかけて広 く信仰が始まり現在に至る。

いつかは別れる日が訪れる!

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 江戸時代の初期、五代将軍綱吉が将軍になるころ、病人は捨てられていたようです。家族だけでなく、旅先で病気になると、旅籠から簡単に捨てられていたようです。もちろん、辻斬りもあったのでしょう。「死」という概念が随分異なっていたのです。その視点と踏まえて、歴史を見ていく必要がありますね!

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

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 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。
 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。

縄文の昔から寄生虫と共生してきた!

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 戦後生まれの人は、「寄生虫は害しかない」という思いが定着しています。しかし、多くの寄生虫は、宿主が死ねば、共に死ななければならない運命のため、宿主とうまく共生する機能を持っていたから、生き残ってきたのでしょう。もっと「正の効用」に目を向けなければいけないのでしょう!

厚木 馬の安全とその供養の「七沢観音寺」

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 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。

トップを目指すのならば!

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 「忖度」という言葉が定着してきました。しかし、大昔より組織内での出世を目指すなら、上司の顔を見て、ご機嫌伺いをしながら仕事をすることが常識。
 官庁の人事を、2014年より官邸主導で行うようになり、より大臣などの顔色を伺う必要性が高まった結果、「忖度」が定着したのでしょう。
 いまの国会での野党の政府追及は、法律を整備する国会議員の役割から言うと、制度・システムの不具合を追求すべきなのでしょう!

尾道 尾道で最初にできた神社「艮(うしとら)神社」

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 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。

「頑張ります」は、“何をどうする”に!

 「頑張ります」と言うタイプと、まったく言わないタイプの人がいます。「頑張ります」と言っている段階では、まだ原因の追及ができていないのでしょう。もっと「どうしてだろう?」と、何回も、何回も、考えるクセがつくと良いのでしょう!

鎌倉 北条方の戦死者を弔う「九品寺」

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 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
 1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。『太平記』
 鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。